(筆者撮影)

静岡県は「缶詰王国」と呼ばれる。

静岡と聞くと、サッカー、お茶、わさび……そうしたイメージを思い浮かべる人は多いと思うが、実は缶詰産業が盛んな地域であることは、あまり知られていない。特に、駿河国と呼ばれた静岡市を中心とした静岡県中部はそのメッカであり、清水食品株式会社、はごろもフーズ、伊藤食品といった有名企業も静岡市に本社を置くほどだ。

「弊社は業務用なども含めると、700〜800種類の製品のラインナップがあります」

そう、はごろもフーズが話すように、各社が多種多様な缶詰を製造し競い合う。静岡県中部は、百花繚乱ならぬ“百缶繚乱”の様相を呈しているのだ。

それにしても、なぜこの地域が缶詰製造の一大産地になったのか? その歴史は深い。

清水港が重要な輸出拠点に

静岡市清水区港町――。清水港のほど近くに、“船と港の博物館”をコンセプトとした「フェルケール博物館」はある。フェルケールとは、ドイツ語で交通の意。「缶詰の背景に、清水港は欠かすことのできない存在」と語るのは、同博物館の学芸部長・椿原靖弘さんだ。


フェルケール博物館の外観(筆者撮影)

「ご存じの通り、静岡市はお茶の一大生産地でもあります。清水港は、アメリカに向けてお茶を輸出する港として栄えていた時代がありました」(椿原さん)

開国後、お茶は生糸と並ぶ重要な輸出品目となった。明治15年(1882年)には、日本茶生産量の82%が輸出向けで、主な輸出先はアメリカだったという。

明治22年に東海道線が開通すると、お茶の輸送は海運から鉄道へと移行。この変化を機に、清水港から直接お茶を輸出する運動が活発化していく。

明治32年、清水港は開港場に指定され、近代港湾として生まれ変わり、明治41年には神戸港を、明治42年には横浜港を抜き、清水港は日本一のお茶を輸出する港となる。大正6年には、全国茶輸出高の77%を占めていたというから驚きだろう。

当初はお茶を輸出していたが…

このとき、日本茶を輸出する際の茶箱に貼られるラベル「蘭字」という独特な文化があった。さかのぼること江戸時代、日本の大きな輸出先がオランダだった。そのため、ラベルにアルファベットが書かれているものを蘭字と呼ぶようになったそうだ。

「現在の静岡市域にも浮世絵職人たちがいました。また、清水港から直輸出が始まると横浜の職人も静岡に移ってきました。明治時代になると浮世絵文化は下火になっていきます。そのため、彼らの暮らしを支える意味でも、蘭字の存在は大きかった。お茶の輸出が、さまざまな人々を下支えしていたんですね」(椿原さん)

浮世絵職人によってデザインされた蘭字は、日本のグラフィックスデザインの先駆けとも言われている。その洗練された妙技は、フェルケール博物館で確認することができるのだが、モダンかつポップなデザインは、現代でも通用するだろうオリジナリティを備えている。


個性豊かな蘭字のデザイン。茶箱に貼られ輸出されていた(筆者撮影)

清水港は、名実ともに日本一のお茶の港だった。ところが、アメリカで紅茶やコーヒーの需要が増えると、次第にお茶の輸出は低迷していく。

紅茶と緑茶は、どちらも同じ茶葉から作られるが、前者は茶葉を完全に発酵させることで作られる。対して後者は、茶葉を摘み取った後、すぐに加熱処理を行い、発酵を防ぐ。流通技術において紅茶のほうが品質保持に有利なこと、さらには絹織物、綿糸といった他の産業が輸出品として台頭していたことが原因だった。

「このような状況で、2つの解決策を考えていました。ひとつは、アメリカ以外の国=アフリカや西アジア地域に茶葉を輸出すること。もうひとつは、新たに開発したツナ缶をアメリカに輸出することでした」(椿原さん)

日本でツナ缶を製造するように

約200年前の1804年、フランス人ニコラ・アペールによって初めて瓶詰が発明され、その後、缶詰は考え出されたと言われる。日本では明治10年、北海道で日本初の缶詰工場が誕生し、同年10月10日にさけの缶詰が製造されたという。そのため、10月10日は「缶詰の日」として制定されている。

では、ツナ缶の誕生はいつか? 諸説あるものの、1903年にアメリカ・カリフォルニアで作られたものが世界初だと言われる。

ここ日本では、1928年に静岡県の水産試験場(現在の静岡県水産・海洋技術研究所)で製造予備試験を開始すると、その1年後にはアメリカへ輸出。1930年に清水食品株式会社、1931年には、後藤罐詰所(後のはごろもフーズ)が創業し、アメリカへの輸出を開始した。

はごろもフーズ専務取締役(当時)の川隅義之さんが説明する。

「1930年頃は、冷蔵冷凍設備が未発達でした。清水港で豊富に水揚げされるビンナガマグロを廃棄せずに利用するという意味もあり、ツナ缶を製造していました」

当時、日本人は少し白いビンナガマグロよりも本マグロを好んでいた。そこで持て余していたビンナガマグロを活用する――いわば、静岡のツナ缶は“もったいない精神”から生まれたわけだが、世界大戦の影響もあって、結果的に国内外の兵士の食料としても重宝されることになる。


ツナ缶だけでも多様な缶詰があるのが、缶詰王国静岡のすごいところ(筆者撮影)

戦時中、清水港は軍事拠点ではないものの、軍港としても機能していた。工場があって、東亜燃料工業(東燃ゼネラル石油の前身)もある。缶詰を作るために必要なものが揃っていたことも、この地域を缶詰製造の一大産地たらしめた要因だったという。反面、缶詰が大きな生産品となったことで、蘭字の文化はなくなっていくことになる。 

現在、ツナ缶の市場規模は年間で約800億円と言われている。国内産のツナ缶の98%は、静岡県(静岡市と焼津市)の会社によって製造されているそうだ。缶詰王国は、ツナ缶王国。だが、「それ以外にもさまざまな缶詰を作っているんですよ」と川隅さんは語る。

「たとえば、みかんの缶詰。まぐろのシーズンは4月〜9月の間ですから、夏以外にも工場を稼働させたい。そこで、静岡県はみかんの産地でもあるので、冬の期間である10月〜3月はみかん缶を作るようになりました。年間を通して工場の操業が可能になったことで、缶詰産業は静岡県の地場産業となっていくんですね」(川隅さん)

お茶からまぐろ、そしてみかんへ。静岡の缶詰には、歴史が詰まっているというわけだ。

缶詰が戦時中の雇用を支える

缶詰の製造で大事なことは、次の3つの工程だ。

1つ目が「脱気」と呼ばれる空気を抜くこと。2つ目が、空気や菌が入らないようにしっかり蓋をする「密封」。最後が、高い熱で缶の中の菌を死滅させる「殺菌」。この3つのプロセスを極めることで、缶詰は長期間の常温保存が可能となり、さまざまな食品を缶詰化することに成功する。

フェルケール博物館には、缶詰記念館という小さな建物がある。

「缶詰記念館は、日本で初めてマグロ油漬缶詰を製造し、アメリカに輸出した清水食品株式会社の創立当時の本社社屋を移転、補修したものです。言わば、静岡市の缶詰産業がスタートを切った建物です。昭和40年代になると、港周辺は整備され、港の風景も変わってきました。清水港の歴史を伝え広める、それがフェルケール博物館の理念でもありました」(前出・椿原さん)

博物館の一隅に目をやると、印象的な女性の顔をモチーフにした石碑が飛び込んでくる。


「最低賃金全国第一号」を記念した石碑(筆者撮影)

「戦時中は、缶詰工場でたくさんの人が働いていました。静岡県缶壜詰協会(1951年に静岡罐詰協会に改組)は労務協議会を設置し、戦後、初給賃金などを記載した『静岡缶詰協会員初給賃金協定』を締結します。最低賃金のはじまりであり、労働者のセーフティーネットを設けるという取り組みの先駆けでもありました」(椿原さん)

国会で最低賃金法が成立したのは、1959年のこと。その4年前に「静岡缶詰協会員初給賃金協定」が結ばれていたことを鑑みれば、静岡の缶詰産業が果たした功績は計り知れない。

小さな缶詰がこれほどまでに大きかったのかと缶嘆 (感嘆)する。缶詰の物流は、そのまま時代の流れを表していたのだ。たかが缶詰、されど缶詰。缶詰の世界は奥が深いのだ。

(我妻 弘崇 : フリーライター)