「ひめゆり学徒隊」を育てた沖縄の「ナインチンゲール」…ひたすら献身に生きた、その知られざる戦中と戦後

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沖縄戦を生き抜いた従軍看護婦長

太平洋戦争終結から79年が経過する。その末期に繰り広げられた沖縄戦では、住民を巻き込む激しい地上戦で約20万人もの犠牲者を出した。その、慰霊と顕彰、哀悼の心は沖縄県民だけではなく、日本とアメリカ両国民にとっても忘れることができない大切な歴史への儀礼であり、我々には記憶を未来に語り継ぐ使命がある。

沖縄戦を伝える書籍や資料は数多に存在するが、看護の視点つまり従軍看護婦の歴史はあまり知られていない。かの有名なフローレンス・ナイチンゲールの歴史が物語るように、いつの時代も戦争と看護には深い関わりがあり、沖縄戦もまた然りである。

そして、沖縄戦では、あまり知られていないことだが看護婦のリーダーといえる沖縄出身の女性の存在があった。眞玉橋(まだんばし)ノブ(以下ノブ)の半生を取り上げたい。

■小倉陸軍病院時代の眞玉橋ノブ(右下)

1918年、首里に生まれたノブは、準戦時体制下の女学校時代「祖国のために女性ができる唯一の道」と赤十字看護婦を志し、生涯の職分となる看護人生をスタートさせた。1939年小倉陸軍病院に招集されると日中戦争で中国大陸から絶えず運ばれてくる傷病兵の看護に昼夜を問わず献身する日々を送ることになった。

4年8か月の長い間、戦争の現実を目の当たりにしながらも、厳しい従軍看護の職責を果たし故郷沖縄へと戻った。招集解除後ノブは母校の衛生婦として後進に救急法等の指導にあたった。この時の教え子たちが沖縄戦の最後に悲劇的な最期を遂げる「ひめゆり」と呼ばれる沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校を中心とした女学生達である。

そして、1945年3月末、沖縄戦の開戦と同時にノブは沖縄陸軍病院の看護婦長に志願した。同じく看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」を直接指導しながら、不眠不休で負傷兵の救護看護に奔走することになる。

「決死の伝令」を志願

4月1日、米軍が沖縄本島への上陸を開始。激しい地上戦で、日増しに激増する傷病者の数は約3000人に及び。病院壕内外に溢れかえった。病院とは名ばかりの十分な灯りも滅菌器具もない壕内は、ウジやシラミなどが湧き、むせかえるような息吹とウミの悪臭に満ち、戸板を並べただけの二段病床には重症患者が重ねられ、まさにこの世の生き地獄のような状況であった。

沖縄戦の末期、南部撤退後の糸洲地区にある病院壕(第二外科壕)では、若き二人の看護婦による「決死の伝令」のエピソードが残されている。戦局に見切りをつけた軍医が上等兵に隣の壕への解散命令の伝令を命じたが、壕の外で米軍の銃撃を受けた伝令兵は逃げ戻ってきた。臆した兵を横目にノブは「軍医どの、眞玉橋と金城が伝令に行きます」と志願。部下の看護婦とともに照明弾と機銃のなかを匍匐前進で伝令に向かった二人は、見事にその任務を果たした。

6月19日、米軍による第二外科壕への馬乗り攻撃が始まり壕内にガス弾が投げ込まれた。この時、ノブらは壕内を流れる川の水でガーゼを湿らせ、口を塞ぐなど冷静沈着な対応で多くの命を救った。6月21日、最後まで壕内で救護の任に当たっていたノブは、仲間と共に壕を出て投降することを決意。いったん摩文仁に向かい途中で降伏し米軍の捕虜となった。従軍看護婦長としてのノブの任務は、これでもようやく終わりを迎えた。

ノブの決断で、第二外科壕の傷病兵、看護婦の多くは命をながらえることができた。しかし、ノブのような存在がいない場所は悲劇であった。同じ19日に米軍は第三外科壕を攻撃した。そこにはノブが指導に当たった「ひめゆり学徒隊」の多くがいた。撤退の判断が遅れ、戦闘に巻き込まれ、最期に集団自決も行ったため、隊員の最大の犠牲を出す結果となってしまった。ちなみに慰霊碑「ひめゆりの塔」は、この第三外科壕の跡に立っている。

ひめゆりたちに捧げる「ナインチンゲール記章」

終戦後、米軍の捕虜収容所内で戦争孤児の養育や看護教育をゼロから建て直したノブは、沖縄の看護再建のリーダーと目されるようになった。そして米軍の看護指導者ワニタ・ワーターワースと出会う。ワーターワースの熱心な指導は、敗戦で生き甲斐を失っていたノブの看護魂を灯した。それは「生きて再び看護ができることの喜び」と後に語っている。

「看護に国境はない。沖縄の看護を国際基準まで引き上げる」。そう公言したワーターワースは1960年まで10年間、沖縄に滞在し、ノブと二人三脚で医療看護体制の整備、看護行政や看護教育制度の確立、看護協会の設立や人材育成など沖縄看護の近代化を加速させた。

1951年、沖縄群島看護婦協会が発足。ノブは初代会長に就任した。この協会は後に沖縄県看護協会に発展し、看護職の身分保障や社会的地位の向上に大きく貢献する。またノブは1952年から14年間、琉球政府厚生局で医政課看護係長として勤め、戦争で失われた看護職免許の復活と登録、本土や海外への研修派遣など、看護行政の基盤整備を行った。ワーターワースの帰国後も沖縄の看護力の向上に尽力するノブの姿勢は変わらず、島の復興と医療機関の新規建設に伴い、琉球政府立中部病院、琉球大学病院、那覇市立病院の総看護婦長職を歴任、後進への道を築いた。

ワーターワースとノブの努力の成果があって、1972年本土復帰前までの沖縄の看護水準は、アメリカ式の看護教育と豊富な研修制度や技術指導により本土以上に高かったとも言われている。

そして1985年5月、赤十字国際委員会(ICRC)より世界最高の栄誉「フローレンス・ナイチンゲール記章」が沖縄県の出身者としてはじめてノブに贈られた。ノブは受賞後の挨拶で「戦時中に亡くなったひめゆりの乙女たちと仲間の医師や看護婦達へ捧げる」とその喜びを静かに語った。

次代に沖縄戦と看護の精神を伝える絵本

2017年、眞玉橋ノブの孫世代の親族たちが研究所を沖縄県で設立し、残された資料や看護の視点から沖縄戦の記憶の継承に取り組んでいる。またこの研究所では世代を問わず誰もが親しめる絵本「すくぶん−南の島のナイチンゲール眞玉橋ノブ物語」を制作し、沖縄戦の歴史や看護の原点を見つめ直す物語として普及と伝承に努めている。

「すくぶん」とは職分(しょくぶん)の沖縄方言で役割や使命を意味する言葉であり、沖縄で看護のすくぶんを尽くした眞玉橋ノブの物語を通じて、それぞれに与えられた人生の役割を見つめ直して欲しいとのメッセージが込められている。

■絵本{すくぶん」

(こちらから購入できます。https://mothernurse.thebase.in/

沖縄に生まれ看護の分野で日本の発展に尽くした眞玉橋ノブの歴史物語は、出会う者、読む者全てに勇気と感動を与え、また子供達にとっても沖縄戦の導入や看護への理解に有効な良書であると筆者も評価する。

現在の偏った歴史教育や民族自決権の議論など思想の分断工作がいかに無益であり、大切な子供達を混乱させていることは本書を通じても容易に理解できる。

終戦80年目の新たな歴史認識として、南の島のナイチンゲール物語が沖縄と日本の心を繋ぎ、さらに絆を深めるその役目(すくぶん)を果たすことに大いに期待したい。

また、戦争という大きな国難を乗り越え、戦後の豊かな時代へと導いた先人達に改めて感謝するとともに、令和の時代、日本と沖縄の安全保障や国防など新たな国難に直面する今だからこそ、全ての当事者に眞玉橋ノブの物語「すくぶん」で激励のメッセージとエールを送りたい。

ところで、筆者の父は、米陸軍の医療部隊で沖縄戦に参戦していた。相手側に、ノブさんのような献身的な看護婦がおられることを知っていたら、きっと尊敬していただろう。戦後、二人は会うことができなかったが、その代わりに本稿で会わせることができた気がする。

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