別人のまま生きるか、元の世界に戻るか--タイムリミットは66日(写真:Graphs/PIXTA)

ナルシスの鏡。それは容姿に絶望した人が覗くと、誰もが振りむく姿になれる不思議な鏡。その姿はあくまでも仮想現実。66日を過ぎてもなお、仮想現実から戻らなければ、元の世界におけるその人物の存在は消える──。

ルッキズムをテーマに自身の容姿に絶望した女性たちを描いた小説『コンプルックス』を東洋経済オンライン限定で試し読み。婚活歴3年を経て3年間交際した婚約者に振られた33歳ネイリストが鏡の中の世界へ――。全3回でお届けします。

今の惨めな自分のままで誰とも関わりたくない

「こんにちは……。13時からご予約させて頂きました、中橋祐子です」

祐子がナルシスの鏡を目当てに光太の元を訪れたのは赤羽ゴキブリ事件の1週間後のことだった。

高望み婚活を3年。

結婚前提の妥協交際を3年。

自分の存在価値を懸けて戦った6年という時間は祐子から“若さ”という一番の価値を奪っていた。

「幸せな結婚」という明るい未来のイメージが一切できなくなり、完全に無気力になった祐子は1週間家に引きこもっていた。

職場のネイルサロンにも理由を言わず、退職の意志を伝えた。職場の仲間のネイリスト達も何となくだが何が起こったのか事情を察し、祐子に連絡することはなかった。

祐子と仲の良かった同僚の美羽は、「かわいそう」という同情心よりも心のどこかで、合コンで引き立て役をさせていた祐子に先を越されるという焦りから解放された安心感の方が強かった。全ての女性がそうだとは言わないが、女とはそういう生き物なのである。

幸か不幸か、そんなわけで職場のネイリスト達から連絡のない状況は、祐子にとってちょうど良かった。

《ゆうこりんなら、もっと良い人見つかるよ》

そんなうわべだけの励ましのメッセージに、うわべだけの返信文を考えるストレスを許容できる余裕は祐子には残されていなかったからだ。

“今の惨めな自分のままで誰とも関わりたくない”

人一倍、他人からの評価を気にする性格の祐子はそう思っていた。

その想いが最初は美容整形の情報を血眼になって探していた祐子とナルシスの鏡を引き合わせたことは間違いなかった。

「お待ちしておりました。結婚直前に婚約者に婚約を破棄されてしまわれた中橋祐子様でよろしかったですね? はじめまして。この店のオーナー美容師・新堂光太と申します」

いつもの失礼なスタイルの挨拶をかます光太の容姿を、祐子は舐め回すようにチェックしていた。

“ネットで評判の通りブサイクじゃない。

だけど、いくらこの男がお金持ちでもちょっとこの顔じゃ付き合えないわね。

てかこの人、そもそもお金持ちなの?

何1つ高そうなモノは身につけていなさそうだけど。

特別メニューのカットの料金が30万円。

予約が割とすぐに取れたことから見積もって、だいたい月に予約が10件ってところね。そうなると、月の売り上げは最低300万円。

でも場合によっては半額返金してるわけだし、300万円って予想は少しざっくりだな。

何割の客に半額返金しているんだろう?

まぁ細かいことはわからないけど、家賃とか経費とかを差っ引くと年収はいっても600万円ぐらいってところか。

うーむ……、

この顔で年収600万円はキツイなぁ……。

っておいおい私は何を考えてんだ。

私みたいなゴリラ顔の女、向こうだって無理でしょう”

祐子には無意識に出会った男を結婚相手として査定する悪い癖があった。

その悪い癖に気づいて祐子は自分にまた一段と嫌気がさした。

「オレの顔になんかついてますか?」

「心の準備は良いですか?」

いつも以上に何かを観察されていることを感じとった光太は祐子の意図を探ろうとした。だが、まさか自分が結婚相手として査定されているなんて知るよしもなかった。

「いえいえ気にしないで下さい。とても素敵な雰囲気の方だなと思い見惚れてしまってました」

思っていなくても条件反射で適当な褒め言葉を見つける。

これも祐子が高望み婚活をする中で身につけた無意識の習慣の1つだった。

「ありがとうございます。あんまり初対面で褒められることないですけどね。言われると嬉しいもんですね。今日はコンプレックスカットをご希望だとお伺いしてますので、まずはロッカーに荷物をしまってあちらの奥の席におかけになって下さい」

光太は祐子の社交辞令を受け流し、ナルシスの鏡のある奥の席へと案内した。

「さぁ、中橋様。心の準備は良いですか? ナルシスの鏡に実際に自分の姿を映し出す前に、今回ご利用して頂きます“コンプレックスカット”にかかる時間と料金、並びに当店で所有しております大変珍しい鏡・ナルシスの鏡について改めて説明させて頂きますね」

席に祐子を座らせた光太は説明を始めた。

「ネット上では色んな情報が出回っていてご存じかもしれませんが、実際にこのメニューの提供時間は6時間頂いております。中橋様は13時からのご予約ですので終了する時刻は19時を予定しております。

ただしこれは今からナルシスの鏡と向き合って頂き、中橋様のコンプレックスが鏡にしっかり反応した場合の話になります。鏡が中橋様のコンプレックスから大きな絶望を感じとった場合、中橋様の魂は鏡の中へと吸い込まれます。

そして魂は鏡の中の世界を旅することになります。その世界で中橋様が体験するのは理想の容姿を手に入れたもう1つの仮想現実です。でもその世界はリアリティがあり過ぎて鏡の中の世界と現実の世界の区別はつかなくなるでしょう。

ですから夢を見るのとは全く違う感覚を味わうことになります。そして魂の抜け殻として現実世界に残された肉体は仮死状態となりますので、魂が旅をできるのは6時間が限界です。

ただ鏡の中の時間と現実の時間の流れは異なります。

66日以内に迫られる選択

現実世界での6時間は、鏡の中の世界での時間では66日間になります。だからもしも元の現実に戻りたい場合は、鏡の中の世界の時間で66日以内にまた鏡の前に戻ってくる必要があるわけです。

つまりもし鏡に魂を吸い込まれることになったのなら中橋様は、

美しい姿を手に入れた鏡の中の世界を生きるのか?

元の容姿に絶望した現実を生きるのか?

66日以内にその選択を迫られることとなります。そして66日を過ぎてもなお魂が鏡の中に残る選択をした場合、元いた現実の世界で中橋祐子という存在は消滅することになります。

抜け殻になった肉体も6時間後には鏡に回収されてしまうわけです。そして元にいた世界で中橋様に関わった全ての人の記憶からも中橋様にまつわる記憶は消えてしまいます。

中橋様の場合は独身でいらっしゃるので割とリスクは少ないかなと思います。もしもその人物に子供や孫などの子孫が存在する場合、同時にそれらの存在は全て鏡の中に飲み込まれ消滅してしまうことになりますので。

ここまでざっと説明致しましたが、ご理解頂けましたでしょうか?」

ネットで事前に確認した通りの情報を説明する光太の方を見て、祐子はここに来たら絶対に聞こうと思っていた質問をし始めた。

「あのぉー、1つ聞きたいことがあるんですが良いですか?」

「はい、何でも遠慮なく聞いて下さい」

「もし魂が吸い込まれたら鏡の中の世界で美しい容姿を手に入れた自分を体験するわけじゃないですか?

純粋に鏡の中の世界での私の過去の情報ってどうなるんですか?

私はブスだったのに突然綺麗になった人として認識されるのか?

私がブスだった頃の記憶は周りの人達の記憶から消えてしまって私の知らない過去が作り出されてしまうのか?

私の過去の記憶と周りの過去の記憶がズレてしまったとしたら最初ってタイムスリップしてきた人みたいになりませんか?」

「過去の自分と決別できる」

「良い質問をしますね。もう鏡の中の世界に行く気満々じゃないですか。それはその通りで鏡の中の世界では、自分がブサイクだった頃の記憶を覚えているのは中橋様だけになります。

もちろん鏡の中の世界では、美人だった過去が存在します。ただ、それは鏡の中の世界に入った中橋様にとっては持ち合わせていない記憶です。つまり、鏡の中の世界に入った中橋様は、一種の記憶障害のような状態を味わってしまうことになります」

「えぇ、やっぱりそうなんだ。じゃあ私の非モテだった学生時代や婚活に挫折した思い出は全部、全部、全部、私だけの思い出になるのね」

「はい。恐らく中橋様ご自身の価値観と想像力の中で、“もし自分が美人だったらあの時の体験はこうなっていたのにな”というタラレバの妄想の体験が、鏡の中の世界では過去の記憶そのものになるはずです」

「うわぁー! それ最高じゃない。じゃあ本当の意味でブスで悩んできた過去の自分と決別できるってことね。私、絶対に鏡の向こうに行ってみせるんだから。鏡にへばりついてでも絶対行ってやるんだから」

「いやいや物理的に頑張ってどうのこうのってものでもないので変に気合い入れるのはおすすめしません。でも覚悟はもう決まってるわけですね。じゃあ早速、鏡のカバー外しますよ。中橋様は目を瞑って下さい」

祐子は光太に言われるままに目を瞑った。

すると不思議と祐子の頭の中に先日別れることになった婚約者の友哉の顔が思い浮かんだ。

そして、“もしも自分が美人だったら”婚約者の友哉からのアプローチを受け入れていただろうか? と3年前のことを思い返していた。

しかし、思い返してすぐに祐子は、その前にアプローチされていないかも知れないと思った。

なぜなら、友哉は、“見た目より中身”という、祐子にとって吐き気がする綺麗事が好きな男である。そんな友哉が、美人になった祐子にアプローチするとは思えなかったからだ。

それに祐子は、「美人だったとしたら27歳で高望み婚活をしていたあの時期に、きっとみんなが羨ましがるようなハイスペ男子を捕まえることに成功していたに違いない」とも思った。

「鏡に映る自分をじっと見つめて」

そうやって“もしも自分が美人だったら……”と過去を遡り、その妄想がもうすぐ現実になるかもしれないことに興奮状態になった。

祐子が頭の中で何を妄想しているのか光太にはわからなかったが、これまでの言動と祐子の様子から直感的に魂が肉体を離れる準備を始めているように感じた。


鏡に魂を吸い込まれる女性とそうでない女性では事前に聞いてくる質問が全く違うのである。

「それではいきますよ!! 1・2・3。はい!! それではゆっくり目を開けて、鏡に映る自分をじっと見つめて下さい」

恐る恐る鏡に映るゴリラ顔の自分と目を合わせた。

異変が起きたのは次の瞬間だった。まるで強力な接着剤で貼り付けられたポスターが無理やり引き剥がされるように、自分の肉体から、意識だけが引きちぎられる感覚に祐子は陥ったのである。

それは明らかに、これまで慣れ親しんだ自分の肉体が自分のものではなくなるような感覚で、祐子は恐怖すら覚えた。

しかし、竜巻の中に迷い込んだ塵紙のように、この状況に対して祐子には抵抗する術がなかった。引きちぎられた意識は、ぐるぐると宙を彷徨い続け、とうとう祐子は意識を失ったのである。

<第2回に続く>

(※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません)

(クノタチホ : セラピスト)