音楽番組「ザ・ベストテン」(1978〜89年、TBS系)は、いまでも「伝説の番組」として語り継がれている。どこがすごかったのか。社会学者の太田省一さんは「それまでになかったランキング方式や独特な演出もさることながら、生放送にこだわったことで大ヒットした」という――。

■初回から他の音楽番組とは違った『ザ・ベストテン』

いまも話題になる過去の人気番組は多い。音楽番組『ザ・ベストテン』もそのひとつ。1978年から1989年までの放送で、終了からすでに35年ほどだがその輝きは色あせない。いったいこの番組のどこが凄かったのか。

出演歌手が豪華だったことももちろんあるが、音楽番組の枠に収まらないハプニングの数々や独特の演出が私たちを夢中にさせた。『ザ・ベストテン』はテレビ史に残るとびきり破天荒な番組でもあったのだ。

「第4位、中島みゆき『わかれうた』、7735点!」と司会の久米宏が叫ぶ。

写真=共同通信社
フリーアナウンサー、久米宏=1985年11月8日、六本木プリンスホテル - 写真=共同通信社

だが歌手が出てくるはずのミラーゲートからは誰も出てこない。

「中島みゆきさんは現在、LPをお作りになっていそがしい、ということで、テレビ、雑誌は辞退いたします、とおっしゃっています」と久米がカメラに向かって説明する。それを受けて同じく司会の黒柳徹子は、「LPが出来上がったらぜひ、スタジオでお目にかかりたいです」と呼びかける(山田修爾『ザ・ベストテン』)。

1978年1月19日、『ザ・ベストテン』記念すべき第1回での一場面である。

歌手の名前が呼ばれるが、出てこない。そして司会者が「○○さんは、お越しいただけません」とカメラに向かって頭を下げ謝罪する。こんな場面が何度となく放送された音楽番組は、後にも先にもこの『ザ・ベストテン』だけだろう。

■これまでの音楽番組との決定的違い

そこには、この番組の画期的コンセプトがあった。それは、徹底したデータ主義である。

TBS系列で毎週木曜9時からの『ザ・ベストテン』は、ランキング形式による生放送の音楽番組。レコード売り上げ、有線放送のリクエスト、ラジオのリクエストチャート、そして視聴者から番組に寄せられたリクエストはがきの数。この4部門のデータを総合して毎週順位を決め(最高点は9999点)、ベストテン内に入った歌手全員に歌ってもらうというのがコンセプトだった。それゆえ、ランキング1位の歌が、「国民的ヒット曲」として広く周知されていった。

いまでもそうだが、音楽番組はキャスティングありきである。その回に出演する歌手は前もって決まっている。よほどのアクシデントでもない限り、その歌手が出演しないことはない。また歌手の序列も厳然としてある。番組の最初は新人歌手が歌い、最後は大御所の歌手で締める。それらの“常識”を疑う者はいなかった。

そこに敢然と立ち向かったのが、『ザ・ベストテン』だった。初回の中島みゆきのように、ベストテン内に入っても出演を辞退することがある。

当時フォークやロック、ニューミュージックの歌手はテレビに出ないことが多かった。それでも番組は粘り強く交渉を続けた。松山千春や松任谷由実などは、その努力が実ってようやく出演。一方、矢沢永吉は結局出演が叶わなかった。ほかにもそのような歌手は少なくない。

写真=iStock.com/mixetto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mixetto

■相手がトップスターでも順位は変えない

また歌手は10位から順に登場するので、大御所演歌歌手が最初のほうで歌い、デビューしたばかりのアイドル歌手が番組のトリを飾るということも当然起こる。他の音楽番組を見慣れた視聴者にとっては、それがまず新鮮だった。

やはり初回のことだが、山口百恵の出演についても裏で一騒動があった。当時山口百恵はトップスター中のトップスター。番組側は、当然10位以内に入るだろうと予想していた。所属プロダクションにも事前に連絡を取り、スケジュールをあけてもらっていた。半分キャスティングしていたわけである。

ところが蓋を開けてみると、「秋桜」が12位で「赤い絆」が11位。これを知ったプロデューサーのひとりは、「山口百恵が出ないとはどういうことだ! おまえは番組をつぶす気かッ」と烈火のごとく怒った。そして「ほかの歌手と順位を入れ替えたらどうだ」とまで迫った。

だが番組の企画者でディレクターだった山田修爾は、「いえ、それはできません」と突っぱねた(前掲『ザ・ベストテン』)。

結果的にそれは大正解だった。『ザ・ベストテン』の斬新さはたちまち視聴者を惹きつけた。最高視聴率は41.9%(世帯視聴率。関東地区、ビデオリサーチ調べ。以下同じ)。1年間の平均視聴率が30%を超えた年もあった。全604回の平均視聴率でも、23.9%と20%を超えた。

■新幹線のホームで歌った松田聖子

困るケースはほかにもあった。出演はOKだが、歌手のスケジュールの関係でスタジオに来られない場合である。

そこで生まれたのが、「追いかけます、お出かけならばどこまでも」のうたい文句で有名になった「追っかけ中継」だった。スタジオに来られないのなら、こちらから出かけていけばいいじゃないかというわけである。

コンサートがあるときは、終了後観客にも残ってもらってライブ形式で歌ってもらう。またドラマの撮影があるときには収録スタジオに押しかけて他の出演者の前で歌ってもらう。レコーディング中のスタジオで歌うこともよくあった。いずれも、見ている視聴者は得した気分になる。

しかし、これらはまだ序の口。もっとすごいのは、移動中の歌手に歌わせたことである。

1981年3月26日放送回、「チェリーブラッサム」で第5位に入った松田聖子は、新幹線で移動中。そこで静岡駅で途中下車し、駅のホームで歌った。もちろん衣装ではなく普段着だが、マイクを手に堂々たる歌いっぷりである。

だが歌の途中で発車時刻が迫り、追っかけアナがあわてて松田聖子を車内に誘導する。最後は車内の乗降口のところでの歌になったが、聖子スマイルを絶やさず歌いきる姿はプロ魂を感じさせた。

一方、後ろのほうの一般乗客が「なにが起こっているのか?」という不思議そうな顔で見ているのも面白い。そしてドアが閉まると、ファンらしき人たちも集まってきてホームはプチパニックになったが、松田聖子は車内からにこやかに手を振って去っていった。

写真=共同通信社
映画『カリブ・愛のシンフォニー』製作発表記者会見で写真に納まる松田聖子さん=1984年11月1日、東京プリンスホテル - 写真=共同通信社

■ヤラセ一切なしの「アルフィー犬山事件」

まさに綱渡りである。時代が寛容だったとも言えるが、国鉄(JR)がここまで協力するのもいまとなると信じがたい。

実は松田聖子は、新幹線のホームで歌ったことがほかにもある。そもそも、仕事先から羽田空港に到着して乗っていた飛行機を降りたすぐのところで「青い珊瑚礁」を歌ったのが番組初登場だった。当時の売れっ子ぶりがうかがい知れる。

サプライズのつもりがそうならず、伝説級のハプニングが生まれた中継もある。

1984年12月13日の放送。「恋人達のペイヴメント」で第6位に入ったアルフィーは、愛知県犬山市のファンの家をアポなしで訪れて歌うというサプライズを企てた。ところが、行ってみると当のファンが留守。誰も出ない。

犬も吠え出すなか仕方なくそのまま家の前で歌い始めたが、電気系統のトラブルでカラオケのテープが止まりそうになり、あわててスタッフが手動でテープを回したがうまく再生できず、すべてがグダグダになってしまった。

こうした場合、「サプライズ」とは言いつつ前もって家にはいてもらうようにこっそり交渉していてもよかったはずだ。だがそうしなかった。アルフィーにとってはとんだ災難だったが、見ている側にとっては番組がガチであることの証しでもあった。

■一度見たら忘れない演出のクセ

『ザ・ベストテン』の破天荒さは、中継にとどまらない。スタジオで歌う際の演出もなにかと自由だった。毎回曲の世界を引き立たせる美術セットも素晴らしかったが、常識にはまらない驚きの演出、時には意味不明とさえ思える演出も名物になっていた。

田原俊彦の「君に薔薇薔薇…という感じ」では、「薔薇薔薇=バラバラ」という連想で、歌っている田原の胴体がバラバラになるマジックをバックのダンサーたちとともに披露した。胴体を切られながらも手を振りながら歌い続けるトシちゃんに、そばで見ていた黒柳徹子などはあ然となっていた。

また視覚効果を使って、生放送なのに歌手を消したこともある。ピンク・レディーの「透明人間」。「消えますよ〜 消えますよ〜♪」と歌った瞬間に、画面からミーとケイの2人が消える。これはデジタル映像記憶装置という最新技術を使って消したものだった。

いまならこうした効果を生み出すのは比較的容易かもしれないが、それを40年以上前にやっていたのだから時代に先駆けていた。

ただ、これらはまだエンタメを追求した演出であり理解可能なほうだ。もっと意味不明でシュールなものも、この番組ではよくあった。

■伝説になった山本譲二のふんどし姿

荻野目洋子が歌った「六本木純情派」。「ダンシング・ヒーロー」と並ぶ荻野目のヒット曲で、失恋したばかりの女性が六本木で繰り広げる恋模様を歌ったダンサブルな曲である。この曲が初めてベストテン入りし、スタジオでの歌の披露となった。

夜の六本木を表現したような電飾をちりばめたセット。ここまではわかる。だが曲が始まると、派手な着物を着たひとをはじめ、全身白塗りの男性たちが荻野目洋子の周りでなにやら怪しげなパフォーマンスを繰り広げ始める。

彼らは暗黒舞踏集団「白虎社」のメンバーだった。「六本木純情派」の曲調と前衛舞踏がすぐに結びつかず、見ている視聴者は混乱した。狐につままれた気持ちとはこのことだろう。

そしていまでも語り草なのが、山本譲二のふんどし姿での熱唱である。

山本の「みちのくひとり旅」は、演歌らしくロングヒット。24週もベストテン入りしていた。さまざまな演出をやり尽くしたこともあったのだろう。そこで出てきたアイデアが、ふんどし姿だった。本人も最初は断ったそうだが、熱心に口説かれて承諾した。

「お前が俺には 最後の女」というフレーズが繰り返される歌なので、“男”を強調するのはわからなくもないが、それでもふんどし姿で歌うというのは発想が突き抜けている。本番は、床一面にスモークが焚かれたなかふんどし一丁で歌い上げる山本譲二のバックで同じふんどし姿の男性たち6人が盛り立てるという、これでもかといった感じの演出だった。

■だから「ザ・ベストテン」は伝説の番組になった

ほかにも前回書いたとんねるずの「タカさんぶち切れ事件」など伝説的出来事はまだまだあるのだが、このあたりでやめておこう。

こんな破天荒な番組がちゃんと成立したのは、黒柳徹子と久米宏という初代名MCコンビの力も大きかった。「ランキングに嘘をつかない」ことを条件に出演したという黒柳は、近藤真彦に「お母さん」と慕われるなど歌手に親身に寄り添った。久米はトークの達人である黒柳に一歩も引かず渡り合い、また時に山口百恵にデレデレになるなどしながら名人芸で番組を仕切った。

そしてなんといっても、これほどテレビ本来の生放送の醍醐味を味あわせてくれた番組もなかった。そこには、生だからこそ得られる究極のハラハラドキドキ感があった。

生放送は、見ている視聴者に同じ時代を生きているという高揚感をもたらす。そしてヒット曲も、その時代ならではの空気感を背景に生まれてくるものだ。その点、すぐれた音楽番組は、すぐれた報道番組の要素を持つ。なにも政治や経済だけがニュースではない。ヒット曲もまたひとつのニュースだ。

だから生放送で聞くヒット曲には、格別なものがある。しかも『ザ・ベストテン』の場合は、視聴者が参加できるレコード売り上げやリクエスト順位で決まる純粋なランキング方式。私たちは、「この時代に生きている」という実感をこれ以上ないほどに得ることができたのだ。

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太田 省一(おおた・しょういち)
社会学者
1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。
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(社会学者 太田 省一)