超ややこしい!「青梅街道」と「新青梅街道」どっちが広い道路?「途中で名前変わる」という謎のトラップも!? 実際どんなルートなのか
青梅街道と新青梅街道 どっちがどっち?
東京都心部から西へ伸びていく放射道路のなかに、「青梅街道」と「新青梅街道」という名称のものがあります。
「どちらかが広い道路で、どちらかが狭い道路だったはず」というおぼろげな認識はあるものの、結局自分が知っている道路が、青梅街道なのか新青梅街道なのか、パッと正しく答えられる人は意外と多くなさそうです。
この2本の道路はどういうルートになっているのでしょうか。
大前提として、都心と青梅方面をむすぶ4車線道路は「1本だけ」しかありません。
【画像】2秒でわかる!これが「青梅街道」「新青梅街道」のルートの見分け方です
この4車線道路につけられた名前が、西東京市田無を境に、「都心側は青梅街道」「青梅側は新青梅街道」と切り替わっているのが、混乱の最大の要因と言えるでしょう。
青梅街道は、新宿駅北側のJRガード下から始まり、中野坂上、荻窪、練馬関町を経て、西東京市内へ入ります。
ここで「青梅街道」と名付けられたルートは、西武新宿線を越えてすぐの「田無町一丁目交差点」で急に左折し、2車線の生活道路へ入ってしまいます。そのまま西進し、JR武蔵野線をまたいで、東大和市までまっすぐ抜けていきます。
今度は急に進路を北に変え、多摩湖の南側まで来ると進路をまた西に変え、古い街道筋をクネクネと進みます。途中でいったん進路が南へ向いたり、一筋縄ではいかないルートです。
瑞穂町内へ入ってJR八高線を越えた「瑞穂松原交差点」で、田無から「新青梅街道」になった4車線道路に合流。そこからはその4車線道路を再び引き受け、「青梅街道」という道路は青梅市、果ては奥多摩、山梨県内へと抜けていきます。
いっぽう、新青梅街道は先述のとおり、都心〜青梅の4車線道路のうち、田無〜瑞穂の部分がそう呼ばれています。東村山市、東大和市をまっすぐ抜けていき、スムーズな幹線道路です。
さて、新青梅街道の「都心側」はというと、こちらはこちらで、また生活道路の様相です。
「新青梅街道」の出発点は、新宿区の「西落合一丁目交差点」です。目白通りが関越道練馬方面へ抜けていくところが起点です。
そこから西へ、西武新宿線と北側で並行するように、沼袋、井荻、東伏見と抜けていきます。そのまま西東京市田無で、都心〜青梅の4車線道路に「北原交差点」で合流し、それを引き継いで瑞穂町内まで行くのです。
さらに細かいことをいえば、都心〜青梅の4車線道路は、「青梅街道」が離脱した田無町一丁目交差点から、「新青梅街道」が引き継ぐ北原交差点までの約450mだけ、「所沢街道」の一部として扱われています。
このように、都心〜青梅の4車線道路は、コロコロと名前が変わり、青梅街道〜所沢街道〜新青梅街道〜青梅街道と、目まぐるしい変遷があります。そして青梅街道や新青梅街道は、2車線の生活道路の区間もあったりします。
なぜこんなにややこしくなった?
歴史的に見ると、江戸時代からすでに存在していた旧来の道は、今の「青梅街道」のルートそのものです。
そのうち、戦前から拡張が進められたのが、新宿〜田無だったわけです。
そして、田無より先は、クネクネと変なルートを取る青梅街道を拡幅するのではなく、新たにバイパス道路を作ることになりました。それが戦後の都市計画道路です。
古い地形図でも分かるとおり、今と同じで青梅街道は田無で「ポキっ」と西へ折れ曲がっていました。それを自然なまま北西へ伸ばし、瑞穂町まで4車線道路でしっかり整備したのが、新青梅街道というわけです。
さて、新青梅街道(田無〜瑞穂)は1971年に全通しましたが、当時は単なる「青梅街道バイパス」という位置づけでした。
しかし1984年に東京都が「通称道路名」を付けた際に、ついでに西落合〜田無の狭い部分もいっしょに「新青梅街道」という名前を与えたために、一層どちらがどちらなのかややこしくなったような気がします。
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こんな経緯がある青梅街道と新青梅街道。「田無を境に名前が入れ替わる」ということを頭に入れておかないと、「青梅街道ってあなたが言ったからこの狭い道通ったのに」「名前間違ってますよ。そこは青梅街道ではありませんよ」など、思わぬトラブルや「指摘合戦」を招きかねません。
住むエリアが違う人を相手に話をする場合は、「青梅街道、あの広い道路の」「新青梅街道、狭くなるほうのね」などと、ちょっと補足を入れてあげるのが良いかもしれません。