カナダの片田舎で「中国式カフェ」を営んでいた”ある老人”の死…訃報を機に著者が語る中華料理店ドキュメンタリーの”原点”

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北米中華、キューバ中華、アルゼンチン中華、そして日本の町中華の味は?北極圏にある人口8万人にも満たないノルウェーの小さな町、アフリカ大陸の東に浮かぶ島国・マダガスカル、インド洋の小国・モーリシャス……。 世界の果てまで行っても、中国人経営の中華料理店はある。彼らはいつ、どのようにして、その地にたどりつき、なぜ、どのような思いで中華料理店を開いたのか? 一国一城の主や料理人、家族、地元の華人コミュニティの姿を丹念にあぶり出した関卓中著『地球上の中華料理店をめぐる冒険』。食を足がかりに、離散中国人の歴史的背景や状況、アイデンティティへの意識を浮き彫りにする話題作から、内容を抜粋して紹介する。

『地球上の中華料理店をめぐる冒険』連載第5回

『「見た目で判断しちゃダメよ」…紹介された“全身黒ずくめにカウボーイハット”のカメラマンが厨房で見せた驚きの撮影術とは』より続く

カナダで暮らす華人

2001年11月。ノイジー・ジムが4日前に亡くなったという知らせが舞い込んだ。

葬儀の電話連絡を受けた翌日、私はソニーのビデオカメラ片手に飛び出した。次のフライトでトロントを出発すれば間に合うと判断したからだ。

サスカチュワン州の大都市サスカトゥーンの空港で一晩過ごしてから、2年前の撮影時にクォイと一緒に走った道を南南東に向かって再び車を走らせている。

当時は、5大陸15ヵ国で暮らす華人の取材を開始したところだった。

私は1976年にカナダに移住して以来、この地にやってきた先人たちの歴史を調べてみたいと常々考えていた。

華人について語るなら、中華料理店オーナーの物語を描くに限る。カナダでは小さな町といえども必ず中華料理店がある。

一緒に闘ってきた“戦友”

最初にノイジー・ジムの噂を聞きつけたのは、トニー・チャン(陳善昌)からだった。

トニーは、アジア系カナダ人のアイデンティティを確立するために一緒に闘ってきた“戦友”である。

1978年にアジア系カナダ人の芸術、文化、政治を後押しする進歩的な雑誌『The Asianadian(亜裔加人)』を共同で発刊した。

カナダにある中華料理店の物語を紹介するにはどうすればいいのか、長年にわたって話し合ってきた。先鞭をつけたのはトニーだった。

1985年、『CHINESE CAFES IN RURAL SASKATCHEWAN(沙省郷間的中國餐館)』(サスカチュワン州の田舎町にある中国式カフェ)と題したテレビのドキュメンタリー番組を制作したのだ。そこでいわば“主役”を張ったのが、ノイジー・ジムだった。

12年後の1997年には、ビデオアーティストのポール・ウォン(黄柏武)とともにカナダのプレーリー(大平原)を旅しながら、コールド・レイクやスイフト・カレント(「急流」の意)、バルカン(『スター・トレック』シリーズでおなじみの惑星にちなんだという)といった小さな町にある中国式カフェとそのオーナーを写真に収めていった。

その1つが、「ニュー・アウトルック・カフェ」だった。トニーが制作したドキュメンタリー番組の中に、人を楽しませるのが好きな陽気なジムの姿があった。

とにかく心が広くて、話し上手だった。その当時、75歳。

彼のようにチャイニーズカフェを経営する高齢のオーナーから身の上話やエピソードが聞けるのは、あと何年だろうと思ったものだ。

変わらない町

私は、ノイジー・ジムに、次に来るときもまた主役で撮らせてほしいと約束していた。その3年後の2000年、クォイを引き連れてアウトルックを再訪した。中華料理店シリーズのドキュメンタリーを撮影するためだった。

撮影旅行が終わって、編集者から撮れ高(訳注:作品に使える映像素材)が足りないと指摘されてしまった。初心者ゆえのミス。初の撮影はこんな調子だった。

取材の何年も前から、ジムは、近況報告やらご機嫌伺いやらでよく電話をかけてきたものだ。

実は私も1ヵ月前にジムに電話したところだった。入院中で病状が重いと家族から聞かされていたからだ。再訪しても面会できるような状況ではなさそうだった。

そして今日、葬儀の1時間ほど前にようやく町に到着した。町の様子は見覚えがある。2年前にクォイと訪れたときと変わらない静かな風景が広がっていた。

まもなく昼。メインストリートは人っ子一人いない。ジムのカフェに行ってみると、窓には葬儀のため休みとのお知らせが貼ってあった。恐らくは40年前に開店してから初めての休業ではないか。

「見た目で判断しちゃダメよ」…紹介された“全身黒ずくめにカウボーイハット”のカメラマンが厨房で見せた驚きの撮影術とは