「ムンクの叫び」は何を表している絵でなぜ高い人気を得たのか?
ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンクが描いた絵画「叫び」は、「ムンクの叫び」としてよく知られています。ゆがんだ空間や独特の色彩、強く苦しむような人物が特徴的な作品ですが、そんな「ムンクの叫び」は何を表現したものでなぜ有名になったのかについて、YouTubeチャンネルのTED-Edがアニメーションで解説しています。
This person isn't actually screaming - Noah Charney - YouTube
ムンクは5人兄弟の1人として1863年に生まれました。1800年代は結核が深刻な問題としてヨーロッパ全体を襲っており、成人の約4分の1を死亡させたとされています。ムンクも母親と姉を結核で亡くし、その後間もなく自身も幼い頃から体を悪くしました。さらにもう1人の姉は精神疾患を患い、人生の大半を施設で過ごしました。
ムンクは病気により学校を休むことが多く、その間は絵を描いたり父親が読み聞かせる不気味な物語を聞いたりして過ごすことが多かったそうです。ムンクは「私は狂気の種を受け継いだ」「恐怖と悲しみと死の天使たちは、私が生まれた日からそばにいた」と書き残しています。
最終的にムンクはベルリンに移住し、ベルリンで工芸の発展に力を入れる創作グループに参加しました。そこでムンクは、古典的な技法を学びながらも、写実的な描写よりも生々しい主観的な感情を重んじる「ソウル・ペインティング」に没頭。「描かれるべきはイスではなく、イスを見て誰かが何を感じたかだ」とムンクは述べています。
ムンクの作品には、ガイコツが船頭を務める絵や、病的な様子で描かれた自画像、死の床にある母親を描いたものなど、しばしば「死」がつきまとっていました。また、不運な男性を女性が捕食するような構図の絵では、一部の批評家から「容赦ない描写」という評価を受けるなど、「ムンクは狂っている」と評された一方で、称賛も集め始めていました。
1892年の1月22日の日記で、ムンクは夕暮れ時にノルウェーの首都・オスロを見下ろす位置にある、氷河の侵食で形成された入江であるフィヨルドに沿って、友人2人と歩いていたと残しています。空が赤く染まっていく様子についてムンクは「青黒いフィヨルドと街の上に血と火の舌があった」と描写しており、「私は不安に震えながらそこに立っていました」と日記に書きました。
日記は、「そして、自然の中を終わりのない叫び声が響くのを感じました」と締められています。そのため、「叫び」で手前に描かれている人物は、「この人は叫んでいるのではなく、鳴り響く叫び声に耳をふさいだ様子」を描写したものと考えられています。
当初、ムンクはフィヨルドを繰り返し訪れ、最初は中心の人物もわかりやすい見た目で描写していたそうです。しかし、イメージを劇的で抽象化された象徴主義に重ねた結果、中央の人物を頭蓋骨のような顔が強くゆがんだ表情で描くことになり、最終的に広く知られる「叫び」が完成しています。これについてムンクは「狂った人物によってのみ描かれた可能性があります」という文章を添えました。
ムンクは最終的に、「叫び」を4パターン発表しています。2つはパステル、2つは絵の具で描かれ、その他に同じ絵で版画や平版画(リトグラフ)も作成しました。1893年の後半、ムンクはベルリンで開いた個展で「叫び」を初めて公開。表現主義運動を刺激する大胆な構成や厳しい心理状態を強調する表現方法は、第一次世界大戦に突入していく世界で感情の輪郭を描き出したと高く評価を得ていきます。
さらに、「叫び」は1990年代半ばにパブリックドメインになった際、特徴的な構図や色彩が模倣され、さまざまなパロディとして引用された結果、恐怖と不安の典型的なシンボルとしてよりいっそう有名になりました。
恐怖と不安の典型的なシンボルとしての「叫び」のイメージは、現代では絵文字でもよく目にしています。