笠置シヅ子&服部良一特集、刑部芳則が語る戦前のブギ、「東京ブギウギ」
音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。
2023年12月の特集は、「笠置シヅ子と服部良一」。1週目は、コロムビア・レコードから発売になった『笠置シヅ子の世界〜東京ブギウギ〜』、『服部良一の世界〜青い山脈〜』の選曲、解説を執筆した日本大学の教授・刑部芳則を迎え、歴史を掘り下げていく。
こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター・田家秀樹です。今流れているのは、笠置シヅ子さんの「大阪ブギウギ」。作詞が藤浦洸さんで、作曲が服部良一さん。歌、笠置シヅ子さん。昭和23年、1948年に発売されました、2枚組のアルバム『笠置シヅ子の世界』からお聴きいただいております。今週と来週のテーマはこの曲ですね。
なぜこの曲がテーマかと言いますと、関西弁ですね。関西弁がブギウギによく似合います。今月2023年12月の特集は「笠置シヅ子と服部良一」。日本のポップ・ミュージック、J-POPの父、作曲家・服部良一さんと、彼が世に送り出したブギの女王、スウィングの女王・笠置シヅ子さん。お2人とも大阪ですからね。大阪はブギの町でありました。
「J-POP LEGEND FORUM」時代に美空ひばりさん、伊東ゆかりさん、お2人を特集したときに戦後の日本音楽シーンの話はしたりしておりましたが、まさにその時代の立役者、歌手と作曲家というお2人ですね。いつかこの2人の特集がやれたらなと思っていたのですが、なかなか踏み切れなかった。ついに実現したんですね。なんと言ってもNHKの朝ドラ『ブギウギ』のおかげです。なんで踏み切れなかったと言いますと、戦前から戦後にまたがっているので1人では手に負えない、どなたに話をお聞きすればいいんだろうと思っていたのですが、朝ドラが道筋をつけてくれました。
そして、そういうアルバムも出ました。コロムビア・レコードから発売になった『笠置シヅ子の世界〜東京ブギウギ〜』、『服部良一の世界〜青い山脈〜』、それぞれ2枚組。このアルバムの中からお聴きいただこうと思うのですが、ゲストにお招きしたのはこのアルバムの選曲、解説をお書きの刑部芳則さん。朝ドラ『ブギウギ』の風俗考証としてオープニングに名前も登場しております。1977年生まれ、日本大学の教授です。専門は日本近代史、昭和歌謡史の研究家という方であります。こんばんは。
刑部:こんばんは。刑部です。よろしくお願いいたします。
田家:ドラマの反響はどんなふうに受け止めてらっしゃいますか?
刑部:ちょうど3年前に『エール』という朝ドラがあって、作曲家の古関裕而が全国的に有名になったんですけど、まさかその3年後に『ブギウギ』という形で笠置シヅ子さんとか服部良一さんをモデルに描かれるドラマが作られるとは夢にも思ってなかったんです。これによって若い人とか、特にご存知ない方も全国的に笠置シヅ子、服部良一の名前がまた知られるようになるんじゃないかなと思っています。
田家:この2人をやるんだとNHKから話があったときにはどう思われました?
刑部:いやー、もう本当にうれしさとびっくりが共存で。これであと古賀政男が今度くれば、昭和の三大作曲家やれたな、制覇したなって感じがしますけども。
田家:うれしいですか、やっぱり。
刑部:やっぱりうれしいですね。
田家:1977年生まれにとってもうれしい。
刑部:ええ。だけどね、私1977年生まれなんですけどね、本当は1877年ぐらいの生まれなのかなとかね。
田家:ははははは! この2枚組のアルバムはそれぞれコンセプトがおありでしょう?
刑部:1枚目の方は「東京ブギウギ」を中心にした、一連のブギの作品を中心に集めまして。Disc2の方はブギではない、戦後の曲を選んだんですけども。
田家:今週はDisc1から刑部先生に曲を選んでいただきました。今日の1曲目、昭和9年8月発売「恋のステップ」。歌っているのは三笠静子さん。どんな曲なのかは曲の後に。
刑部:これは笠置さんのデビュー曲なんですよね。
田家:笠置シヅ子になる前ってことですね。
刑部:そうですね。最初は三笠静子と言っていたんですけど、ちょうど昭和10年、皇族の三笠宮というのが創設されて。同じ名前に被っているというのは失礼に当たるんじゃないかというふうに思いまして、それで三笠から笠置という形に変えるんですよね。
田家:作詞が高橋掬太郎さんで作曲が服部ヘンリーさん。高橋さんは「雨に咲く花」、井上ひろしさん。「ここに幸あり」大津美子さん、ああいう曲を書いている人。
刑部:そうですね。三橋美智也さんの「古城」とかですね。
田家:まーつかーぜーさーわーぐー♪ね(笑)。服部ヘンリーさんというのはどなたなんですか?
刑部:昔はこれが服部良一じゃないかと言われてもいたんですけど、実は調べてみると服部逸郎という方なんです。一般的にはレイモンド服部という名前で有名になっていますね。「ヤットン節」とか作曲した人なんですけど、その人の変名だったんです。
田家:それはどうやって調べたんですか?
刑部:CDを今回作成するにあたって、コロムビアの方の史料でわかったんですよ。
田家:さすが大学教授であります。再び「恋のステップ」が流れておりますが、昭和9年、1934年、おもしろい年だったんですね。
刑部:そうですね。ちょうど経済的に見ると昭和恐慌というのがあって、慢性的に経済が悪かったんです。徐々にそれが回復してきて、景気がよくなってきた感じの頃なんですね。
田家:宝塚が開場したとか、渋谷のハチ公の銅像が建立されたとか、満鉄の特急あじあ、流線形の特急が走った。大阪駅が高架になったのがこの年だったとか。全米選別でベイ・ブルースが来たとか、ボニーとクライド、映画「俺たちに明日はない」になった2人が射殺された年だった。
刑部:いろいろなことがあった年ですよね。
田家:そういう時代の「恋のステップ」。洒落たタイトルですね。
刑部:洒落たタイトルですよ。これ当時歌の世界でいくと、笠置さんとは対照的で直立不動で歌っていた東海林太郎さんの「赤城の子守唄」なんかが大ヒットしてた頃に発売された曲ですからね。もう対照的ですよね。
田家:笠置さんは1914年、大正3年生まれでこのときは20歳だったことになるのかな。笠置さんは宝塚に落ちて、松竹歌劇団に入っている?
刑部:そうです。試験はよかったみたいなんですけどね、身長が少し足りない、小柄な方だったので。それで落ちてしまって、松竹の方に入るって形になったみたいですね。
田家:先生が笠置シヅ子さんに興味を持たれたのは何がきっかけだったんですか?
刑部:私はギリギリ間に合った世代なんですよ。笠置さんと言うと、歌を歌っているというよりはクレンザーの宣伝に出ているおばさんっていう感じなんですよね。
田家:大阪のおばちゃん。
刑部:それが、こういう古い昭和の流行歌とかに興味を持って、いろいろ聴くようになったときに笠置さんの歌っている歌唱映像とか古いものを見てびっくりしたんですよね。基本的には直立不動みたいに歌っていたような人たちが多い時代に、舞台ところ狭しと動き回って、これだけパワフルに歌う歌手がいたんだということに驚きで、興味を持ちましたね。
田家:昭和歌謡史に入っていくきっかけは他にもあるんですか?
刑部:最初はやっぱり古賀政男さんと古関裕而さんの作品を聴きまして。映像だとさっき言った東海林太郎さんをテレビで観て、もうすごいインパクトだったんです。こんな歌手がいたんだと、いつでも燕尾服で全く動かないみたいな。私の子どもの頃はピンク・レディーとかキャンディーズとかがだったんですけど、逆にこんな人がいたっていう。
田家:ね、生まれた年はピンク・レディーの絶頂ですもんね。
刑部:そんなとき、子どものときに観て逆にインパクトがすごかったんですね。全く動かないんだみたいなね(笑)。
田家:なるほど、そうやっていろいろなことが繰り返されたり継承されていくんだなという代表的な方が今月のゲストでありますが。笠置シヅ子さんという名前になったのが1935年で刑部さんが選ばれた今日の2曲目です。「ラッパと娘」。
田家:昭和14年、1939年12月発売。
刑部:私はこれ、戦前の笠置さんの曲の中で一番好きな曲なんですよね。
田家:これは服部良一さんと笠置シヅ子さんの出会いの曲。これはもうドラマの中にいろいろなストーリーとともに紹介されていましたが。
刑部:笠置さんがもともと大阪の松竹少女歌劇団の方にいたんですけども、昭和12年に東京浅草劇場の国際大阪踊りというのに参加しまして。翌年の13年に帝国劇場で松竹歌劇団というのが旗揚げ公演になるという形になって、移ってくるんですね。そのときに服部良一さんはちょうど東京日日新聞が主催していた日中戦争の招聘の慰問報道団という形で中国にでかけていたんですけども、そこから帰ってきましてそのタイミングなんです。そこで音楽の担当をしてくれないかという形で、ここに関わることになるんですよ。そこで笠置さんと服部さんが初めて出会うことになって、こういった曲を歌うことになるっていうことなんですよね。
田家:浅草劇場で国際大阪踊りっていうのがあったんだなと思いましたけど。
刑部:これは言ってみれば大阪の松竹少女歌劇団なんかが参加する形になりまして、通常では東京浅草劇場では観れないものが観れるという形で、大阪踊りという形でやったんですよね。
田家:松竹歌劇団がやっていたステージっていうのは所謂レビューみたいなものになるんですかね。
刑部:そうですよね。音楽を使った踊りを中心にした劇というか、形ですよね。
田家:集団劇みたいな。こういうスウィングしている曲、ここまで自由に歌ったりする曲はなかったんですかね。
刑部:ないですよね。それまではどちらかと言うと1曲目に聴いていただいた「恋のステップ」みたいなレビューっていうのが多かったんですけど、服部さんが来たことによってジャズを非常に活かしたアップテンポな曲がここで出てくるって形ですよね。
田家:なるほど。三笠静子さんの曲は服部良一さんじゃないんですもんね。
刑部:そうですそうです。レイモンド服部ですからね。
田家:その頃はスウィングも、もちろんこのときにはまだブギにもなっていないという。
刑部:そうですね。それから歌い方が「恋のステップ」のときは音楽学校かなんかで正統だと言われていたような西洋式の発声方法というような形でやっていたんだと思うんですけど、服部さんと出会ったことによって服部さんが笠置さんの魅力は地声だと。無理して高い声で発声をするのではなくて、地声を活かしたような形で歌ってはどうかという形でアドバイスをして。それでこの「ラッパと娘」を歌っているんですよね。
田家:今日の3曲目です。これもおなじみの曲になりました。「センチメンタル・ダイナ」。
田家:1940年3月発売。この曲もお茶の間でおなじみになりました。作詞が野川香文さん、作曲が服部良一さん、野川香文さんはジャズ評論家なんでしょう?
刑部:そうですね。服部さんの「雨のブルース」淡谷のり子さんのを作詞した人ですよね。
田家:この曲で思われるのはどういうことですか?
刑部:最初聴いたとき、服部良一の作曲だと思わなかったんですね。アメリカ人が作曲したかと思っていたんですよ。なんでかと言うと、セントルイス・ブルースを聴いたときのように感じるんですよね。最初のところをブルースのような形で、このままずっとこれはいくのかなみたいな。ラッパと娘と変えているのかなと思ったんですけどサビの部分のセンチメンタル・ダイナって来るところで転調してものすごいジャズになってくる。ここがすごい魅力だなと思うんですよね。
田家:発売になった1940年、昭和15年というのもいろいろなことがあった年だったんだなと思ったのですが、敵姓の追放というのがこのときなんですね。
刑部:芸能人なんかの名前をカタカナ名を変えたりというふうな形で出てくる頃ですよね。
田家:デイック・ミネさんとかバッキー白片さんとか名前を変えざるをえなかった。ナチス・ドイツがパリを総攻撃して、日本は重機を爆撃したという戦争の匂いがプンプンという。
刑部:そうですね。この年に日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結びますよね。そして大政翼賛会なんかが発足されたり、日本国内で新体制と呼ばれるような形になってくるんですよね。昭和15年って非常に映画と流行歌全般にヒット曲がすごく輝いているんですけど、逆に言うとこの年が戦前最後なんですよね。
田家:贅沢は敵だというのも、この年に標語になった。笠置さんも発売禁止になったシングルがあるんですってね。
刑部:「ホット・チャイナ」という曲がありまして、これはもう片面の方が「タリナイ・ソング」という服部さんが作った曲なんですけど、ものが足りないとか、何ができないというようなことを歌った。言ってみれば贅沢は敵だというのに反抗するような内容に内務省は受け取ったんだと思うんですよね。当時、レコードは内務省が検閲していましたから。それでそれが発売禁止という形になることによって、言ってみればもらい事故ですよね。「ホット・チャイナ」はなんでもなかったんですけど、結局レコードプレスでカップリングですから売れなくなっちゃったということなんです。
田家:笠置さんも引っ張られたりしたわけでしょう? 警察に。
刑部:歌い方がよろしくないと。三尺四方からはみ出て歌うなというような形を言われたみたいですよ。
田家:戦争中に服部良一さんは何をしていたのかというのは、3、4週目にお訊きしようと思っているのですが、そういう中でこの曲が誕生したと思っていただけるとうれしいです。
田家:昭和23年、1948年1月発売。
刑部:これを聴いたときには、あ、これで戦争が終わったんだな、平和な日本が来たんだなっていう感じがしますし、それからやっぱり服部さんじゃなきゃ書けない新しいサウンドだなって感じがしますよね。
田家:焼け跡の中央線の電車の中で浮かんだという有名な話がありますもんね。
刑部:そうですね。これは霧島昇さんの「胸の振子」という、服部良一さん作曲なんですけど、それが終わって中央線に乗っていたらつり革が揺れているのを見て、その振動でメロディが浮かんできたみたいなんですね。西荻窪に着いたときにこれは忘れちゃいけないというのですぐに喫茶店に入りまして、紙ナプキンに五線譜を自分で書いていったという。それがこの「東京ブギウギ」の誕生だそうですよ。
田家:この「ブギウギ時代」は昭和23年、1948年11月に発売になって。
刑部:「東京ブギウギ」が当たったことによって、服部さんがたくさん作るんですよね。まさにブギっていうものが大衆にも求められていた時代を象徴している曲だと思うんです。それから歌詞の中に”トウキョウ ネギネギ ブギウギ”とか、それから”猫も杓子もブギウギ”とか遊んでますよね。作詞が服部さんなので。
田家:村雨まさをさんという名前になってますよね。
刑部:そうなんです。ペンネームで使っているんですけど、服部さん、今の2つのフレーズを大変気に入っていたみたいで。だから猫も杓子もブギウギなんていうのは市丸さんが歌った「三味線ブギウギ」にも同じフレーズで出てくるんですよね。
田家:NHKドラマ『ブギウギ』はこの後戦争に入っていくんでしょうけども、戦争はどんなふうに描くんだろうと思っているんですよね。
刑部:そうですね。それがみなさんやっぱり一番気になるところだと思うんですけどね。これは実際に放送を観て、確認して楽しんでいただければと思いますね。
田家:先生の風俗考証はどんなことをおやりになるんですか?
刑部:テレビ画面に映る小道具であるとか、背景に出てくる時代にふさわしいものを用意するというか考えるんですね。例えば商品なんかでも喫茶店なんかに入りますよね。そうすると、そこのメニューとか。例えば昭和何年の何月の段階だと、これがここに出てもおかしくないかどうかとか。1つ1つ調べて、ちゃんと裏取りして提供しているんですよね。
田家:どこで調べるんですか?
刑部:当時の文献とか雑誌、新聞とかそういうものをくまなく見ていって、本当にそれがその当時の東京にあったかどうかとか。東京にあっても、大阪にはなかったんじゃないかとかですね。そういうことを調べているんですよね。
田家:さっきお聴きいただいた「東京ブギウギ」は昭和22年に大阪の梅田劇場で初めて披露されたんですってね。
刑部:あ、そうなんですよ。
田家:なんで大阪だったんですかね。公演があったから?
刑部:そうですね。そこで初披露という形になるんですけど、これはやっぱり服部さんが戦後復興していく人々のために新しいサウンドを作ろうという形で、最初はブルースを作ろうと思ったんです。そしたら先程出てきた作詞家の野川香文さんが、いやー今の時代はブルースよりも、もっとリズミカルな曲の方がいいんじゃないかと言ったときに、じゃあこれはブギウギがいいと服部さんは考えたんですよ。
田家:昭和24年、1949年12月発売。大阪で初めて披露された「東京ブギウギ」が全国を席巻して、いろいろな町の名前がついたブギが誕生した中の1曲。名古屋というのは笠置シヅ子さんにとっても物語のある町なんですよね。
刑部:そうですね。笠置さんがお付き合いすることになる方がいるんですけど。
田家:戦争中。
刑部:ええ。吉本興業の息子さんで、吉本穎右さんという方がいるんですけど、たまたま名古屋に舞台を笠置さんが観に行ったときに、その楽屋に挨拶かなにかに行ったときに1人の凛々しい端正な顔立ちの青年がいた。それが穎右さんだったみたいですね。笠置さんは非常にそれで惹かれたみたいなんですけど、お互いに大阪出身で東京で仕事をしていたものですから。不慣れな土地で心細い、戦争中でということで2人がだんだんと心惹かれるという形でお付き合いする形になるんですよね。ところが終戦後、昭和22年ですか。この穎右さんは結核を患って、それが非常に悪くなってお亡くなりになっちゃうんですよね。亡くなった後、笠置さん1人の娘さんをお産みになる。言ってみればシングルマザーになるわけですよね。服部さんなんかは東京ブギを作ったというもう1つの理由には笠置さんを励まそうと、もう1回奮起して頑張ってもらおうという意味でも作ったみたいですね。
田家:2枚組のアルバム『笠置シヅ子の世界』Disc1がブギウギ編ということで、ブギウギの曲がたくさん選ばれていますが、「さくらブギウギ」、「博多ブギウギ」、「北海ブギウギ」、「大阪ブギウギ」、その中に「名古屋ブギウギ」もある。これだけいろいろなところの地名を作るくらいに全国的に支持されていた?
刑部:「東京ブギウギ」が作られて、戦後復興ということで復興の博覧会みたいなイベントが行われたりしまして。そうしたときに昔であれば音頭とか、なになに行進曲とかというようなものが作られたんですけど、やっぱりブギだろうということで。それで頼んでくるという流れも当時あったみたいですね。
田家:昔は音頭だったものがブギになって、みんな音楽で楽しく過ごそうよというふうになっていった。ブギウギは戦後復興の庶民の音楽だったということですね。
刑部:そうですね。やっぱり新しい終戦直後、戦後復興のテーマソングと言っても過言ではないかなと思いますよね。
田家:そういうブギウギをシングルマザーが歌っていた。このへんもいろいろなストーリーがありそうですね。6曲目。昭和23年1948年4月に発売になった「ヘイヘイブギー」。
田家:作詞が藤浦洸さんで作曲が服部良一さん。藤浦洸さんは子どもの頃、テレビの『私の秘密』とかで顔を見せたことがありましたけども。この方もいろいろな詞を書かれていますよね。
刑部:そうですね。服部良一とは名コンビという感じですね。
田家:淡谷のり子さんの「別れのブルース」とかもひばりさんも書いてるんでしょう。「悲しき口笛」とか「東京キッド」とか。
刑部:服部さんの曲ではないですけどね。
田家:ないですけどね、ええ。藤浦洸さんは昭和歌謡史の中ではかなり重要な作詞家?
刑部:藤浦さんは他の作詞家と違って、楽譜が読めるんですよね。だからそこが服部さんにとってはよかったんだと思うんですよね。リズムのあるところに乗せられるような。この曲の中の1つのポイントがラッキーカムカムっていうフレーズが出てきますけど、そういった隠語というリズムに乗せる言葉というのを服部さんと藤浦さんは模索して考えていたと言いますよね。その1つがラッキーカムカムという言葉だったみたいですよ。
田家:まだそんなに横文字の歌自体がない時代ですもんね。こういうカタカナの歌謡曲ってどのくらいあったんだろうと、今ふと思ったりしましたけども。
刑部:やっぱり戦前は少ないですよね。戦後になってから、特に進駐軍が来てブルース、ブギとか一連の新しいタンゴだとか曲がどんどん来ることによって、日本の歌謡曲にも服部さんを中心として他の作詞作曲家もこういう曲を生み出していく形になっていきますよね。
田家:昭和20年代って陽気な歌が多かったですもんね。
刑部:それだけ暮らしがまだ配給制度が続いているし、おいしいものを食べたいとか、そういう欲求を満たしてくれるのが歌だったような気もしますよね。
田家:「東京ブギウギ」の作詞家は鈴木勝さん。この方もかなりいろいろな背景がある方なんでしょう?
刑部:そうですね。この人はお父さんが大変有名なんですよね。仏教哲学者で鈴木大拙という。養子で実の子どもではないんですけども、上海の報道部なんかでもともと記者の活動をしていたのでそこで服部さんと知り合うという形で。
田家:2人とも中国での体験があって、服部さんの『ぼくの音楽人生』という本の中に、新しいリズムには新しい作詞家がいいということで鈴木さんを器用したとありましたね。
刑部:やっぱり服部さんからすると、当時の流行歌の売れっ子と言うと、西條八十を中心にした四行詩、五行詩、七五調というものが定石だった時代なんですけど。やっぱりブギを作る場合にはそういう人たちの詞に曲をつけることも難しいし、逆に自分が作った曲先の場合にそういう先生にお願いするのはなかなか難しい。そこで服部良一、自分が作詞したり、そうじゃない場合は藤浦洸さんと鈴木勝さんみたいな今まで作詞をあまりしてなかった人にも声をかけて作ってもらうという形をしていたみたいですね。
田家:今日の7曲目です。この曲に詞をつけられるそれまでの作詞家の方はいらっしゃらなかったでしょうね。「ジャングル・ブギー」。
田家:いやーすごい歌ですね。昭和23年11月発売。これは作詞のクレジットの名前を拝見してびっくりしたのですが黒澤明さん。なんですかっていう感じです(笑)。
刑部:これは映画の『醉いどれ天使』の中でも笠置さんが歌っていますけど、どうも黒澤明は笠置さんの歌唱力、パフォーマンスを非常に魅力に感じていたみたいで。やっぱりさすが黒澤明ですね。他の作詞家に託さない。自分で作詞しちゃうんですね。
田家:映画の中に使う曲としてこれが作られたんですかね。
刑部:ええ、そうですね。
田家:『醉いどれ天使』ってこういう映画だったんでしたっけ。
刑部:キャバレーみたいなシーンがあって、バンドの前で歌っているシーンが出てきます。
田家:キャバレーでこういう曲をやっていたんだ。でもこの曲も服部良一さんはどんなイメージで作られたんだろうと思いましたね。
刑部:いやー、やっぱりねこれ名曲だと思うんですけど、詞を見ても四行詩、五行詩の七五調じゃなくて、上手く作るなって思いますよ。
田家:わーおわーおですもんね(笑)。これが歌謡曲にあったということがいかに画期的、革命的だったかという1曲ですね。
刑部:そうですね、本当に。
田家:映画という音楽ということでも、この時代はかなり近しいものがあった?
刑部:戦前からそうやって挿入歌みたいな形で歌う部分があったんですけど、戦後になってくると外国のミュージカルみたいな感じのものが結構多く出てくると思うんです。日本的に作るというような形が出てくると思うんですけど、笠置さんはそういうの多いですよね。映画に自分が出て歌っているシーンが。
田家:それが音楽を辞めた後、俳優さんになっていくわけですもんね。
刑部:普通のレコードを吹き込んでいる歌手と違って、舞台から出てきている。パフォーマンスをして歌っていたというところが大きいと思うんですよね。それがやっぱり映画の演劇の舞台になっても、笠置さんがそういう部分で活躍するところに繋がっているんだと思うんですよね。
田家:こういうブギウギ時代のピークはどのへんになるんですかね。
刑部:やっぱり昭和24〜25年。特に「買い物ブギー」あたりがピークじゃないかなという感じがします。
田家:その曲をお聴きいただきます。8曲目「買い物ブギー」。
田家:1950年に発売。こんなに自由で破天荒で明るくて楽しくて庶民的な歌っていうのは飛び抜けていますね。
刑部:これはやっぱり服部さんが作詞しているんですけど、遊び心満載って感じですよね。
田家:歌える人もいないでしょうからね、この歌は。
刑部:いやー、笠置さんじゃないと難しいんじゃないですかね。
田家:服部さんはブギというタイトルの曲を約30曲ぐらいと、『ぼくの音楽人生』の中にお書きになっていましたけど、それぐらいなんですかね。
刑部:そうですね。実際にレコードとして発売されなかったような曲もありますけどもね。
田家:笠置さんと服部さんを結びつけていたものはやっぱりブギ?
刑部:そう言っても過言ではないかもしれませんよね。
田家:やり尽くしたという感じはあったんでしょうかね。
刑部:この後やっぱり急速に音楽というものは流行が変わってきますからね。ブギが続いていくと、やっぱりまた新しいメロディというか、音楽が出てきたことによって大衆もそれがずっと続くと飽きてしまうというか。熱しやすく冷めやすいというのが日本人特有なのか、服部さんの作る曲もブギから違ったものへと変わっていくんですよね。
田家:その話は来週笠置さんの曲でいろいろお訊きしていこうと思うのですが、NHKの『ブギウギ』のスタッフがなんで今このドラマをやるんだという話をされたりしましたか?
刑部:あまりそういう話は私自身は聞いてないんですけどもね。
田家:今なんでこのドラマがこんなに受けるんだろう、この音楽がこんなにみんなにヒットしているんだろうというのは1つのテーマになりますね。
刑部:そうですね。これは推測でしかないんですけど、古い流行歌の中でも服部さん、笠置さんのものはJ-POPに繋がる要素があって。そこが若い人の間でもうけるし、今の若い人たちなんかただ歌うだけじゃなくて踊ったりする。それがセットになっている部分でも受け入れられやすいというのが1つあるんじゃないかなという感じがしますけどもね。
田家:来週も笠置さんの話をいろいろ教えてください。ありがとうございました。
刑部:ありがとうございました。
静かな伝説 / 竹内まりや
今流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。
この番組で笠置シヅ子さんの特集を組めるのは、感慨深いものがありますね。J-POPの原点に笠置シヅ子さんがいるというのは、自分の体験としても覚えてはいるんですけども、なかなか特集しにくい。冒頭でも申し上げましたけども、あまりに古いのでどなたに話を訊けばいいだろうとか、その頃の音源を流して他の番組と比べて違和感を持たれないだろうかと考えたりしていたんです。でもこれは朝ドラ、NHKのおかげですね(笑)。僕はNHKとはほとんど縁がないですし、朝ドラもほとんど観たことないんです。『あまちゃん』をちょっと観たぐらいで、そういう人間が今度のドラマは録画しながら観ていますからね。やっぱりテレビの力はすごいなと思いながら、こういうあまりみんなが振り向かないようなこと、それから忘れてきたようなこと、日の当たらないところに置かれていること、人たちを取り上げてくれるとテレビに対して感謝する気持ちが生まれてきます。
しかも、今月の解説者は1977年生まれですよ。77年当時の音楽シーンだったらいくらでも語れるんですけども、そのとき生まれた方が僕が生まれる前の話をされる。自分が生まれた頃の話を息子から訊いているという不思議な感覚もありながら、おもしろいなと思いつつ収録しました。ドラマの方はこれから戦時中に入っていくんですね。収録はちょっと前なので、まだ戦争そのものではないですけども、弟さんが戦争に行ったところ、お母様が亡くなったところで終わっておりますが、戦後焼け跡で打ちひしがれていた人たちに響いたのがブギウギであります。今はそういう意味では焼け跡みたいな時代なのかもしれないなと思ったりしながら、このドラマを観ています。ドラマが古く思えないのはなんなんでしょうね。来週はブギウギにとらわれない笠置シヅ子さんの歌をお聴きいただきます。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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2023年12月の特集は、「笠置シヅ子と服部良一」。1週目は、コロムビア・レコードから発売になった『笠置シヅ子の世界〜東京ブギウギ〜』、『服部良一の世界〜青い山脈〜』の選曲、解説を執筆した日本大学の教授・刑部芳則を迎え、歴史を掘り下げていく。
なぜこの曲がテーマかと言いますと、関西弁ですね。関西弁がブギウギによく似合います。今月2023年12月の特集は「笠置シヅ子と服部良一」。日本のポップ・ミュージック、J-POPの父、作曲家・服部良一さんと、彼が世に送り出したブギの女王、スウィングの女王・笠置シヅ子さん。お2人とも大阪ですからね。大阪はブギの町でありました。
「J-POP LEGEND FORUM」時代に美空ひばりさん、伊東ゆかりさん、お2人を特集したときに戦後の日本音楽シーンの話はしたりしておりましたが、まさにその時代の立役者、歌手と作曲家というお2人ですね。いつかこの2人の特集がやれたらなと思っていたのですが、なかなか踏み切れなかった。ついに実現したんですね。なんと言ってもNHKの朝ドラ『ブギウギ』のおかげです。なんで踏み切れなかったと言いますと、戦前から戦後にまたがっているので1人では手に負えない、どなたに話をお聞きすればいいんだろうと思っていたのですが、朝ドラが道筋をつけてくれました。
そして、そういうアルバムも出ました。コロムビア・レコードから発売になった『笠置シヅ子の世界〜東京ブギウギ〜』、『服部良一の世界〜青い山脈〜』、それぞれ2枚組。このアルバムの中からお聴きいただこうと思うのですが、ゲストにお招きしたのはこのアルバムの選曲、解説をお書きの刑部芳則さん。朝ドラ『ブギウギ』の風俗考証としてオープニングに名前も登場しております。1977年生まれ、日本大学の教授です。専門は日本近代史、昭和歌謡史の研究家という方であります。こんばんは。
刑部:こんばんは。刑部です。よろしくお願いいたします。
田家:ドラマの反響はどんなふうに受け止めてらっしゃいますか?
刑部:ちょうど3年前に『エール』という朝ドラがあって、作曲家の古関裕而が全国的に有名になったんですけど、まさかその3年後に『ブギウギ』という形で笠置シヅ子さんとか服部良一さんをモデルに描かれるドラマが作られるとは夢にも思ってなかったんです。これによって若い人とか、特にご存知ない方も全国的に笠置シヅ子、服部良一の名前がまた知られるようになるんじゃないかなと思っています。
田家:この2人をやるんだとNHKから話があったときにはどう思われました?
刑部:いやー、もう本当にうれしさとびっくりが共存で。これであと古賀政男が今度くれば、昭和の三大作曲家やれたな、制覇したなって感じがしますけども。
田家:うれしいですか、やっぱり。
刑部:やっぱりうれしいですね。
田家:1977年生まれにとってもうれしい。
刑部:ええ。だけどね、私1977年生まれなんですけどね、本当は1877年ぐらいの生まれなのかなとかね。
田家:ははははは! この2枚組のアルバムはそれぞれコンセプトがおありでしょう?
刑部:1枚目の方は「東京ブギウギ」を中心にした、一連のブギの作品を中心に集めまして。Disc2の方はブギではない、戦後の曲を選んだんですけども。
田家:今週はDisc1から刑部先生に曲を選んでいただきました。今日の1曲目、昭和9年8月発売「恋のステップ」。歌っているのは三笠静子さん。どんな曲なのかは曲の後に。
刑部:これは笠置さんのデビュー曲なんですよね。
田家:笠置シヅ子になる前ってことですね。
刑部:そうですね。最初は三笠静子と言っていたんですけど、ちょうど昭和10年、皇族の三笠宮というのが創設されて。同じ名前に被っているというのは失礼に当たるんじゃないかというふうに思いまして、それで三笠から笠置という形に変えるんですよね。
田家:作詞が高橋掬太郎さんで作曲が服部ヘンリーさん。高橋さんは「雨に咲く花」、井上ひろしさん。「ここに幸あり」大津美子さん、ああいう曲を書いている人。
刑部:そうですね。三橋美智也さんの「古城」とかですね。
田家:まーつかーぜーさーわーぐー♪ね(笑)。服部ヘンリーさんというのはどなたなんですか?
刑部:昔はこれが服部良一じゃないかと言われてもいたんですけど、実は調べてみると服部逸郎という方なんです。一般的にはレイモンド服部という名前で有名になっていますね。「ヤットン節」とか作曲した人なんですけど、その人の変名だったんです。
田家:それはどうやって調べたんですか?
刑部:CDを今回作成するにあたって、コロムビアの方の史料でわかったんですよ。
田家:さすが大学教授であります。再び「恋のステップ」が流れておりますが、昭和9年、1934年、おもしろい年だったんですね。
刑部:そうですね。ちょうど経済的に見ると昭和恐慌というのがあって、慢性的に経済が悪かったんです。徐々にそれが回復してきて、景気がよくなってきた感じの頃なんですね。
田家:宝塚が開場したとか、渋谷のハチ公の銅像が建立されたとか、満鉄の特急あじあ、流線形の特急が走った。大阪駅が高架になったのがこの年だったとか。全米選別でベイ・ブルースが来たとか、ボニーとクライド、映画「俺たちに明日はない」になった2人が射殺された年だった。
刑部:いろいろなことがあった年ですよね。
田家:そういう時代の「恋のステップ」。洒落たタイトルですね。
刑部:洒落たタイトルですよ。これ当時歌の世界でいくと、笠置さんとは対照的で直立不動で歌っていた東海林太郎さんの「赤城の子守唄」なんかが大ヒットしてた頃に発売された曲ですからね。もう対照的ですよね。
田家:笠置さんは1914年、大正3年生まれでこのときは20歳だったことになるのかな。笠置さんは宝塚に落ちて、松竹歌劇団に入っている?
刑部:そうです。試験はよかったみたいなんですけどね、身長が少し足りない、小柄な方だったので。それで落ちてしまって、松竹の方に入るって形になったみたいですね。
田家:先生が笠置シヅ子さんに興味を持たれたのは何がきっかけだったんですか?
刑部:私はギリギリ間に合った世代なんですよ。笠置さんと言うと、歌を歌っているというよりはクレンザーの宣伝に出ているおばさんっていう感じなんですよね。
田家:大阪のおばちゃん。
刑部:それが、こういう古い昭和の流行歌とかに興味を持って、いろいろ聴くようになったときに笠置さんの歌っている歌唱映像とか古いものを見てびっくりしたんですよね。基本的には直立不動みたいに歌っていたような人たちが多い時代に、舞台ところ狭しと動き回って、これだけパワフルに歌う歌手がいたんだということに驚きで、興味を持ちましたね。
田家:昭和歌謡史に入っていくきっかけは他にもあるんですか?
刑部:最初はやっぱり古賀政男さんと古関裕而さんの作品を聴きまして。映像だとさっき言った東海林太郎さんをテレビで観て、もうすごいインパクトだったんです。こんな歌手がいたんだと、いつでも燕尾服で全く動かないみたいな。私の子どもの頃はピンク・レディーとかキャンディーズとかがだったんですけど、逆にこんな人がいたっていう。
田家:ね、生まれた年はピンク・レディーの絶頂ですもんね。
刑部:そんなとき、子どものときに観て逆にインパクトがすごかったんですね。全く動かないんだみたいなね(笑)。
田家:なるほど、そうやっていろいろなことが繰り返されたり継承されていくんだなという代表的な方が今月のゲストでありますが。笠置シヅ子さんという名前になったのが1935年で刑部さんが選ばれた今日の2曲目です。「ラッパと娘」。
田家:昭和14年、1939年12月発売。
刑部:私はこれ、戦前の笠置さんの曲の中で一番好きな曲なんですよね。
田家:これは服部良一さんと笠置シヅ子さんの出会いの曲。これはもうドラマの中にいろいろなストーリーとともに紹介されていましたが。
刑部:笠置さんがもともと大阪の松竹少女歌劇団の方にいたんですけども、昭和12年に東京浅草劇場の国際大阪踊りというのに参加しまして。翌年の13年に帝国劇場で松竹歌劇団というのが旗揚げ公演になるという形になって、移ってくるんですね。そのときに服部良一さんはちょうど東京日日新聞が主催していた日中戦争の招聘の慰問報道団という形で中国にでかけていたんですけども、そこから帰ってきましてそのタイミングなんです。そこで音楽の担当をしてくれないかという形で、ここに関わることになるんですよ。そこで笠置さんと服部さんが初めて出会うことになって、こういった曲を歌うことになるっていうことなんですよね。
田家:浅草劇場で国際大阪踊りっていうのがあったんだなと思いましたけど。
刑部:これは言ってみれば大阪の松竹少女歌劇団なんかが参加する形になりまして、通常では東京浅草劇場では観れないものが観れるという形で、大阪踊りという形でやったんですよね。
田家:松竹歌劇団がやっていたステージっていうのは所謂レビューみたいなものになるんですかね。
刑部:そうですよね。音楽を使った踊りを中心にした劇というか、形ですよね。
田家:集団劇みたいな。こういうスウィングしている曲、ここまで自由に歌ったりする曲はなかったんですかね。
刑部:ないですよね。それまではどちらかと言うと1曲目に聴いていただいた「恋のステップ」みたいなレビューっていうのが多かったんですけど、服部さんが来たことによってジャズを非常に活かしたアップテンポな曲がここで出てくるって形ですよね。
田家:なるほど。三笠静子さんの曲は服部良一さんじゃないんですもんね。
刑部:そうですそうです。レイモンド服部ですからね。
田家:その頃はスウィングも、もちろんこのときにはまだブギにもなっていないという。
刑部:そうですね。それから歌い方が「恋のステップ」のときは音楽学校かなんかで正統だと言われていたような西洋式の発声方法というような形でやっていたんだと思うんですけど、服部さんと出会ったことによって服部さんが笠置さんの魅力は地声だと。無理して高い声で発声をするのではなくて、地声を活かしたような形で歌ってはどうかという形でアドバイスをして。それでこの「ラッパと娘」を歌っているんですよね。
田家:今日の3曲目です。これもおなじみの曲になりました。「センチメンタル・ダイナ」。
田家:1940年3月発売。この曲もお茶の間でおなじみになりました。作詞が野川香文さん、作曲が服部良一さん、野川香文さんはジャズ評論家なんでしょう?
刑部:そうですね。服部さんの「雨のブルース」淡谷のり子さんのを作詞した人ですよね。
田家:この曲で思われるのはどういうことですか?
刑部:最初聴いたとき、服部良一の作曲だと思わなかったんですね。アメリカ人が作曲したかと思っていたんですよ。なんでかと言うと、セントルイス・ブルースを聴いたときのように感じるんですよね。最初のところをブルースのような形で、このままずっとこれはいくのかなみたいな。ラッパと娘と変えているのかなと思ったんですけどサビの部分のセンチメンタル・ダイナって来るところで転調してものすごいジャズになってくる。ここがすごい魅力だなと思うんですよね。
田家:発売になった1940年、昭和15年というのもいろいろなことがあった年だったんだなと思ったのですが、敵姓の追放というのがこのときなんですね。
刑部:芸能人なんかの名前をカタカナ名を変えたりというふうな形で出てくる頃ですよね。
田家:デイック・ミネさんとかバッキー白片さんとか名前を変えざるをえなかった。ナチス・ドイツがパリを総攻撃して、日本は重機を爆撃したという戦争の匂いがプンプンという。
刑部:そうですね。この年に日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結びますよね。そして大政翼賛会なんかが発足されたり、日本国内で新体制と呼ばれるような形になってくるんですよね。昭和15年って非常に映画と流行歌全般にヒット曲がすごく輝いているんですけど、逆に言うとこの年が戦前最後なんですよね。
田家:贅沢は敵だというのも、この年に標語になった。笠置さんも発売禁止になったシングルがあるんですってね。
刑部:「ホット・チャイナ」という曲がありまして、これはもう片面の方が「タリナイ・ソング」という服部さんが作った曲なんですけど、ものが足りないとか、何ができないというようなことを歌った。言ってみれば贅沢は敵だというのに反抗するような内容に内務省は受け取ったんだと思うんですよね。当時、レコードは内務省が検閲していましたから。それでそれが発売禁止という形になることによって、言ってみればもらい事故ですよね。「ホット・チャイナ」はなんでもなかったんですけど、結局レコードプレスでカップリングですから売れなくなっちゃったということなんです。
田家:笠置さんも引っ張られたりしたわけでしょう? 警察に。
刑部:歌い方がよろしくないと。三尺四方からはみ出て歌うなというような形を言われたみたいですよ。
田家:戦争中に服部良一さんは何をしていたのかというのは、3、4週目にお訊きしようと思っているのですが、そういう中でこの曲が誕生したと思っていただけるとうれしいです。
田家:昭和23年、1948年1月発売。
刑部:これを聴いたときには、あ、これで戦争が終わったんだな、平和な日本が来たんだなっていう感じがしますし、それからやっぱり服部さんじゃなきゃ書けない新しいサウンドだなって感じがしますよね。
田家:焼け跡の中央線の電車の中で浮かんだという有名な話がありますもんね。
刑部:そうですね。これは霧島昇さんの「胸の振子」という、服部良一さん作曲なんですけど、それが終わって中央線に乗っていたらつり革が揺れているのを見て、その振動でメロディが浮かんできたみたいなんですね。西荻窪に着いたときにこれは忘れちゃいけないというのですぐに喫茶店に入りまして、紙ナプキンに五線譜を自分で書いていったという。それがこの「東京ブギウギ」の誕生だそうですよ。
田家:この「ブギウギ時代」は昭和23年、1948年11月に発売になって。
刑部:「東京ブギウギ」が当たったことによって、服部さんがたくさん作るんですよね。まさにブギっていうものが大衆にも求められていた時代を象徴している曲だと思うんです。それから歌詞の中に”トウキョウ ネギネギ ブギウギ”とか、それから”猫も杓子もブギウギ”とか遊んでますよね。作詞が服部さんなので。
田家:村雨まさをさんという名前になってますよね。
刑部:そうなんです。ペンネームで使っているんですけど、服部さん、今の2つのフレーズを大変気に入っていたみたいで。だから猫も杓子もブギウギなんていうのは市丸さんが歌った「三味線ブギウギ」にも同じフレーズで出てくるんですよね。
田家:NHKドラマ『ブギウギ』はこの後戦争に入っていくんでしょうけども、戦争はどんなふうに描くんだろうと思っているんですよね。
刑部:そうですね。それがみなさんやっぱり一番気になるところだと思うんですけどね。これは実際に放送を観て、確認して楽しんでいただければと思いますね。
田家:先生の風俗考証はどんなことをおやりになるんですか?
刑部:テレビ画面に映る小道具であるとか、背景に出てくる時代にふさわしいものを用意するというか考えるんですね。例えば商品なんかでも喫茶店なんかに入りますよね。そうすると、そこのメニューとか。例えば昭和何年の何月の段階だと、これがここに出てもおかしくないかどうかとか。1つ1つ調べて、ちゃんと裏取りして提供しているんですよね。
田家:どこで調べるんですか?
刑部:当時の文献とか雑誌、新聞とかそういうものをくまなく見ていって、本当にそれがその当時の東京にあったかどうかとか。東京にあっても、大阪にはなかったんじゃないかとかですね。そういうことを調べているんですよね。
田家:さっきお聴きいただいた「東京ブギウギ」は昭和22年に大阪の梅田劇場で初めて披露されたんですってね。
刑部:あ、そうなんですよ。
田家:なんで大阪だったんですかね。公演があったから?
刑部:そうですね。そこで初披露という形になるんですけど、これはやっぱり服部さんが戦後復興していく人々のために新しいサウンドを作ろうという形で、最初はブルースを作ろうと思ったんです。そしたら先程出てきた作詞家の野川香文さんが、いやー今の時代はブルースよりも、もっとリズミカルな曲の方がいいんじゃないかと言ったときに、じゃあこれはブギウギがいいと服部さんは考えたんですよ。
田家:昭和24年、1949年12月発売。大阪で初めて披露された「東京ブギウギ」が全国を席巻して、いろいろな町の名前がついたブギが誕生した中の1曲。名古屋というのは笠置シヅ子さんにとっても物語のある町なんですよね。
刑部:そうですね。笠置さんがお付き合いすることになる方がいるんですけど。
田家:戦争中。
刑部:ええ。吉本興業の息子さんで、吉本穎右さんという方がいるんですけど、たまたま名古屋に舞台を笠置さんが観に行ったときに、その楽屋に挨拶かなにかに行ったときに1人の凛々しい端正な顔立ちの青年がいた。それが穎右さんだったみたいですね。笠置さんは非常にそれで惹かれたみたいなんですけど、お互いに大阪出身で東京で仕事をしていたものですから。不慣れな土地で心細い、戦争中でということで2人がだんだんと心惹かれるという形でお付き合いする形になるんですよね。ところが終戦後、昭和22年ですか。この穎右さんは結核を患って、それが非常に悪くなってお亡くなりになっちゃうんですよね。亡くなった後、笠置さん1人の娘さんをお産みになる。言ってみればシングルマザーになるわけですよね。服部さんなんかは東京ブギを作ったというもう1つの理由には笠置さんを励まそうと、もう1回奮起して頑張ってもらおうという意味でも作ったみたいですね。
田家:2枚組のアルバム『笠置シヅ子の世界』Disc1がブギウギ編ということで、ブギウギの曲がたくさん選ばれていますが、「さくらブギウギ」、「博多ブギウギ」、「北海ブギウギ」、「大阪ブギウギ」、その中に「名古屋ブギウギ」もある。これだけいろいろなところの地名を作るくらいに全国的に支持されていた?
刑部:「東京ブギウギ」が作られて、戦後復興ということで復興の博覧会みたいなイベントが行われたりしまして。そうしたときに昔であれば音頭とか、なになに行進曲とかというようなものが作られたんですけど、やっぱりブギだろうということで。それで頼んでくるという流れも当時あったみたいですね。
田家:昔は音頭だったものがブギになって、みんな音楽で楽しく過ごそうよというふうになっていった。ブギウギは戦後復興の庶民の音楽だったということですね。
刑部:そうですね。やっぱり新しい終戦直後、戦後復興のテーマソングと言っても過言ではないかなと思いますよね。
田家:そういうブギウギをシングルマザーが歌っていた。このへんもいろいろなストーリーがありそうですね。6曲目。昭和23年1948年4月に発売になった「ヘイヘイブギー」。
田家:作詞が藤浦洸さんで作曲が服部良一さん。藤浦洸さんは子どもの頃、テレビの『私の秘密』とかで顔を見せたことがありましたけども。この方もいろいろな詞を書かれていますよね。
刑部:そうですね。服部良一とは名コンビという感じですね。
田家:淡谷のり子さんの「別れのブルース」とかもひばりさんも書いてるんでしょう。「悲しき口笛」とか「東京キッド」とか。
刑部:服部さんの曲ではないですけどね。
田家:ないですけどね、ええ。藤浦洸さんは昭和歌謡史の中ではかなり重要な作詞家?
刑部:藤浦さんは他の作詞家と違って、楽譜が読めるんですよね。だからそこが服部さんにとってはよかったんだと思うんですよね。リズムのあるところに乗せられるような。この曲の中の1つのポイントがラッキーカムカムっていうフレーズが出てきますけど、そういった隠語というリズムに乗せる言葉というのを服部さんと藤浦さんは模索して考えていたと言いますよね。その1つがラッキーカムカムという言葉だったみたいですよ。
田家:まだそんなに横文字の歌自体がない時代ですもんね。こういうカタカナの歌謡曲ってどのくらいあったんだろうと、今ふと思ったりしましたけども。
刑部:やっぱり戦前は少ないですよね。戦後になってから、特に進駐軍が来てブルース、ブギとか一連の新しいタンゴだとか曲がどんどん来ることによって、日本の歌謡曲にも服部さんを中心として他の作詞作曲家もこういう曲を生み出していく形になっていきますよね。
田家:昭和20年代って陽気な歌が多かったですもんね。
刑部:それだけ暮らしがまだ配給制度が続いているし、おいしいものを食べたいとか、そういう欲求を満たしてくれるのが歌だったような気もしますよね。
田家:「東京ブギウギ」の作詞家は鈴木勝さん。この方もかなりいろいろな背景がある方なんでしょう?
刑部:そうですね。この人はお父さんが大変有名なんですよね。仏教哲学者で鈴木大拙という。養子で実の子どもではないんですけども、上海の報道部なんかでもともと記者の活動をしていたのでそこで服部さんと知り合うという形で。
田家:2人とも中国での体験があって、服部さんの『ぼくの音楽人生』という本の中に、新しいリズムには新しい作詞家がいいということで鈴木さんを器用したとありましたね。
刑部:やっぱり服部さんからすると、当時の流行歌の売れっ子と言うと、西條八十を中心にした四行詩、五行詩、七五調というものが定石だった時代なんですけど。やっぱりブギを作る場合にはそういう人たちの詞に曲をつけることも難しいし、逆に自分が作った曲先の場合にそういう先生にお願いするのはなかなか難しい。そこで服部良一、自分が作詞したり、そうじゃない場合は藤浦洸さんと鈴木勝さんみたいな今まで作詞をあまりしてなかった人にも声をかけて作ってもらうという形をしていたみたいですね。
田家:今日の7曲目です。この曲に詞をつけられるそれまでの作詞家の方はいらっしゃらなかったでしょうね。「ジャングル・ブギー」。
田家:いやーすごい歌ですね。昭和23年11月発売。これは作詞のクレジットの名前を拝見してびっくりしたのですが黒澤明さん。なんですかっていう感じです(笑)。
刑部:これは映画の『醉いどれ天使』の中でも笠置さんが歌っていますけど、どうも黒澤明は笠置さんの歌唱力、パフォーマンスを非常に魅力に感じていたみたいで。やっぱりさすが黒澤明ですね。他の作詞家に託さない。自分で作詞しちゃうんですね。
田家:映画の中に使う曲としてこれが作られたんですかね。
刑部:ええ、そうですね。
田家:『醉いどれ天使』ってこういう映画だったんでしたっけ。
刑部:キャバレーみたいなシーンがあって、バンドの前で歌っているシーンが出てきます。
田家:キャバレーでこういう曲をやっていたんだ。でもこの曲も服部良一さんはどんなイメージで作られたんだろうと思いましたね。
刑部:いやー、やっぱりねこれ名曲だと思うんですけど、詞を見ても四行詩、五行詩の七五調じゃなくて、上手く作るなって思いますよ。
田家:わーおわーおですもんね(笑)。これが歌謡曲にあったということがいかに画期的、革命的だったかという1曲ですね。
刑部:そうですね、本当に。
田家:映画という音楽ということでも、この時代はかなり近しいものがあった?
刑部:戦前からそうやって挿入歌みたいな形で歌う部分があったんですけど、戦後になってくると外国のミュージカルみたいな感じのものが結構多く出てくると思うんです。日本的に作るというような形が出てくると思うんですけど、笠置さんはそういうの多いですよね。映画に自分が出て歌っているシーンが。
田家:それが音楽を辞めた後、俳優さんになっていくわけですもんね。
刑部:普通のレコードを吹き込んでいる歌手と違って、舞台から出てきている。パフォーマンスをして歌っていたというところが大きいと思うんですよね。それがやっぱり映画の演劇の舞台になっても、笠置さんがそういう部分で活躍するところに繋がっているんだと思うんですよね。
田家:こういうブギウギ時代のピークはどのへんになるんですかね。
刑部:やっぱり昭和24〜25年。特に「買い物ブギー」あたりがピークじゃないかなという感じがします。
田家:その曲をお聴きいただきます。8曲目「買い物ブギー」。
田家:1950年に発売。こんなに自由で破天荒で明るくて楽しくて庶民的な歌っていうのは飛び抜けていますね。
刑部:これはやっぱり服部さんが作詞しているんですけど、遊び心満載って感じですよね。
田家:歌える人もいないでしょうからね、この歌は。
刑部:いやー、笠置さんじゃないと難しいんじゃないですかね。
田家:服部さんはブギというタイトルの曲を約30曲ぐらいと、『ぼくの音楽人生』の中にお書きになっていましたけど、それぐらいなんですかね。
刑部:そうですね。実際にレコードとして発売されなかったような曲もありますけどもね。
田家:笠置さんと服部さんを結びつけていたものはやっぱりブギ?
刑部:そう言っても過言ではないかもしれませんよね。
田家:やり尽くしたという感じはあったんでしょうかね。
刑部:この後やっぱり急速に音楽というものは流行が変わってきますからね。ブギが続いていくと、やっぱりまた新しいメロディというか、音楽が出てきたことによって大衆もそれがずっと続くと飽きてしまうというか。熱しやすく冷めやすいというのが日本人特有なのか、服部さんの作る曲もブギから違ったものへと変わっていくんですよね。
田家:その話は来週笠置さんの曲でいろいろお訊きしていこうと思うのですが、NHKの『ブギウギ』のスタッフがなんで今このドラマをやるんだという話をされたりしましたか?
刑部:あまりそういう話は私自身は聞いてないんですけどもね。
田家:今なんでこのドラマがこんなに受けるんだろう、この音楽がこんなにみんなにヒットしているんだろうというのは1つのテーマになりますね。
刑部:そうですね。これは推測でしかないんですけど、古い流行歌の中でも服部さん、笠置さんのものはJ-POPに繋がる要素があって。そこが若い人の間でもうけるし、今の若い人たちなんかただ歌うだけじゃなくて踊ったりする。それがセットになっている部分でも受け入れられやすいというのが1つあるんじゃないかなという感じがしますけどもね。
田家:来週も笠置さんの話をいろいろ教えてください。ありがとうございました。
刑部:ありがとうございました。
静かな伝説 / 竹内まりや
今流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。
この番組で笠置シヅ子さんの特集を組めるのは、感慨深いものがありますね。J-POPの原点に笠置シヅ子さんがいるというのは、自分の体験としても覚えてはいるんですけども、なかなか特集しにくい。冒頭でも申し上げましたけども、あまりに古いのでどなたに話を訊けばいいだろうとか、その頃の音源を流して他の番組と比べて違和感を持たれないだろうかと考えたりしていたんです。でもこれは朝ドラ、NHKのおかげですね(笑)。僕はNHKとはほとんど縁がないですし、朝ドラもほとんど観たことないんです。『あまちゃん』をちょっと観たぐらいで、そういう人間が今度のドラマは録画しながら観ていますからね。やっぱりテレビの力はすごいなと思いながら、こういうあまりみんなが振り向かないようなこと、それから忘れてきたようなこと、日の当たらないところに置かれていること、人たちを取り上げてくれるとテレビに対して感謝する気持ちが生まれてきます。
しかも、今月の解説者は1977年生まれですよ。77年当時の音楽シーンだったらいくらでも語れるんですけども、そのとき生まれた方が僕が生まれる前の話をされる。自分が生まれた頃の話を息子から訊いているという不思議な感覚もありながら、おもしろいなと思いつつ収録しました。ドラマの方はこれから戦時中に入っていくんですね。収録はちょっと前なので、まだ戦争そのものではないですけども、弟さんが戦争に行ったところ、お母様が亡くなったところで終わっておりますが、戦後焼け跡で打ちひしがれていた人たちに響いたのがブギウギであります。今はそういう意味では焼け跡みたいな時代なのかもしれないなと思ったりしながら、このドラマを観ています。ドラマが古く思えないのはなんなんでしょうね。来週はブギウギにとらわれない笠置シヅ子さんの歌をお聴きいただきます。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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