被災地の便乗ごみや避難ごみ、清掃職員のリアル
仮置場での災害ごみ受け入れの様子(写真:金沢市従業員労働組合提供)
能登半島地震から2カ月が過ぎた。被災地の復興には、災害廃棄物(災害ごみ)の迅速な撤去が求められるが、前回の記事で述べたように石川県下でごみ収集の清掃職員を擁する自治体は金沢市のみ。
しかも昨今の行政改革による人員削減で清掃職員の数は約60人となり、人員が潤沢に存在するわけではない。平均年齢も高く、50歳を上回っている。
そのような状況の中で地震発生初期、彼らがどのような取り組みを行っていたのかが気になった。
そこで、筆者が構築している清掃職員の方々とのネットワークを活用し、金沢市の清掃職員の方と連絡を取ることができた。
本稿では、初期の被災地支援活動の実態に現場目線で迫るとともに、そこから浮かび上がる問題点や今後の行政サービスの提供について述べてみたい。
被災時に設置、災害廃棄物の「仮置場」
災害時に発生する廃棄物には、破損した家財・家具類や家屋解体ごみ、自動車、土砂・堆積物といった「災害廃棄物」に加え、「生活ごみ」「避難ごみ」「し尿」も含まれる。
とりわけ排出された災害廃棄物が緊急車両や災害支援車両の通行の妨げにならぬよう、また、災害廃棄物の各発生場所から清掃工場に直接運ぶのは非効率であるため、災害廃棄物を一時的に置く場所として「仮置場」が設置される。
この仮置場は基本的には市町村が設置、管理・運営、閉鎖し、その運営には清掃職員等の自治体関係者があたる。それが難しい場合は被災地支援で応援に入ってきた者が割り当てられる。
仮置場に災害廃棄物が無秩序に持ち込まれると、その搬出の際に選別が必要となり膨大な手間がかかる。よって、通常は品目ごとに場所を分け、荷下ろしする形がとられる。
被災時には「仮置場を迅速に設置し、そこに分別して搬入する管理体制をいかに早く整えられるか」が復興のスピードを左右する。
そのため、いつどこで災害が発生するかわからないわが国においては、すべての自治体は通常時から被災時にどこに仮置場を設置し、誰がどのように管理にあたるかを想定しておくことが求められる。
能登半島地震で、震源域から離れた金沢市内でも局所的に災害廃棄物が発生する地域が出た。そのため金沢市は被災直後の対応として、1月5日から14日まで市内の戸室新保最終処分場に仮置場を設置し、災害廃棄物を受け入れた。
金沢市は担当業務のやりくりで人員をひねりだし、その管理・運営にあてた。
当然のことながら、仮置場は災害廃棄物を持ち込む場所なのだが、ほとんどの災害廃棄物を無料で引き取っていたため、「いつか使うかもしれない」と物置等にしまい込んでいた退蔵品を、ここぞとばかりに搬入する「便乗ごみ」問題が生じた。
災害とは関係のない「便乗ごみ」も
このような「便乗ごみ」が搬入されるのもわからなくはない。
金沢市では、家具・寝具類、趣味・スポーツ・レジャー用品等は「有料粗大ごみ」に該当する。これらを排出するには、電話またはLINEで事前に申し込みを行い、指定された金額の処理券をコンビニエンスストア等で購入。予約内容通りに処理券を貼って排出しなければならず、手間がかかる。
そのため仮置場が設置されると「退蔵品」排出の格好の機会となってしまうのだ。
また、仮置場には、事業者責任で処理すべき産業廃棄物も持ち込まれることがある。自らで処理すると費用がかかるため、災害廃棄物だと偽って仮置場に持ち込むのである。
今回の仮置場では陶器、ガラス、石、瓦、コンクリート製品、木製品(タンス、椅子、生木)、金属・小型家電類、家電4品目(テレビ・洗濯機・エアコン・冷蔵庫)を中心に受け入れたが、筆者が話を聞いた清掃職員の方によると、ほとんどが災害とは関係のない「便乗ごみ」だったという。
初期の主な排出者は事業者で、石材屋が灯籠等をトラックいっぱいに積んで持ってきたり、電器屋が蛍光灯の束を持ち込んで置いて帰ったりした。
この蛍光灯は割れていなかったため災害廃棄物なのか疑わしい。蛍光灯は資源としてリサイクルルートに乗せる必要があるため、清掃職員らは仮置場での引き取りに難色を示した。
しかし電器屋は「電話した際には何でも持ってきてよいと言われた」の一点張りで、仮置場に置いていってしまった。結果、後日、清掃職員がその蛍光灯をリサイクル業者に持っていく手間が生じてしまった。
一方、倒れた食器棚を搬入したのを契機に「何でも受け入れてもらえる」と勘違いし、これまでしまい込んできた多くの退蔵品を繰り返し持ち込む者もいた。
「被災した」と主張する住民が布団、毛布、タンスなどを、ここぞとばかりに排出したり、スノーボードやスキー板まで搬入したりする者もいた。
清掃職員は被災したことをおもんぱかり、可能な限り被災者に寄り添う対応をしようと心掛けている。それなのに一部の住民の中には、その気持ちにかこつけて、エゴを通そうとする者もいる。
非常時の振る舞いは、人間のきたなさ、いやらしさ、みにくさを浮かび上がらせる。
「避難所」のごみ収集は…?
一方、地震発生後、初期の奥能登地域の被災地支援として、金沢市は輪島市の避難所のごみ収集に清掃車2台(清掃職員4人)と、穴水町の仮置場の運営に4人を派遣した。
ほかの自治体に収集を依頼するにあたっては、収集箇所を示した地図の提供が必要不可欠だが、金沢市の環境局へは避難所一覧の情報が提供されたのみだった。
そのため、支援に赴く清掃職員が現地の地理に不慣れながらも通行可能な道路を調査し、2日がかりで地図の作成と収集ルートを考案し輪島市へと向かった。
手書きで作成した避難所の地図(写真:金沢市従業員労働組合提供)
被災地に存在する物資を支援者が使わないように、金沢市内でガソリンを満タンにしていくなど、収集に関わる物資はすべて調達してから現地へ。
ほとんどは簡易トイレの「汚物」
金沢市を朝5時に出発し、震災の爪痕が残る道を通りながらスマートフォンのナビを利用して約3時間かけて輪島市に到着した。
朝焼けの中、被災地に向かう(写真:金沢市従業員労働組合提供)
亀裂の入った道(写真:金沢市従業員労働組合提供)
清掃車から見える被災の爪痕(写真:金沢市従業員労働組合提供)
到着後は市内の避難所を回り、「避難ごみ」を収集していく。
清掃車のタンクがいっぱいになると付近の清掃工場に積み下ろし、再度避難所に向かいたいところだが、被災した清掃工場は稼働していない。そのため収集したごみは持ち帰り、金沢市内の清掃工場に搬入せざるを得なかった。
移動に多くの時間が取られるため現地作業が1時間半程度に限られるうえ、1日に清掃車のタンク1杯分しか収集できない状態だったのだ。
一度に少しでも多くのごみを収集するために、当初は輪島市へは6㎥の清掃車(最大積載量2.4t)と4㎥の清掃車(最大積載量2t)で向かった。しかし、6㎥車では入れない幅の道や4輪駆動でなければ通行できない道があって通行できず、持ち込んだ清掃車を稼働させられなかった。
翌日からは4㎥車2台体制に切り替えて収集作業を行った。これにより1日あたの収集量はいっそう減少し、収集に向かう避難所の数も限定的となった。
収集した避難ごみを清掃車に積んだ状態。適当なところで投入を止めないと汚物が飛び散る(写真:金沢市従業員労働組合提供)
さらに、避難所から排出される「避難ごみ」のほとんどは、避難所で暮らす方々の簡易トイレ後の汚物(し尿)だった。
凝固剤のためか臭いはそれほどしなかったが、汚物を清掃車に入れて積み込んでタンクが詰まってくると、プレスした際に跳ね返りが飛び散る。
そのため適当なところで積み込みを止めなければ、清掃職員が汚物をかぶってしまう。この制約からも1台あたりのごみの収集量はさらに限定的となった。
ちなみに、話を聞いた清掃職員とともに作業した人は、汚物が飛び散って作業着についてしまった。その場で作業着を処分したそうだが、水が出ない状況で万が一顔面などに付着していたらと思うと、ぞっとする。
受援に欠かせない「正確な」現場情報
被災時に支援を受けるには、「何が不足しているか」の情報のみならず、支援を受ける現場の状況について情報提供しなければ、支援側のオペレーションを無駄にしかねない。
そのためには、提供しているサービスの実態を普段から十分に把握しておくことが前提となる。
ごみ収集業務で言えば、行政改革による公務員減らしで収集業務を民間会社への委託に切り替えた自治体は業務を「丸投げ」しているところが多く、現場の実態の把握が十分にできない状況に陥っている。
そのような中で支援をお願いするとなると、どのような情報を伝えれば支援側が現場でスムーズに支援活動を展開できるかのイメージがつかない。よって、実際に支援する自治体関係者が現場で実態を把握したときに、「それを先に言っとけよ……」という言葉が漏れる事態が起こる。
このことはすなわち、必要な支援が迅速になされないことを意味し、その損失は被災者にふりかかる。
これまでの公務員減らしの行政改革は、提供する公共サービスの実態や、その提供現場の状況をしっかりと把握しておくことに目を背けてきたと言える。
今回の能登半島地震を他山の石として、自らの自治体の公共サービスの実態を現場レベルから把握しておく体制を構築していくことが、今後の行政改革の論点になると思われる。
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(藤井 誠一郎 : 立教大学コミュニティ福祉学部准教授)