エルコンドルパサー(写真は98年のNZT4歳S優勝時、撮影:下野雄規)

写真拡大

 グレード制導入以降、共同通信杯は一度だけダートで行われたことがある。それは98年のことで、勝ち馬はのちに世界へと羽ばたくエルコンドルパサー。新馬、500万下とダートで圧勝してきた同馬が、芝で“お披露目”されるはずだった。しかし、夜半から降った雪によりダートへ変更。ターフを駆ける姿は、春に持ち越しとなった。

 エルコンドルパサーは父Kingmambo、母サドラーズギャル、母の父Sadler's Wellsの米国産馬。当時は外国産馬に出走制限が課せられており、クラシックへの出走は叶わなかったが、3歳時(旧4歳)にNHKマイルCとジャパンCを制した。99年にはフランスへ長期遠征。サンクルー大賞を制し、凱旋門賞でも2着となり、獲得したレーティング134は、イクイノックスに更新されるまで長らく首位を守った。

 衝撃はデビュー戦からだった。97年11月、東京ダ1600mでの初陣はスタートで立ち遅れ、道中も最後方からの追走。しかし直線だけで全馬をごぼう抜きし、2着とは7馬身差の快勝だった。上がり3Fは断トツの37秒2を記録。次位が39秒5で、そのほかの馬は40秒以上を要していたから、一頭を除いて止まって見えたのも無理はない。続く中山ダ1800m戦も9馬身差を付ける大楽勝で、ダートとはいえ、モノの違いを印象付けた。

 さぁ芝でどこまでやれるのか――。

 共同通信杯4歳Sでひとつの答えが出るはずだった。ところが、当日の府中は強い雪。近年は行われていないが、当時は降雪などの際、芝競走をダートへ振り替えることも珍しくなかった。例に漏れず、98年の同レースもダートへと変更し、距離も1800mから1600mに短縮。GIII格付けは取り消され、単なる「重賞」として行われた。

 当日のダートのコンディションは当然のごとく「不良」。レースにはのちに南関東へ転じて川崎記念などを制すインテリパワー、無傷2連勝中のハイパーナカヤマなどが出走していたが、いずれもエルコンドルパサーの相手ではなかった。五分のスタートから好位に付けると、直線では田んぼのようにぬかるんだ馬場を外から快足を飛ばしていく。終わってみれば、上がり最速となる35秒6でまとめて2馬身差V。単勝1.2倍の圧倒的な支持にも応え、重賞初制覇をダートで飾った。

 芝適性の判断は次走に持ち越しとなったが、初タイトルを獲得したエルコンドルパサーは、ますます勢いに乗る。ニュージーランドT4歳S、NHKマイルCと連勝。秋にはジャパンCを制して、翌年のフランス遠征へとつなげていった。

 出世レースとして名高い共同通信杯の中でも、特に大きく飛躍した一頭として人々の記憶に残り続ける。