アントニオ猪木の苦境にタイガーマスク時代の佐山聡が抱いた思いと貫いた「ストロングスタイル」
アントニオ猪木 一周忌
佐山聡が語る"燃える闘魂"(5)
(連載4:佐山聡が反則連発の「実験」 キックボクシングの試合で敗戦も猪木は「よくやった」と褒めたたえた>>)
10月1日で一周忌を迎えた、"燃える闘魂"アントニオ猪木さん(本名・猪木寛至/享年79歳)。その愛弟子で、初代タイガーマスクの佐山聡が、猪木さんを回想する短期連載5回目は、空前の人気を獲得したタイガーマスク時代の猪木さんとの関係を明かした。
ダイナマイト・キッド(右)にサマーソルトキックを見舞うタイガーマスク
1981年4月23日、「タイガーマスク」となって帰国した佐山は、蔵前国技館でダイナマイト・キッドとの"デビュー戦"に臨んだ。虎の覆面をかぶった正体不明のマスクマンは、ローリングソバットなどの蹴り技、鮮やかな空中殺法、そしてフィニッシュで決めた大きな弧を描くジャーマンスープレックスと、他のレスラーとは一線を画す動きを披露してファンの心をわしづかみにした。
その人気は、プロレス界の枠を超えて広く世間を巻き込み、日本全国に空前のタイガーマスクブームを起こす。佐山の類まれなる才能ゆえの人気だったが、格闘技をやりたくてプロレスラーになり、デビュー2年目で猪木さんからの「お前を(新日本プロレスの)格闘技部門の第一号にする」という言葉を信じていた佐山にとって、プロレスで成功したことは複雑な心境だったという。
「僕はずっと格闘技をやりたかった。だけど、メキシコに行かされて、タイガーマスクになってしまった。タイガーマスクになってからも『いつかは格闘技ができる』と思っていましたけど、あまりにも人気が出てしまったので、1年くらい経った頃には『格闘技の話はもうないんだな』と気づきました」
佐山は猪木さんから告げられた約束について、猪木さん本人に問うことはなかったという。
「僕から『格闘技の話は、どうなったんですか?』と聞くのは、あまりにも猪木さんに対して失礼ですし聞けませんでした。そもそも、格闘技をやるにしても対戦相手がいなければできません。僕ひとりがやろうとしても、どうすることもできない現実がありました」
【猪木さんから消えかかっていた格闘技への情熱】さらに、佐山はタイガーマスクとして帰国した際、猪木さんの変化に気づいた。1970年代後半に「プロレスこそ最強」を証明すべく、モハメド・アリなど異種格闘技戦に挑んだ格闘技への情熱が、猪木さんから消えかかっているのを感じたという。
「(帰国前に)メキシコ、イギリスにいた時は、今のようにインターネットで情報が得られる時代ではないので、日本の情報はほとんど入ってきませんでした。なので、猪木さんが(1980年2月27日の)極真空手のウィリー・ウイリアムスとの試合を最後に、異種格闘技戦を終えたことを僕は知らなかった。
僕がタイガーマスクになって帰国した時には、新日本に異種格闘技戦という思想はなくなっていたんです。レスラーが"飽和状態"になっていて、そんな中で現れたのがタイガーマスクだった。団体の利益なども考えないといけないし、猪木さんの『格闘技はできないんだな』という気持ちもわかりましたね。とにかく混沌としていた時代でした」
ウィリー戦を行なった当時、猪木さんは38歳。40歳を前に、体力的にも「異種格闘技戦」に挑むことは過酷だったのかもしれない。さらに佐山は、こう指摘する。
「異種格闘技戦は、ルールに関して相手陣営と揉めに揉めますから、猪木さんの中で『これ以上、続けられない』と思ったのかもしれません。
あとは、『ハイセル』の問題がありましたし、病気も抱えていらっしゃった。リング内外で心身ともに厳しい状況で、格闘技だけでなく、プロレスへの情熱を保つのもつらかったんじゃないかと思います」
佐山が明かした「ハイセル」とは、猪木さんがブラジルで興したリサイクル事業「アントン・ハイセル」。サトウキビの搾りかすを牛の飼料として活用することで、食糧不足、環境問題を解決する目的で設立した会社だった。しかし、それが原因で多額の負債を抱え新日本の経営を圧迫していた。
さらに「病気」とは、後年に猪木さん自身もインタビューや著書で明かしているが、重度の「糖尿病」を抱えていた。現役を続けるどころか、一時は命の危機にさえ追い込まれるほどの最悪の体調だった。こうしたリング内外の困難から、佐山が「タイガーマスク」に変身した当時、猪木さんはリングに集中できる状況ではなかったのだ。
「繰り返しになりますが、僕は格闘技をやりたくてプロレスラーになったんです。だけどタイガーマスクになって、格闘技はできなくなった。正直、当時の猪木さんに対して、不信感はありませんけど、失望感はありました。ただ、猪木さんを尊敬する思いは崩れませんでしたし、『ハイセルが苦しいから仕方ない』と思っていました。
猪木さんは、体調が厳しくて休んだ時もありましたが、ほとんど欠場しませんでした。新日本の社長ですから、会社のことが一番大切だという思いがあった。レスラー、社員、その家族......みんなの生活を支えないといけない責任感だけで闘っていたと思います。だから僕も、格闘技をやりたい気持ちを我慢してタイガーマスクをやっていました」
【猪木が掲げた「ストロングスタイル」の真意】自らの理想が消えたタイガーマスク時代。それでも佐山の猪木さんへの敬意は不変だったという。そんな2人をつないでいたのは「練習」だった。
「猪木さんは、体調的に厳しくても試合前にはきちんと練習をやられていました。そこで僕は、若手時代と同じように毎日、猪木さんとスパーリングをやりました。格闘技の話もプロレスの話もせず、仕事以外の話をよくしましたね。当時の僕は、猪木さんにとって弟子というよりも、『いい話し相手』だったような気がします」
試合でも、常に「アントニオ猪木」を意識していた。
「タイガーマスクは、たくさんの声援と拍手をいただいたんですが、そんなファンのみなさんには申し訳ないんですけど、僕が意識していたのは『アントニオ猪木』でした。『今、僕は猪木さんの美意識に合うプロレスをやれているのか』『こんなことをやって、猪木さんは怒ってないだろうか』と、猪木さんの視線を意識して試合をしていました」
そうして師匠を意識し続けた佐山は、猪木さんが貫いた「ストロングスタイル」についてこう説く。
「猪木さんのストロングスタイルは、『相手の技を受けてはいけない』んです。もっと言えば、お客さんが『これは受けている』とわかるものはダメということ。だから、すべての動きがナチュラルなんですよ。それは、格闘技の基盤がないとできません。その基盤があるかないかは、構えですぐにわかります。猪木さんが貫いたプロレスの大切な部分は、『表現』が1、2割で、あとは『ガチンコ』。それがストロングスタイルです」
佐山は、猪木さんが掲げる「ストロングスタイル」を理解していたからこそ、タイガーマスクがその看板に恥じない闘いをやれているかどうか、を常に考えていたという。
「タイガーマスクはアクロバットな動きを求められていたので、試合でやるのは仕方ありません。ただ、そんな動きの中でも、猪木さんが掲げるストロングスタイルに相応しくない動きはやりませんでした。
やろうと思えば、メキシコのレスラーがやるような華やかさに特化した動きをやることはできましたよ。だけど『アントニオ猪木』の美意識に反する"あり得ない動き"をすることはできませんでした。あくまで格闘技的なアクロバットな動き、理にかなった技ならいいんですが、そうじゃない技はやっちゃいけないと思っていました。それをやる対戦相手も許せなかったですね。
そんな中でも、ダイナマイト・キッド、ブラック・タイガー、ブレッド・ハート、小林邦昭さんなどとはストロングスタイルができたので、みなさんから評価されましたし、自分でも納得のプロレスができました」
猪木さんの美意識に相応しい闘いを披露し、爆発的な人気を獲得したタイガーマスクだったが、その歴史はわずか2年4カ月で幕を閉じる。1983年8月4日、蔵前国技館での寺西勇戦を最後に電撃引退したのだ。
(連載5:タイガーマスクを辞めた真相「猪木イズム」を原点に突き進んだ格闘技の道>>)
【プロフィール】
佐山聡(さやま・さとる)
1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。