アントニオ猪木 一周忌

佐山聡が語る"燃える闘魂"(3)

(連載2:猪木が「町でケンカしてこい!」 佐山聡がある弟子への叫びに見た「猪木イズム」の原点>>)

 10月1日で一周忌を迎えた、"燃える闘魂"アントニオ猪木さん(本名・猪木寛至/享年79歳)。その愛弟子で、初代タイガーマスクの佐山聡が、猪木さんを回想する短期連載3回目は、猪木さんの背中を見て追及した格闘技、その中で開発した用具、デビュー2年目で猪木さんから告げられた忘れられない言葉を明かした。


新日本の道場でキック対策の練習をするアントニオ猪木(左)と佐山聡

【アリ戦後の控室で目にした猪木さんの涙】

 佐山はアントニオ猪木の強さに憧れ、格闘家を志して新日本プロレスの門を叩いた。しかし入門すると、競技としての「格闘技」と「プロレス」の違いに気づく。

 それでも佐山は入門前の初心を忘れなかった。その理由は「猪木さんがいたから」だった。

「猪木さんは道場で"ガチンコ"のスパーリングしかやらなかった。徹底して強さを追求していました。そして一番強かったんです。そんな師匠の背中を見ていたので、格闘家としてのプライドを持つことができました。

 若手時代は、自分のことをプロレスラーではなく格闘家だと思っていました。他の格闘技の選手と闘ったら絶対に負けない、という気持ちは、あの頃の新日本にいた選手たちはみんな持っていたと思います。スパーリングも真剣勝負ですから、私生活では仲がいいんですけど、練習になると『負けてたまるか』と敵対していました」

 徹底して「プロレスこそ最強」を追求した、猪木さんが率いた新日本プロレス。佐山に「もし猪木さんがその理想を追求していなかったら、どうなっていましたか?」と問うと、「僕はすぐにプロレスを辞めていました」と即答した。そして「あの練習が"猪木イズム"ですね。その感覚は、1970年代に新日本を通ったレスラーじゃないとわからないと思います」と続けた。

 1976年6月26日、猪木さんは「プロレスこそ最強」を証明すべく、日本武道館でボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリと闘った。アリ陣営が要求した、上半身への打撃や投げ技といったプロレス技が封じられるルールを受け入れ、結果は15ラウンド引き分けだった。

 そのアリ戦の時、佐山はデビューから1カ月を経たばかりだった。

「アリ戦の時、僕は新日本に入ったばかりだったんですが、『絶対に猪木さんが勝つ』と信じていました。でも、試合が近づくにつれてルールが厳しいことがわかって、次第に『あのルールでは難しい』と思うようになりましたね。ただ、猪木さんは縛られたルールの中でも、道場で相手の足を蹴って潰すことをずっと練習していました」

 思い出すのは試合後の控室での光景だ。

「あのルールでアリと闘ったことがすごいですし、僕にとっては世で言われていたような『世紀の凡戦』ではないんです。だけど、控室で猪木さんが泣いていて、涙をぬぐっていたので悲しかったですね。それだけ(引き分けに終わった)ショックが大きいんだなと思いました」

【総合格闘技をイメージして開発した用具】

 新日本、そして猪木さんはアリ戦を行なった結果、莫大な借金を抱えた。若手レスラーの佐山は、そんな会社の事情を知る由もなく、ひたすら道場でスパーリングを重ねる日々。その中で、佐山に「他の格闘技の選手と闘ったら俺は勝てるのか?」という衝動が生まれる。そして、キックボクシングの「目白ジム」に通うことを決意した。

「若手時代、合宿所の自分の部屋に『真の格闘技とは打撃に始まり、組み、投げ、最後に極めで終わる』と色紙に書いて壁に貼っていたんです。その理想を追求するために目白ジムに通いました。ただ、目的はキックを学ぶことではありません。『どうやって打撃をかいくぐってタックルができるか』『組み手もある打撃とはどういうものか』を追求することでした。

 例えばパンチで言うと、ボクシングのパンチは内股でステップして踏み込んで腰で打つんですけど、ルールがタックルありの時にはどういう打ち方になるか、ということを研究していました」

 打撃や組技などで構成された「総合格闘技」は今ではメジャーになったが、佐山が新日本へ入門した1970年代中盤の頃は、キック、ボクシング、レスリングなどがミックスした形での「競技」は創造されていない。しかし、「タックルがあると打撃はどうなるのか」と考えていた18歳の佐山には、すでに現在の「総合格闘技」につながる構図が見えていた。

「見えてはいましたが、考えていたのは僕ひとりだけですから、練習の相手がいません。目白ジムでキックの練習をしながら『タックルは通用するのか』と考えるだけです。目白ジムではタックルをすると怒られるので、新日本の道場でひとり、自分のイメージを実践していました」

 佐山は「総合格闘技」をイメージしながら、新日本の道場と目白ジムで毎日、ひとりで練習を続けた。

 そのうちに、打撃と組技の両方に適した用具の開発を思いつく。「オープンフィンガーグローブ」だ。

 ヒントになったのは、1973年に公開されたブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』。この作品でブルース・リーが着用した、指を動かすことができるグローブを見て「オープンフィンガーグローブ」を考案。その新しいグローブを試合で使うことを、猪木さんに提案した。

 すると猪木さんは、1977年10月25日に日本武道館で行なわれた、米国人ボクサーのチャック・ウェプナーとの「格闘技世界一決定戦」で、佐山が考案した「オープンフィンガーグローブ」を着けた。試合は、6ラウンドに逆エビ固めで猪木さんが勝利した。

【猪木さんからの「一生忘れられない」言葉】

 この試合前、佐山が「一生忘れられません」と明かす、猪木さんからの指令があったという。

「ウェプナー戦の前に、猪木さんのマンションにオープンフィンガーグローブを持っていた時です。僕は猪木さんに『新日本が市民権を得るために、セメントでやる競技を新日本の中に作りましょう』と訴えました。その時、猪木さんは黙って聞いているだけでしたが、何日か後に猪木さんがあるルールブックを持ってきたんです」

 そのルールブックは、米国のキックボクサーであるベニー・ユキーデが作った「マーシャルアーツ」のものだった。猪木さんはそれを佐山に手渡し、こう告げた。

「これから、俺はこういうことをやる。お前を第一号の選手にする」

 猪木さんは新日本の中に「格闘技部門」を作る構想を打ち明け、佐山を最初の選手に指名することを打ち明けたのだ。この話を語る佐山の顔が、にわかに紅潮した。

「猪木さんから『格闘技部門の第一号にする』と言われたのですから、僕は有頂天ですよ。自分の理想が実現するんだ、という喜びと、猪木さんに認められたという思いで、うれしくてたまりませんでした」

 猪木さんの言葉を信じ、佐山はさらに「総合格闘技」の技術を追求し、やがては独自のルールを構想。そして1983年8月に新日本を退団すると、新格闘技「シューティング(後の修斗)」を立ち上げ、現在の総合格闘技の祖になった。

「すべては、あの時の猪木さんの言葉が原点です。猪木さんから言われなければ、この格闘技につながる道はありませんでした」

 1977年、猪木さんからの「言葉」を受け取った佐山は、「格闘家」として闘いを挑むことになる。

(連載4:佐山聡が反則連発の「実験」 キックボクシングの試合で敗戦もアントニオ猪木は「よくやった」と褒めたたえた>>)

【プロフィール】

佐山聡(さやま・さとる)

1957年11月27日、山口県生まれ。1975年に新日本プロレスに入門。海外修行を経て1981年4月に「タイガーマスク」となり一世を風靡。新日本プロレス退社後は、UWFで「ザ・タイガー」、「スーパー・タイガー」として活躍。1985年に近代総合格闘技「シューティング(後の修斗)」を創始。1999年に「市街地型実戦武道・掣圏道」を創始。2004年、掣圏道を「掣圏真陰流」と改名。2005年に初代タイガーマスクとして、アントニオ猪木さんより継承されたストロングスタイル復興を目的にプロレス団体(現ストロングスタイルプロレス)を設立。2023年7月に「神厳流総道」を発表。21世紀の精神武道構築を推進。