正道会館「カラテ・ワールドカップ」に出場するアンディ・フグ(右)。1日で何試合も勝ち抜き優勝を争う過酷なトーナメントだ

写真拡大 (全3枚)


正道会館「カラテ・ワールドカップ」に出場するアンディ・フグ(右)。この大会は1日で何試合も勝ち抜き優勝を争う過酷なトーナメントだ

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第9回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。

【写真】第1回K-1で対戦したアーネスト・ホーストとピーター・アーツ

■ワンデー・トーナメントの歴史

1993年4月30日にK-1が始まったときの衝撃のひとつにワンデー・トーナメントという試合形式があった。一夜のうちに優勝者を決めなければならないので、出場者は何試合も闘わないといけない。

K-1誕生以前、立ち技格闘技にワンデー・トーナメントがなかったわけではない。例えば極真空手はトーナメントが大原則で、世界選手権ともなれば出場選手200名前後の中を勝ち抜かなければいけない。

では、顔面パンチありの競技になるとどうか。少なくとも顔面プロテクターなしの競技に限っていえば、アマチュアでも新空手くらいしか思い浮かばない。そうした中、条件付きで顔面パンチありを導入したフルコンタクト(直接打撃)制の組織もあった。

K-1の母体となった正道会館である。80年代後半から"常勝軍団"と呼ばれるほど他流派の大会に出てもめっぽう強かったこの大阪の空手軍団は、1988年の第7回全日本選手権からロープに囲まれたリングを試合場として使用するようになり、さらに再延長になるとグローブ着用による顔面殴打を認めるというルールを採用した。

筆者は翌89年の第8回大会から現場で取材するようになったが、再延長になったときの場内の興奮といったらなかった。しかもこの大会には当時シュートボクシングで活躍していた平直行が参戦し、3回戦では再延長にもつれ込んだ末、得意の顔面ありのテクニックを活かし勝ち上がっていた。

アマチュアの大会でも、工夫次第でもっと面白くなる。そう思わせるだけの魅力が、この全日本選手権にはあった。当時から正道会館はスペクタクル(鑑賞用)スポーツとしての空手を目指していたような気がしてならない。K-1は全日本選手権の再延長のさらにその先にあったのではないか。

とはいえ、歴史を掘り起こしていくと、全く知らなかった史実に出くわすこともある。今回ワンデー・トーナメントの歴史を調査していると、キックボクシング史家のTakaさんから耳寄りな情報が寄せられた。

1986年8月8日、タイで当時ムエタイのウェルター級戦線でトップを張っていたパーヤップやラクチャートも出場した、4人制のワンデー・トーナメントが行なわれていたというのだ。このふたりのムエタイファイターは日本のリングにも何度も上がっているので、その名を覚えている方もいるだろう。

2004年春、筆者はタイで初めてワンデー・トーナメントを見ているが、それ以前はほとんどやっていないとばかり思っていた。自戒の念を込めていうが、都合のいい思い込みほど怖いものはない。歴史に埋もれているだけで、365日どこかで興行が行なわれているほどムエタイが盛んなタイでは、上記の4人制トーナメント以外にもトーナメントが開催されていた可能性が高い。

とはいっても歴史的な流れを見ると、K-1のトーナメントはムエタイより空手のそれから影響を受けたと考えるのが自然だろう。トーナメントの醍醐味は選手が勝ち上がっていくにつれ、観客や視聴者が思い入れしやすいことに尽きる。

視野をもっと広げると、ワンデー・トーナメントというアイデアのモチーフになったと思われる作品もある。格闘技を題材にしたアクション映画や漫画だ。1975年製作の香港映画『片腕カンフー対空とぶギロチン』(いつ聞いてもタイトルのインパクトが強すぎ!)は、舞台は18世紀清朝の中国ながら、メインストーリーは現地の武術大会にムエタイファイターやモンゴル相撲の力士、日本のサムライらが出場する異種格闘技トーナメントだった。

現実の格闘技界では、ただ実施するプロモーターがいなかっただけで、少なくとも1970年代からワンデー・トーナメントという発想自体はあったといえるのではないか。


第1回K-1の準々決勝で対戦したアーネスト・ホースト(左)とピーター・アーツ

■ワンマッチ全7試合のラインナップ

K-1とて、産みの苦しみがなかったわけではない。前回記事で、第1回K-1中継のプロデューサー兼ディレクターを務めた磯部晃人が、「FIST」という幻の大会名が載った企画書の存在を明かしたが、この企画書にはトーナメントとは別の代替案も記されていた。

そもそも初めてワンデー・トーナメントを開催するとなれば、世界各地のプロモーターや出場全選手の了解をとりつけないといけない。ケガをする可能性を考慮したうえで危険手当を要求する選手が出てきても不思議ではない。ファイトマネーも優勝賞金だけを用意すればいいという話ではなかったはずだ。

出場選手によって条件は違うだろうが、一回勝ったらいくら、KO勝ちだったら+αといった条件でなければ、誰も契約書にサインなどしないだろう。何しろ前例はないのだ。主催者はリスクを回避する方向も考えておかなければいけなかった。

もちろん、正道会館館長の石井和義はあくまでもワンデー・トーナメント形式にこだわっており、最初から「格闘技世界最強トーナメント」というタイトルを謳っていたわけだが、大会のスポンサーを募る協賛セールス企画書には、もしトーナメントが実施できない場合の"保険"をかけておく必要があった。トーナメント案だけを記載した企画書では、実現しなかった場合にトラブルとなる可能性があり、代替案も必要となるのだ。

その代替案とは、通常のワンマッチ式の興行だった。企画書には、以下のようなマッチメーク案(当然、この時点では選手側になんの打診もしていなかっただろうが)が記されていた。

第7試合 佐竹雅昭vsモーリス・スミス
第6試合 内田順久vsアンディ・フグ
第5試合 後川聡之vsピーター・アーツ
第4試合 柳沢聡行vsロブ・カーマン
第3試合 金泰泳vsデル・クック
第2試合 西良典vsジェラルド・ゴルドー
第1試合 平直行vsプロテコンドー選手

メインイベントの佐竹vsモーリスは、1年前に開催された格闘技オリンピックの再戦という伏線があった。続くセミファイナルに名を連ねる内田は、当時"全空連のプリンス"と呼ばれた伝統派空手の大物だったが、全体を通してみれば、第1回格闘技オリンピックの焼き直しの感は否めない。

この企画書を受け取った、前出・磯部晃人の証言。「仮にワンマッチでやったとしても、この通りのマッチメークにはならなかったでしょう。いずれにせよ、日本人選手にとっては厳しいマッチメーク。どう考えても、トーナメントでやって正解だったと思う」

この時点では、石井の耳にブランコ・シカティックやアーネスト・ホーストの存在は入っていなかった。もし第1回K-1が第2案のワンマッチで実施されていたら、その後の方向性はどうなっていたであろうか。トーナメントでの開催を決定させることで、K-1の骨子は固まっていった。【つづく】

●布施鋼治(ふせ・こうじ) 
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など

文/布施鋼治 写真/長尾 迪