「会社が社員の妻に性生活を指導」昭和の大企業で行われた信じられない"妊娠制限"
■岸田政権の政策も「時代の主たる声」にすぎない
国と社会、そして会社が女性に手前勝手な論理を押し付けた様を知るのが本稿の主旨です。その時々の世相により、産め・産むなと両極に触れる政策。決して女性は主語になれず、世間の圧力が横車を押している様が、現代の価値観からすれば良くわかります。同時代を生きた女性たちの心情がしのばれるでしょう。
本稿で訴えているのは、いつの時代でも、女性は、その時代の“主たる声”に弄ばれてきたということ。そして今、岸田政権が執っている異次元少子化対策も、結局は「時代の主たる声」に他ならないのです。
主役が国や社会である限り、女性はもう、素直にその声を聞くことができません。読者の皆さんには、ぜひ、本稿を読みながら、「なんて酷いことを社会は女性に押し付けてきたのか」と大いに嗤(わら)っていただきたいところです。
そしてその嗤いが消え去る前に、ふと、現代の諸議論・諸政策について、思いを巡らし、できれば、背中に冷たいものを感じていただきたいと考えています。
■大正・昭和期の産児調節運動
大正時代中盤の1918(大正7)年に米騒動や打ちこわしが起きました。その背景には、労働者(無産者)の生活難、人口過剰による食糧不足といった社会問題があります。その結果、社会は脱貧困を志向し、欧米の産児調節運動への憧憬(しょうけい)が募り始めました。
その理論的支柱となったのが、アメリカ人のマーガレット・サンガーです。彼女は1922(大正11)年に来日して講演を行います。ただ、その影響力が右に出るか左に出るか計り知れない政府は、彼女の意見を一般大衆には開放せず、医師・薬剤師に対してのみ説法を許可するという条件で、入国を認めました。こうした形で、産児調節運動は小さく始まるのです。
その後、第1次大戦後の不況、関東大震災と社会不和が連なり、脱貧困の志向が強まっていきます。
その流れの中で、1930(昭和5)年から2年余り続いた昭和恐慌下にて、産児制限運動も最盛期を迎えます。多くの関連団体が結成され、各地に産児制限相談所が開設されていきました。
■産児制限の4つの目的
サンガー女史が主導した昭和初期の産児制限は以下の4つの骨子からなります。
第一は、やはり貧困からの救済。貧困なのは養う家族が多いからであり、だとしたら、その数を減らすことで、生活は向上する、という考え方が基本にありました。
2つ目は人口過剰による社会問題の解決。食糧不足が社会を揺さぶり、打開策とされた海外移民もなかなか進展しません。人口増加はそのはけ口を求めて、国を暴発させ戦争を引き起こす危険性もある。国際紛争を防止するには、自国内で国民を扶養できる程度に、人口を制限しなければならない、という政策的観点からの主張です。
続く第三の目的は、母体保護=多産からの女性の解放、および「女性による生殖の自己決定権」の獲得。多産は母体の健康を損ない、しかも、妊娠・育児期間の長期化により、女性から自己修養の時間を奪うという趣旨です。当時、サンガー女史ほどの人でも、女権への配慮は3番目でしかありませんでした。
最後は、人間の質の向上。これは前述の「自己修養の拡充」とは全く別の話です。何と、種の改良に役立つという側面が強調されていました。親が悪疾遺伝子を持つ場合は、断種(不妊手術)が奨励されるという、現在では到底、受け入れられない優生学的主張です。
■サンガー論には女性を主語にした主張があった
このように、当時の産児調節運動は、優生保護、脱人口過剰・食糧不足、脱貧困、国家安全保障(戦争抑止)など政策的側面が強いものでした。ただ、その中でもキラリと光るのが、女性のクオリティー・オブ・ライフに触れている点でしょう。社会のあるべき論から発した「産め」と「産むな」がこの後、昭和後期まで連綿と続けられ、その流れは現代にまで至ります。しょせん女性を道具として見ている点は同じであり、だからこそ女性は、そうした為政者のおためごかしには乗らなかったのでしょう。
対して、戦後、長らくサンガー崇拝が日本の女性に染みついたその理由は、彼女の主張には、「女性を主語にした」一節があり、それが彼女たちの心を揺さぶったからに他なりません。
■つかの間の「産まない自由」
サンガー女史からの薫陶も相まって、1930年代には出生率の低下が始まります。1930年に4.72だった合計特殊出生率が37年には4.37、38年3.82、39年には3.74と急降下を見せていくのです。ところがここで、政治の世界から強烈なカウンターが加えられることになりました。
満州事変から日華事変へと日中戦争が泥沼化する中で、戦争に勝つには多数の兵士が必要となります。そこで、「産めよ殖やせよ国の為」「子宝報国」というスローガンがつくられ、国策が多産奨励色を強めていきました。1941(昭和16)年1月に閣議決定された「人口政策確立要綱」では、当時7200万人だった人口を1960年に1億人にすることを謳っています。そのためには、向こう10年間で平均婚姻年齢を3年早め一夫婦当たりの出生数を平均5人にする、という神をも恐れぬ計画が発表されました。まさに、主語は女性でも男性でもなく、「国」「社会」という灰色の景色です。ただ、皮肉にも日本は戦争に負けますが、戦後復員や経済復興、生活レベルの底上げなどが相まって、計画と大きな齟齬(そご)なく人口増加を果たしていきます。
こうして、一度目の少子化トレンドは完全に潰えたのでした。
■報国活動さえも当時の女性には「家から解放」される自由時間
一方で、戦争は女性に対して思わぬ副産物をもたらします。
それは、“片時の自由と承認”でした。
白の割烹着にたすきがけ、小旗を振りながら出征兵士の見送りをする婦人たち。彼女たちは国防婦人会の面々で、1932(昭和7)年、出征兵士が多かった大阪港の近くで、わずか40人で発足した自主的組織が元になっています。活動内容は兵士の見送りの他、留守家族の支援、傷病兵や遺骨の出迎え、慰問袋の調達と発送、防空演習の主導等々。
この"地方の一任意団体"として生まれた国防婦人会は、居住地や職場方式で急速に会員を増やして全国組織となっていきます。1940(昭和15)年末には会員数が約900万人にまで拡大(後に他の女性団体と統合され、大日本婦人会に改称)。会員数の急速な伸びはもちろん軍部の支援があったこともありますが、それ以上に、同会が女性の社会参加機運を盛り上げたことが大きかったといわれます。
当時は家を守る良妻賢母が女性の理想とされていました。女性は家に従属する嫁であり、家事や育児、舅の世話に追われ、自由な外出もままなりません。
ところが、国防婦人会に入れば「お国のため」という大義名分の下、家から離れ、さまざまな活動に従事できます。活動内容からしても自分が社会の役に立っているという実感を得ることができる。そして、組織の中で役職などもあてがわれ、後輩指導やマネジメントなど、疑似的な社会経験が果たせます。まさに、自由と承認が、彼女らを婦人会へと奔らせたのでしょう。
■労働運動も戦時期に大きく進展
婦人運動家の市川房枝さんは、後に自伝にこう記しているほどです。
「国防婦人会については、いうべきことが多々あるが、かつて自分の時間というものを持ったことのない農村の大衆婦人が、半日家から解放されて講演を聞くことだけでも、これは婦人解放である。時局の勢いで、国防婦人会が村から村へ燎原の火のように拡がって行くのは、その意味でよろこんでよいかもしれないと思った」
たとえば労働運動なども、戦中期に大きく進展するケースが多々ありました。外国との紛争の中で、国内において不和があってはいけないと、政府が労働側に歩み寄ることで、それは起きています。国防婦人会のケースはそれとは少し違うかもしれませんが、やはり戦争の仇花でもあり、何とも皮肉な女性解放が起きたと言えるでしょう。
■戦後は再び少子化推進
1945(昭和20)年、“多子化”政策にもかかわらず、物量で圧倒する米軍に日本は敗れました。日本の再興を恐れたGHQ(連合国軍総司令部)の介入もあって、戦後日本では再び少子化=産児制限運動が息を吹き返します。やはりGHQとて、政策の主語は女性ではありませんでした。
終戦の翌年1946(昭和21)年1月には厚生省が人口問題懇談会を開催し、その継続的審議のために財団法人人口問題研究会内に人口政策委員会を設置。「人口収容力拡大のみによる過剰人口の解決は至難」とし、「出生調節の普及は必然の勢」とする建議を同年11月に提出しています。ここで再びサンガー女史を1954(昭和29)年に招聘(しょうへい)し、今回は、国会にも彼女が呼ばれることになりました。
■人工妊娠中絶が合法化
産児制限を事実上、後押ししたのが、1948(昭和23)年制定の優生保護法です。「優性上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」を目的とし、母体の危険がある場合といった条件付きだったが、人工妊娠中絶が初めて合法化されました。優生思想が色濃く影を落とす政策ではありますが、女性への配慮が明文化された点は、歩幅は小さいながらも前進したと言えるでしょう。
1949(昭和24)年には経済的な理由による中絶も認められ、1952(昭和27)年には医師の認定と配偶者の同意があれば手術が受けられるようになります。このことは、生まれてくる子どもの人権に配慮が不足してはいますが、ともあれ、女性の権利が拡大したのは否めないところでしょう。
その後ほどなく、産児制限は政府によって「家族計画」と呼び替えられるようになります。子どもは自然に授かるものから、計画してつくるものへと変わったということでしょう。
この時代の優生保護法と産児制限から発する少子化の流れには、(GHQによる)日本再興の防止、人口過剰問題など、女性を手段として捉える目的が並んではいます。その中で、望まぬ妊娠の排除、母体の保護という点だけが、わずかに女性への慮りといえるでしょうか。
■保健婦が村で避妊指導
家族計画の話を進めましょう。『昭和33年度版厚生白書』はこう書いています。
「われわれが健康にして文化的な生活を営むためには、自らの手で家族設計すなわち適当な家族構成を考えて行くことが必要となるが、家族計画とは、このような自主的計画的な家族設計のことをいう(中略)それは単に子供の数を減らすということではなく、現在と将来を考え、適当な時期に適当な数の子供を生む自主的な計画をいうのであるが、このような家族計画を実施するための手段が受胎調節なのである」。
つまり、中絶などの荒技が必要となる前に、「望まぬ妊娠」を回避させる受胎調節(避妊)教育が必要ということでしょう。こうした教育は、あるものは政府の手により、あるものは民間の自主的活動として広範に展開されていきます。
1950(昭和25)年に国立公衆衛生院がスタートさせた「計画出産モデル村」事業がその先駆けとなります。子宝思想が色濃い農村部に専門家を派遣し、地元の保健婦と連携し、避妊の指導を行いました。
昭和33年白書には「自主的な計画」といいながら教育を施すという、自家撞着が見て取れるような代物です。こうした練り込みが弱く、短兵急な啓蒙(けいもう)活動は、えてして軽はずみな連鎖を生みがちです。そうして、政府の放った荒矢に、企業経営者まで強く射抜かれてしまうことになりました。
■「セックスの会社管理」で妊娠数は激減
企業側が行ったのは経営効率を上げるための労務主導型産児制限。受胎調節を実施すれば子どもが減り、家族手当や医療費が節約できる。社宅も狭くて済む。また避妊の実行により、夫たる社員は家庭での負担が減り、仕事に専念できる。職場での事故も減り、生産性が向上し、会社の利益も上がる……。まさに主語は「会社」という理屈で、厚生省の人口問題研究会の指導の下、保健婦が指導員として各企業に派遣されていきます。
先陣を切ったのは、日本鋼管川崎製鉄所でした。モデル地区として1122世帯を選び、5世帯1グループとして主婦、つまり社員の妻を組織化し、1953(昭和28)年6月から指導員10名が実地指導に赴きます。指導前と1年後の1954(昭和29)年に行った調査によると、716世帯(妻が49歳未満)において、受胎調節実行者は39.7%から56%に上昇、妊娠数は238から67へ、出産数は154から25へ激減しました。一方、受胎調節に失敗し妊娠してしまうケースは事前調査の20%からほぼ変わりません。中絶数は59から33まで減ったものの、出産数を上回ったままでした。
こうした運動は「新生活運動」と称され、これ以降、1960年代に国鉄、東芝、日本通運、三井鉱山、トヨタ、日産、中部電力などの大企業や官営企業で実施されていきます。ピーク時には55企業・団体124万人が参加したともいわれるほどになりました。これを揶揄し、「セックスは“会社管理”」という見出しを掲げる週刊誌まで現れたほどです。
■社員の妻にアプローチして性生活を会社の管理下に置く
戦後長らく「企業共同体」といわれた所以がよくわかるでしょう。子どもの数まで会社が口をはさみ、何より、従業員の「妻」という社と契約関係にない別人格にアプローチして、その「性生活」まで社の管理下に置く体制……。社員の妻の組織化には、やはり、大日本婦人会と同じく、“片時の自由と承認”という行動原理があったのかもしれません。
主語が国や社会から、会社に置き換わっただけであり、そして、男たちはその主語に対していつの時代も滅私奉公し続け、女たちは好きに操られるという様子が見て取れます。戦後、米国型自由主義にさらされても、生活の本質はあまり変わっておりませんでした。
■ベビーブームは早期に終息
改めて図表1をご覧ください。こうした官民挙げた努力が実って、団塊世代を誕生させた戦後のベビーブームは5年で終わっただけではなく、その後も出生数は減り続けていきます。人工妊娠中絶がたやすくできるようになったことと避妊知識が広まったことの相乗効果といえるでしょう。
その後、1971(昭和46)年から団塊世代の子どもが親になる第2次ベビーブームが起こり、再び人口過剰論が頭をもたげます。
1974(昭和49)年7月、政府が後援し、人口問題研究会、日本家族計画連盟など4団体が共催した「日本人口会議」が東京で開かれました。「子供は2人までという国民的合意を得るよう努力すべき」という大会宣言が採択され、政府に対し、人口庁の設置やピル、避妊リングの公認を要望しています。奇しくもこの年に第2次ベビーブームが終焉(しゅうえん)しました。
日本株式会社として会社人間とその妻を生み出し続ける構造に、少子化というオプションが組み込まれたまま、世は高度成長、安定成長、そしてバブルへと突入していきます。
■「日はまた昇る」幻想が染みついた70年間
大正後期から昭和までの70年間を足早に振り返りましたが、この中に、日本の少子化対策が遅れてしまったその理由が秘められていることに気づいたでしょうか?
たぶん、優れた官僚たちは、歴史からの教訓をよく学んでいたのでしょう。そこから得られる示唆は、「少子化傾向は長く続かず、じき反転する」だったのではないでしょうか。
戦前期の少子化傾向は長く見ても1930〜1940年の10年程度、終戦直後の少子化時期は第1次ベビーブーム世代最終年の1951年から1969年までの18年。いずれもその後、反動で多子化時代に戻っています。このサイクルを考えると、第2次ベビーブーム世代最終年である1974年から19年後、1993年くらいにはまた、多子化に向かうと考える為政者は多かったのではないでしょうか。こんな肌感覚の出目論だけでなく、第2次ベビーブーム世代が親になる2000年頃には多子化は起こる! という感覚が、歴史の教訓として悪戯をしていたのでしょう。
そして、多子化に転換する可能性のある中で、多産奨励をしたら、取り返しのつかない人口爆発が起こるという思いが、少子化対策を遅らせたのではないでしょうか。
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海老原 嗣生(えびはら・つぐお)
雇用ジャーナリスト
1964年生まれ。大手メーカーを経て、リクルート人材センター(現リクルートエージェント)入社。広告制作、新規事業企画、人事制度設計などに携わった後、リクルートワークス研究所へ出向、「Works」編集長に。専門は、人材マネジメント、経営マネジメント論など。2008年に、HRコンサルティング会社、ニッチモを立ち上げ、 代表取締役に就任。リクルートエージェント社フェローとして、同社発行の人事・経営誌「HRmics」の編集長を務める。週刊「モーニング」(講談社)に連載され、ドラマ化もされた(テレビ朝日系)漫画、『エンゼルバンク』の“カリスマ転職代理人、海老沢康生”のモデル。著書に『雇用の常識「本当に見えるウソ」』、『面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと』(ともにプレジデント社)、『学歴の耐えられない軽さ』『課長になったらクビにはならない』(ともに朝日新聞出版)、『「若者はかわいそう」論のウソ』(扶桑社新書)などがある。
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(雇用ジャーナリスト 海老原 嗣生)