銀行は何もないところから無料で作り出した製品(お金)を売って、人々には、その返済のために実質的な価値のあるものを採取・生産することを要求しているとも言えます(写真:bee/PIXTA)

環境破壊、不平等、貧困……今、世界中で多くの人々が、資本主義が抱える問題に気づき始めている。
経済人類学者のジェイソン・ヒッケル氏によれば、資本主義は自然や身体をモノと見なして「外部化」し、搾取することで成立している、「ニーズを満たさないことを目的としたシステム」であるという。
そしてヒッケル氏は、「アニミズム対二元論」というユニークな視点で、資本主義の歴史とそれが内包する問題を白日の下にさらし、今後、私たちが目指すべき「成長に依存しない世界」を提示する。
今回、日本語版が4月に刊行された『資本主義の次に来る世界』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。

銀行の資金はどこから来るのか?

わたしたちの経済が借金だらけになっている主な理由は、経済システム自体が、債務の上に成り立っていることにある。


わたしたちは、銀行でローンを組む時、銀行が貸してくれるお金は、銀行が他の人の預金から集めて、地下金庫かどこかに保管している蓄えだと考えがちだが、そうではない。

銀行が保有すべきとされる蓄えは、貸し出す資金の約10%か、それ以下でしかない。これは「部分準備銀行制度」と呼ばれる制度だ。

つまり、銀行は実際に保有する資金の約10倍の資金を貸し出しているのだ。となると、実際には存在しない、その資金はどこから来るのだろう?
銀行は、借り手の口座に入金する時、そのお金を何もないところから作り出す。文字通り、融資することで作り出すのだ。

現在、市中に出回っている資金の90%以上は、こうやって作られる。言い換えれば、わたしたちの手を渡っていく通貨のほとんどは、誰かの借金なのだ。この借金は、利子をつけて返さなくてはならず、それには、より多くの労働・採取・生産が必要とされる。

そう考えると、これは大変なことだ。結局のところ、銀行は何もないところから無料で作り出した製品(すなわち、お金)を効率良く売った後、人々には、その返済をするために現実の世界で実質的な価値を持つものを採取・生産することを要求しているのだ。

常識外れの突拍子もないことなので、人々はそれが事実であることを理解できない。1930年代にヘンリー・フォードはこう言った。「国民はおそらく銀行制度や貨幣制度について知らないか、あるいは理解していないのだろう。もし理解していたら、明日の朝までに革命が起きるはずだ」。

借金を返済するための熾烈な競争

さて、ここから問題が生じる。銀行は、融資するお金は作り出すが、利息の支払いに必要なお金は作らない。したがって常に不足があり、欠乏した状態になる。

この欠乏(希少性)が激しい競争を生み、誰もが借金を返済するための資金を得る方法を見つけようとする。その方法には、さらに借金を重ねることも含まれる。

椅子取りゲームを見たことがあれば、この状況を理解できるだろう。音楽が止まるたびに、椅子は減らされ、プレーヤーは残ったわずかな椅子をめぐって競いあう。熾烈な競争だ。

では、もっと大きなものを賭けるとしたら、どうなるだろう。ゲームに負けるだけではなく、家を失い、子供たちは腹をすかせ、薬代も払えなくなるとしたら。そうなれば、どんな手を使ってでも椅子を奪い取ろうとするはずだ。

その状況を想像すれば、わたしたちの経済がどのように機能しているかについて、大まかなイメージを掴めるだろう。

資本主義社会の表面だけを見る人は、多くの経済学者と同じく、こう結論づけるかもしれない。激しい競争、利益の最大化、利己的な行動は、人間の本性に組み込まれているのだ、と。

しかし、そうした行動は、本当に人間の本質なのだろうか? それとも、ゲームのルールにすぎないのだろうか?

過去数十年にわたって生態経済学者は、複利に基づく貨幣制度は地球の生態系の微妙なバランスの維持とは両立しない、と述べてきた。この問題をどうすべきかについては、いくつかのアイデアが浮上している。

あるグループは、債務が指数関数的に膨らむ現在の複利システムを、単利システムに切り替えるだけでよいと主張する。

単利システムでは利息は元金だけにつくので、債務の増加は直線的だ。そうすれば債務の総額は大幅に減り、貨幣制度は生態系と調和するものになり、金融危機を招くことなく、脱成長経済に移行できるだろう。

「公共貨幣システム」というアイデア

2番目のグループはさらに踏み込んで、債務ベースの通貨を完全に廃止すべきだ、と主張する。

商業銀行に信用通貨を作らせる代わりに、国が債務なしで通貨を作り、経済に貸しつけるのではなく、経済で使うようにするのだ。

通貨を作る責任は、説明責任と透明性を備えた民主的な独立機関が担う。その機関の使命は、人間の福利と生態系の安定を両立させることだ。

もちろん、銀行は依然としてお金を貸すことができるが、そのためには100%の準備金――ドルに対してはドルで――を用意しなければならない。

「公共貨幣システム」と呼ばれるこのアイデアは決して奇抜なものではない。初めて登場したのは1930年代で、シカゴ大学の経済学者が大恐慌による債務危機の解決策として提案した。2012年には再び注目された。IMFの進歩的な経済学者らが、債務を減らし世界経済をより安定させる方法として奨励したからだ。

イギリスでは、ポジティブ・マネーという組織がこのアイデアを軸とする運動を展開してきた。

現在、よりエコロジカルな経済に向かうための有望な手段の一つとして注目されている。このアプローチの強みは、単に借金を減らすだけでなく、国民皆保険制度、雇用保障、生態系の再生、エネルギー転換などに直接、資金を提供できることにある。しかも、収益を生み出すためのGDP成長を必要としない。

資本主義の「転覆」や「廃止」について語る時、わたしたちは、その後どうなるのか、という不安に囚われる。

地球の死を目前にして、現行の経済システムを攻撃するのは簡単だが、改革を求める人々が、新たな社会がどのようなものになるかを述べることはほとんどない。そのため、未来は恐ろしく、予測不能なものに思える。

資本主義が消えた後の空洞をどのような悪夢が埋めることになるのか、いったい誰にわかるだろう。

しかし、経済システムを成長要求から解放する仕組みに着目すると、ポスト資本主義経済がどのようなものであるかが見えてくる。それはまったくもって怖いものではない。

ソビエト連邦の指揮管理システムの失敗を繰り返すのではなく、自主的に貧困になって原始的な生活に戻るわけでもない。それどころか、いくつかの重要な点で馴染みがある。

と言うのも、わたしたちが通常、経済と見なすもの(あるいは、経済はそうあるべきだと考えるもの)に似ているからだ。

「蓄積」を軸としない経済へ

すなわち、ポスト資本主義経済では、人々は有益な物やサービスを生産し販売する。合理的かつ十分な情報を得た上で、何を買うかを決断できる。
労働に見合う報酬を得ることができる。無駄を最小限にしながら人間としてのニーズを満たすことができる。必要とする人々に資金が届く。

イノベーションによって高品質で長持ちする製品が作られ、生態系への負荷が減る。労働時間は短縮され、人々はより幸福になる。そして、基盤となっている生態系の健全さを無視するのではなく、大切にする。

新しい経済はこのように馴染みのあるものだが、既存の経済とは根本的に異なり、その軸になっているのは、資本主義が一番の目的としてきた「蓄積」ではない。

はっきり言って、このいずれも、容易には実現できないだろう。容易だと考えるのは甘すぎる。加えて、わたしたちがまだ完全には答えを出せていない難問がいくつも残っている。

誰一人として、ポスト資本主義経済のための簡単なレシピを提示することはできない。結局、それは集団のプロジェクトとして進めていくべきなのだ。

ここでわたしにできるのは、いくつかの可能性を示し、それらが人々の想像力を刺激することを祈るだけだ。どうやって実現するかについては、社会正義や環境正義を求める歴史上のあらゆる闘争と同じく、ムーブメントが必要とされるだろう。すでにそれはいくらか出現している。

学校の気候変動ストライキ、環境保護団体エクスティンクション・レベリオン、ビア・カンペシーナ〔中小農業者の国際組織。小規模で持続可能な農業を目指す〕、スタンディング・ロック〔アメリカ先住民による水源保護活動〕等々。人々はより良い世界を切望するだけでなく、その実現のために結集している。

カギとなるのは人々の民主的な力

こうしたムーブメントは自然に生じるわけではない。それを起こすには地域社会の組織化というハードワークが求められる。また、環境保護運動は、現職の政治家に軌道修正を要求できるほどの政治的力を獲得するために、労働者階級や先住民族と連携する必要があるだろう。

わたしは政治戦略家ではないが、希望的観測を一つ述べておきたい。必要とされる転換を遂げるには、全体主義的な政府が上から強制するしかないと考える人々もいる。しかし、この思い込みは間違っている。真実はまったく逆だ。

(翻訳:野中香方子)

(ジェイソン・ヒッケル : 経済人類学者)