「余命半年」宣告から4年 がんで胃の2/3を失い、死を覚悟した54歳女性 今もステージで追う夢【ボディコンテスト名鑑#10 潤美和子】
各コンテストで輝く選手たちを紹介「ボディコンテスト名鑑#10 潤美和子」
30年以上の歴史を誇る世界最大級のボディコンテスト「マッスルコンテスト」。2月18日には東京大会が、19日には3年ぶりとなる日本での国際大会「マッスルコンテスト・ジャパン」が川崎市・カルッツかわさきで開催された。東京大会の女子ビキニ部門マスターズ(40歳以上)級では、54歳のインストラクター・潤美和子が優勝。4年前にスキルス性胃がんと診断され、一時は余命半年の宣告も受けた彼女がいかにしてステージに戻ってきたのか。死を覚悟した病を克服し、復活優勝までの道のりには周囲の温かい支えがあった。(取材・文=THE ANSWER編集部・鉾久 真大)
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思考回路が止まった。2019年4月。50歳の時、スキルス性胃がんと診断された。手術しても余命半年――そう宣告された潤は、死を覚悟した。
「お腹を切るって言われたから、お医者さんには『どうせ死んじゃうなら切らないでください』と言いました。体にメスを入れるのはそれだけ体に負担がかかることだから。だったら綺麗なまま死にたい。そう思いました」
思いとどまらせたのは医師の言葉だった。「この画像で見たら余命半年だけど、CTを受けたら変わるかもしれない」。翌日にCT検査を受け、他に転移していないことが分かった。希望が見え、手術を決意。へそを5センチ切り、胃の下3分の2を切除した。
「がんが見つかって余命半年と言われたときは『50年生きられて良かった』と思いました。やりたいことは全部できた感じ。協栄ジムのシェイプボクシングでDVDに出させてもらったり、雑誌やテレビにも出たりと、凄くメディアに縁があった時期もありました」
短大卒業後、大手電機メーカーの経理として17年11か月勤めた。早くに結婚し、26歳で1人息子を出産。産後太りをきっかけに、クラシックバレエを習いたい、と見学に訪れた施設で協栄ジムのボクシングエクササイズと出会った。あまりの楽しさに魅了され、「これは天職だ」と長年勤めた会社をすっぱり辞めて、インストラクターに転身した。
「定年まで安泰でしたが、自分の可能性を伸ばしたかったのと、今までやりたいのに諸事情で運動に縁がなく、ようやく縁ができたのが凄く嬉しくて」。体力勝負の仕事を長く続けるために何が必要か考え、体の使い方を教えられるようにとパーソナルトレーナーの学校に通い始めた。
子供はまだ小さく、育児、家事、仕事と両立させる必要があった。夜間の学校に通い、半年で試験に合格。しかし、トレーナーとして活動していくためには、まだまだ自分自身の体作りが足りないと感じ、新たな指導者を探した。そこで出会ったのが、「本野式筋膜連鎖トレーニングXY2Z」を提唱する本野卓士氏だった。
闘病生活を支えた言葉「ダメです。待っています」
体作りに励んだ潤は44歳になる2013年、ボディコンテストに初出場。最初は予選落ちが続いたが、本野氏の指導の下、徐々に成績を上げていった。3年目には「オールジャパンフィットネスビキニ」で準優勝。東日本大会では優勝を果たし、「次こそはオールジャパンで優勝、そしてアジア大会、世界大会にも行きたい」と夢が膨らんだ。しかし、翌年は5位止まり。「過去一番良い体で臨んだ」というが、台頭する新たな世代に勝てなかった。
2019年2月、日本に初上陸したマッスルコンテストに出場。3位入賞を果たし、失っていた自信を回復した。弾みをつけて、日本大会、そして海外挑戦……次のステップを思い描いた矢先だった。
2か月後の2019年4月、スキルス性胃がんが見つかった。
11日間の入院生活。胃を3分の2切除し、退院後も3か月に一度定期検診に通った。体力の低下は著しく、最初は500メートルぐらいしか歩くことができなかった。協栄ジムとK-1ジムで受け持っていたインストラクターの仕事は8か月休止。本野氏の下で励んできたトレーニングも半年間休んだ。
「すぐに体が戻らないから、『あの大会出たかったのに、この大会出るはずだったのに』という心の葛藤があって、その時期が本当に苦しかったです。それを乗り越えるのにも一生懸命で。SNSなども絶対に見ないようにしていました」
復帰できるのか自信がなかった。職場には「仕事全部降ります」と伝えた。キャンセル待ちを多く抱える本野氏には「私の枠を譲ってもらって構いません」と伝えた。しかし、共に返ってきた答えは「ダメです。待っています」だった。
「復帰できたのは皆さんが待ってくれたから。皆さんのおかげで今があります」。周囲の人の温かい応援を受けて、前を向く決意をした。
大手術から復活した探検家のドキュメンタリー番組をテレビで見て、刺激を受けた。高校野球などの「動く物」を目で追って脳を活性化させ、歩くところから始めた。最初は500メートルも歩けなかったが、3か月後には10キロ歩けるように。それからは、雨の日以外は毎日10キロ歩き続けた。
がんを克服し「人のために生きるように」
体力の回復を実感し、トレーニングを再開させようと思った頃に、今度はコロナ禍がやってきた。復帰した仕事も営業中止に。ジムも閉鎖される中で、療養中にはできなかった長距離ランに挑戦した。不織布マスクを着けながら、目標の10キロを完走。自信がまた戻ってきた。
2022年2月のマッスルコンテスト東京大会で選手復帰。女子ビキニ部門163センチ以下級で優勝した。夢だった海外挑戦も実現。10月にフィリピンの大会に出場し、マスターズクラスを制した。そして、今年の東京大会でも金メダルを手にした。
順調な復活劇に思えるが、当然ながら闘病前後で体作りの方法も大きく変わってくる。「イチからじゃなくてゼロからやり直し」だったというが、潤は「楽しいですね。大変じゃないです。これが誰かの役に立つから」と笑う。気持ちを前に向かせてくれたのは、自身もがんを克服したという恩師の本野氏の言葉だった。
「病気から復帰したときに、先生から『人のために生きることになる』と言われたんです。本野先生もがんを克服されてから人のために生きるようになった、と仰ってて。私の伝えるべきこと、私のすべきこと。神様がその役目をくださった感じです」
職場のクライアントにも病気のことを打ち明けた。自分が学んだことは出し惜しみせず伝えることにした。気付けば、復帰前よりクライアントの数は増えていた。
「伝えたことによって、『勇気をもらえた』『実は私もがんでした』と言ってくれる人がいまだに多いんです。『がんが見つかったけど、先生が元気になったのを見ているから、私も頑張ります』と励みになってくれているのが、凄く自分の中でモチベーションになっています」
余命半年の宣告から4年。胃の3分の2を失ったが、新たな生きがいを得た。次の目標を尋ねると、力強く言い切った。
「引退したくないです。キングカズを目指していて、生涯現役。また秋に海外に行きます。まだ決めてないですが、前回行けなかったベトナムを考えています」
これからは人のために。一度は止まってしまった夢を、潤は再び追いかける。
(THE ANSWER編集部・鉾久 真大 / Masahiro-Muku)