海外オークション出品は簡単にできるのか !? 日本人オーナーによる、ザガート・ガビア出品体験談
これは伝統あるオークションハウス、ボナムスに、筆者のザガート・ガビアを出品した体験談だ。英語の知識は必要だが、意外と敷居は低い。オクタン日本版の読者も、これなら自分が所有してきた愛車を次のオーナーに引き継ぐ方法として、ヨーロッパでオークションに出すというのも選択肢の一つであると考える手助けになればと記したものだ。
【画像】日本から海外オークション「ボナムス」へ持ち込んだ希少車、ザガート・ガビア(写真11点)
ステルビオの販売不振が生んだ希少車
ガビアの話をするにはステルビオというモデルの話をしなくてはならない。日産のF31レパードをベースに、オーテックがイタリアのカロッツェリア・ザガートとタッグを組んで1980年代の日本の高度成長期に企画されたのが、オーテック・ザガート・ステルビオだ。200台限定で生産、1700万円という価格で日本国内をターゲットにしたプロジェクトはしかし、1990年の終わり頃に104台で生産が止まってしまった。
200台の生産で契約を交わしていたザガートは、日本から送られてきていた何十台分のパーツを抱えることになる。そこで、在庫パーツを元にザガート独自のプロジェクトとして、30台限定で製作したのが、ガビア(Gavia)だった。ガビアとはステルビオがそうだったように、北イタリアとスイスを結ぶ峠の名前に由来する。デザインは元々ステルビオ用に用意された、いくつかのデザイン原案のなかから再選定されたようだ。新しくガビアのデザインを描いて立体化する手間を省くことができたこともあり、1991年春のミラノ・ショーにオーテックの名前が省かれたザガート・ガビアとしてカロッツェリア・ザガートのブースにプロトタイプが発表されている。
全て右ハンドル仕様で30台を生産する予定だったが、結局1993年までに16台だけが生産され、全部が日本に輸出されて、ザガートジャパンから990万円の価格で販売されたというが、販売には苦労したようで、1ZA1010301A000012のシャシーナンバーを持つ私の車は1998年が初年度登録になっていた。16台の内12番目に生産された個体である。
F31レパードのようにはいかない現実
愛知県のある輸入車専門の中古車店(現在は存在していない)で走行距離39000kmほどの車両を購入したのが2004年。購入後、屋根付きガレージ内でコンディションを保ってきたが、塗装の下のアルミパネルに白い粉が吹いたような錆が何箇所か出てきたため、錆の除去を兼ねて前々から好きだったS13シルビアのライムグリーンメタリックのツートン塗装に塗り替えることにした。以降大事に乗っていたが、駐車場の問題もあり、次のオーナーを探す決断をしたというのが今回のコトの発端だ。
手放すことを決めてから、あまりにも珍しいこのザガート・ガビアが日本の中古車市場では値が付かないということが分かってきた。元になったF31レパードは、テレビドラマの影響もあり、根強いファンによって新車価格を上回る値段で取引され、程度の良いレストア済のF31レパードには1000万円を越えるプライスタグが付けて取引されているにも関わらずだ。
それならば、ヨーロッパに送ってオークションに掛け、私の愛車に幾らの値が付くのか試してみようと考えた。幸い、オランダのホンダS800クラブ会長で友人のヤン・シュミットが、アムステルダムでインターネットによるクラシックカーのオークションを行っている会社、クラシックカー・オークション社と連絡を取ってくれ、ここでザガート・ガビアのオークションを引き受けてくれることになった。
順調に進む出品準備に期待が膨らむ
コロナ禍の影響でコンテナ料金が高騰してしまい、20フィートコンテナに入れてヨーロッパに送ると100万円ほど掛かるという。自走できるので、自動車専用船に載せる事ができ、オランダのロッテルダム港まで片道15万円で送る事ができた。クラシックカー・オークション社宛に輸出する書類を作り、北九州市の新門司港からロッテルダム港でも荷下ろしをする自動車専用船に載せて送り出したのが、2022年2月だ。車両は6週間でロッテルダム港に着く。幸いなことに、私には前述した友人のヤンがいる。今回の細かな受け取り時のやりとりを引き受けてくれた。
コロナによる海外渡航の隔離措置が、ワクチン3回の接種証明書で免除となったことも手伝い、2022年5月には足止めなく3年ぶりにヨーロッパの地を踏むことができた。順調に準備は進んでいた。さらに、オランダの自動車雑誌『Autovisie』の編集者がザガート・ガビアに強い関心をもってくれて、なんと10ページという異例の扱いで掲載してくれた。オークションの直前にこれだけの記事が載るとは望外のプロモーションとなるだろうと期待された。翌日訪ねたクラシックカー・オークション社ではガビアは最前列に飾られ、格段の扱いを受けていた。社としてもこんなに珍しい車を扱うのは初めての経験で、落札金額が幾らになるかは予想が付かないと言う。ネットに掲示した評価額は5万から9万ユーロ。ユーロと円の為替レートが、134円から144円に10日間で変動したというタイミングでもあり、皮算用に胸が膨らんだのは正直なところだ。
衝撃のオークション不成立
帰国してから6月16日のインターネットオークションの最終日、期待を込めてサイトの画面を見守っていたが、最後の1時間で上がって行くという言葉を信じていたのに、入札があったのは10人だけ、12,350ユーロでオークションは終了した。最低金額を4万ユーロに設定していたので、オークションは不成立ということになった。ヨーロッパの自動車通には名が知れているカロッツェリア・ザガートが製作したわずか16台のザガート・ガビアに1ユーロ=140円で計算して173万円しか値段がつかないのは意外だった。オークション不成立という苦い思いのまま、最初の海外オークション出品を終える。
8月、私はパリにいた。2022年8月3日、パリ2区のオペラ・ガルニエから歩いて1kmほどのボナムス・パリ事務所をアポ無しで訪ねた私とフランス人の友人は、エントランス付近にいた女性に来意を告げ、相談に乗ってもらった。早速ヨーロッパでの自動車取引の責任者であるポール・ダーヴィル氏の携帯電話に連絡をしてくれ、8月5日の午後に事務所で会うアポイントメントが取れたのは幸運だった。フランス人の友人とはその日に別れ、以後は私自身が英語でボナムスのパリ事務所とやり取りして、実にスムーズにオークションで愛車を売る手筈は整った。ここからわずか1ヶ月後の9月10日オークショニア(競売人)の軽妙な話術で、伝統あるボナムスのオークションで私のザガート・ガビアはオークションにかかり、私はそれを目の前にする事になる。
走り出したボナムスへの出品
8月5日、ボナムス・パリ事務所でポール・ダーヴィル氏に面会した。まずはザガート・ガビアを手放そうと思っていること、オランダのオークションでは低い金額しか付かなかったことを説明した。まだ40歳ほどのイギリス人であるダーヴィル氏は豊富な知識を持っていたが、兄弟車のザガート・ステルビオのことは知るものの、ガビアに関しては初めて聞いたとのことだった。そこでオランダの雑誌『Autovisie』の10ページの特集記事を見せると、これは絶対に(右ハンドルの)イギリスで売るべきだ、との意見が出た。それはおよそ1ヶ月後、9月10日のビューリーで行われるオークションはどうか、との提案だった。
ここからすべてが走り出す。先ずは、英語でガビアに関する情報をまとめて欲しいとのこと。オランダからイギリスに移動させるためにアムステルダムのクラシックカー・オークション社の住所や連絡先などの情報も必要だった。売買の契約書は、ネットだけでやり取りできるから大丈夫と確約してくれた。それから帰国までの2日間は、オランダのヤンに連絡してクラシックカー・オークション社の連絡先をダーヴィル氏に送ってもらったり、ガビアの情報を英文でまとめたりと慌ただしく過ごした。
日本では英語での住所証明に悩まされ…
帰国してからは勤務医としての仕事に従事する傍ら、再度の渡英とオークション準備を急いだ。そこにはいくつかの手間も伴った。バナムス・ロンドン本社の担当者から英文のPDFが送られてきて、それを開いて長文を読んだが、私が何年に買って、どのようなレストアをしたのか?シャシーナンバーは?など、多数の質問に英語で回答する必要があった。細かい契約書の条文の全部に目を通して契約の内容を全部理解するのはとても無理だと感じたが、そこは歴史あるボナムスを信頼して大まかに把握だけしておいた。
さらに英語で私の情報を伝えないといけない。落札された場合に私の銀行口座に国際送金で送られてくる際の銀行のSWIFT CODEやIBAN CODEの情報は、銀行の本店の海外送金を取り扱っている担当者に聞けば教えてくれる。売主である私の身分証明書は、パスポートのコピーを送れば良いのだが、住所を英文で証明する書類を求められたことには困った。日本に住んでいて、自分の住所を英文で証明する手段というのは、無いに等しい。イギリスという英語社会から求められた英語での日本の住所の証明をどうすればいいか。最後に取った方法は、私の国際運転免許証には英語で住所が記載されていて、このコピーを送って解決できたのだが。
9月5日、DHLで自宅に届いたのは9月10日のオークションのカタログだった。しっかりした印刷・製本の立派なカタログが1ヶ月足らずの時間で完成したとは、とても信じられなかった。さすが200年の歴史は伊達ではない。9月7日夜、関西空港からドバイ経由のロンドン行きのエミレーツ航空に乗って出発、8日昼にロンドンのヒースロー空港に到着、それから地下鉄とバスを乗り継いでホテルに到着した時には、エリザベス女王の崩御のニュースが広がってテレビを付けたら全てのチャンネルで追悼番組が流れていた。
9日は、ロンドンのウォータールー駅からサザンプトン行きの列車に乗り、サザンプトンに移動してタクシーでホテルに到着。テレビは相変わらず追悼番組ばかり、たまにスポーツ番組でサッカーの試合結果が流れる程度。翌朝のビューリーまでのタクシーを予約して早めに寝ることにした。
そしてガビアに付けられた評価額
9月10日朝、約束の時間に迎えに来たタクシーに乗り、ビューリーへと向かう。オークションが開かれるビューリーは、南イングランドのサザンプトンという港町から遠くない場所にある。詳しくはOctane日本語版のホームページに書かれているので参考されたい(https://octane.jp/articles/detail/2064)。前回訪れたのはもう40年近く前のことだ。カタログの中に招待状が入っており、それを見せてタクシーごとゲートに入り、オークション会場へと向かった。
オークション会場は屋外と屋内の会場に分かれており、私のガビアは屋外だが、建物に近い良い場所に展示されていた。建物の中にはオークションの目玉となる車と自動車に関連したオートモビリアと呼ばれる様々なグッズが展示されている。10時からは、先ずオートモビリアからオークションが始まるというが、中に入るやメールのやりとりを担当してくれていた担当者から声をかけられた。日本人としてただ一人オークションに参加している私は、ボナムスの関係者からも知られているようだ。ガビアに付けられた評価額は、3万から5万ポンド。36000から59000ユーロが併記されている。
ボナムスは、スペシャリストと呼ばれるその道に通じた担当者のチームによって牽引されている。その下に事務方の運営スタッフ達がいて、カタログの作成や顧客との連絡、会場の設営に当たっている。ボナムス社に入社すると、まず事務方を数年経験した後、それぞれの得意分野に特化したスペシャリストへと育成される。それぞれのスペシャリスト達は、世界中に自分の顧客を持ち、車両を買いたい人、売りたい人とを繋ぎ、膨大なネットワークを形成している。私にボナムスへの参加の門を開けてくれたポール・ダーヴィル氏もスペシャリストの1人で、パリを拠点としてヨーロッパ大陸で動き回っているというが、今回のオークションには来ていない。
ロットNo.543のガビアは午後2時半から3時にオークションに掛かると教えられた私は、今回のオークションに出品された様々なクラシックカーを見て回った。フェラーリのV8気筒エンジンを積んだミウラのレプリカが評価額3万から4万ポンドで出ていたり、古い商用車やロールス・ロイスをベースにしたスペシャルとか、まさに百花繚乱とでも表現すべきバラエティに富んだ出品だった。 オークション会場を囲む柵の外にも、オークションに集まって来る顧客を目当てに会場外でも様々な業者や個人が展示し、目を止めてくれるのを待っていた。むしろこちらの方に展示されている車の方に心を動かされるような車が多かったのは面白かった。
さあ、私のロットNo.543の番だ
ナショナルオートモビルミュージアム(国立自動車博物館)の中を見学し、カフェテリアで軽く食べてからオークション会場に戻り、ロットNo.543の順番を待つことにした。オークショニア(競売人)が数人交代しながら軽妙な早口のクイーンズ(いや、キングか)イングリッシュで会場に並ぶ顧客とやり取りをしながら値を上げていく古典的なオークションが進み、私のロットNo.543の番になった。緊張が高まる。
1万ポンドからスタートして、早口なオークショニアが読み上げる数字は掲示板でリアルタイムに更新されて行く。興奮してくる。が、数字は2万6千ポンドで止まってしまった。ボナムスの評価額は、3万から5万ポンド、このまま売らないという選択肢もあった。ちょっと困惑している私の顔を見て、件のダーヴィル氏に代わって当日の担当をしてくれているチームメンバーのライアン氏が声を掛けてきた。
「私は、この会場には来ていない顧客を世界中に持っているので、彼らに電話で連絡をとってみるから30分ほど待っていてください!」2万6000ポンドというと170円で計算して442万円。オランダで付いた価格よりも随分良いが、ここまで運ぶ経費も掛かっているからもう一声欲しいところだ。ライアン氏を信じて待つしかない。待つことしばし、笑みを浮かべたライアン氏がやって来て「3万ポンドでアメリカ人の顧客と話が付いた。売る売らないの判断は、あなたが決めることだが」。4千ポンド(68万円)上乗せで、510万円で売れるなら満足して決めるしかない。適切な価格で次のオーナーに渡すことができたのだ。
スペシャリストたちの「さすが」の仕事
ボナムスのオークションで自分の愛車を売りたいと考えるなら、スペシャリスト個人に連絡するか、ロンドン本社に連絡すれば対応してくれるそうである。価値がある(と思われる)車なら、現地に到着して充分に時間を掛けて鑑定作業をしたいので、オークションの予定時期から2ヶ月前には届くようにしたほうがいいそうだ。特別に価値があるなら、もっと前、例えば4ヶ月前に届いたら、現地のクラシックカー専門誌の取材を受けられるように手配もできるとのことだった。とまれ、パリでの出会いからたった1ヶ月でオランダからビューリーの会場まで車を運び、カタログを完成させ、顧客に寄り添ってくれるスペシャリスト達の姿は、さすが歴史あるオークション会社だと感心させられた。
文:宮野滋 Words:Shigeru MIYANO
Thanks to Paul Darvill (European Auctions Manager) paul.darvill@bonhams.com Bonhams Collectors' Car Department 4 rue de la Paix, 75002, Paris
【画像】日本から海外オークション「ボナムス」へ持ち込んだ希少車、ザガート・ガビア(写真11点)
ガビアの話をするにはステルビオというモデルの話をしなくてはならない。日産のF31レパードをベースに、オーテックがイタリアのカロッツェリア・ザガートとタッグを組んで1980年代の日本の高度成長期に企画されたのが、オーテック・ザガート・ステルビオだ。200台限定で生産、1700万円という価格で日本国内をターゲットにしたプロジェクトはしかし、1990年の終わり頃に104台で生産が止まってしまった。
200台の生産で契約を交わしていたザガートは、日本から送られてきていた何十台分のパーツを抱えることになる。そこで、在庫パーツを元にザガート独自のプロジェクトとして、30台限定で製作したのが、ガビア(Gavia)だった。ガビアとはステルビオがそうだったように、北イタリアとスイスを結ぶ峠の名前に由来する。デザインは元々ステルビオ用に用意された、いくつかのデザイン原案のなかから再選定されたようだ。新しくガビアのデザインを描いて立体化する手間を省くことができたこともあり、1991年春のミラノ・ショーにオーテックの名前が省かれたザガート・ガビアとしてカロッツェリア・ザガートのブースにプロトタイプが発表されている。
全て右ハンドル仕様で30台を生産する予定だったが、結局1993年までに16台だけが生産され、全部が日本に輸出されて、ザガートジャパンから990万円の価格で販売されたというが、販売には苦労したようで、1ZA1010301A000012のシャシーナンバーを持つ私の車は1998年が初年度登録になっていた。16台の内12番目に生産された個体である。
F31レパードのようにはいかない現実
愛知県のある輸入車専門の中古車店(現在は存在していない)で走行距離39000kmほどの車両を購入したのが2004年。購入後、屋根付きガレージ内でコンディションを保ってきたが、塗装の下のアルミパネルに白い粉が吹いたような錆が何箇所か出てきたため、錆の除去を兼ねて前々から好きだったS13シルビアのライムグリーンメタリックのツートン塗装に塗り替えることにした。以降大事に乗っていたが、駐車場の問題もあり、次のオーナーを探す決断をしたというのが今回のコトの発端だ。
手放すことを決めてから、あまりにも珍しいこのザガート・ガビアが日本の中古車市場では値が付かないということが分かってきた。元になったF31レパードは、テレビドラマの影響もあり、根強いファンによって新車価格を上回る値段で取引され、程度の良いレストア済のF31レパードには1000万円を越えるプライスタグが付けて取引されているにも関わらずだ。
それならば、ヨーロッパに送ってオークションに掛け、私の愛車に幾らの値が付くのか試してみようと考えた。幸い、オランダのホンダS800クラブ会長で友人のヤン・シュミットが、アムステルダムでインターネットによるクラシックカーのオークションを行っている会社、クラシックカー・オークション社と連絡を取ってくれ、ここでザガート・ガビアのオークションを引き受けてくれることになった。
順調に進む出品準備に期待が膨らむ
コロナ禍の影響でコンテナ料金が高騰してしまい、20フィートコンテナに入れてヨーロッパに送ると100万円ほど掛かるという。自走できるので、自動車専用船に載せる事ができ、オランダのロッテルダム港まで片道15万円で送る事ができた。クラシックカー・オークション社宛に輸出する書類を作り、北九州市の新門司港からロッテルダム港でも荷下ろしをする自動車専用船に載せて送り出したのが、2022年2月だ。車両は6週間でロッテルダム港に着く。幸いなことに、私には前述した友人のヤンがいる。今回の細かな受け取り時のやりとりを引き受けてくれた。
コロナによる海外渡航の隔離措置が、ワクチン3回の接種証明書で免除となったことも手伝い、2022年5月には足止めなく3年ぶりにヨーロッパの地を踏むことができた。順調に準備は進んでいた。さらに、オランダの自動車雑誌『Autovisie』の編集者がザガート・ガビアに強い関心をもってくれて、なんと10ページという異例の扱いで掲載してくれた。オークションの直前にこれだけの記事が載るとは望外のプロモーションとなるだろうと期待された。翌日訪ねたクラシックカー・オークション社ではガビアは最前列に飾られ、格段の扱いを受けていた。社としてもこんなに珍しい車を扱うのは初めての経験で、落札金額が幾らになるかは予想が付かないと言う。ネットに掲示した評価額は5万から9万ユーロ。ユーロと円の為替レートが、134円から144円に10日間で変動したというタイミングでもあり、皮算用に胸が膨らんだのは正直なところだ。
衝撃のオークション不成立
帰国してから6月16日のインターネットオークションの最終日、期待を込めてサイトの画面を見守っていたが、最後の1時間で上がって行くという言葉を信じていたのに、入札があったのは10人だけ、12,350ユーロでオークションは終了した。最低金額を4万ユーロに設定していたので、オークションは不成立ということになった。ヨーロッパの自動車通には名が知れているカロッツェリア・ザガートが製作したわずか16台のザガート・ガビアに1ユーロ=140円で計算して173万円しか値段がつかないのは意外だった。オークション不成立という苦い思いのまま、最初の海外オークション出品を終える。
8月、私はパリにいた。2022年8月3日、パリ2区のオペラ・ガルニエから歩いて1kmほどのボナムス・パリ事務所をアポ無しで訪ねた私とフランス人の友人は、エントランス付近にいた女性に来意を告げ、相談に乗ってもらった。早速ヨーロッパでの自動車取引の責任者であるポール・ダーヴィル氏の携帯電話に連絡をしてくれ、8月5日の午後に事務所で会うアポイントメントが取れたのは幸運だった。フランス人の友人とはその日に別れ、以後は私自身が英語でボナムスのパリ事務所とやり取りして、実にスムーズにオークションで愛車を売る手筈は整った。ここからわずか1ヶ月後の9月10日オークショニア(競売人)の軽妙な話術で、伝統あるボナムスのオークションで私のザガート・ガビアはオークションにかかり、私はそれを目の前にする事になる。
走り出したボナムスへの出品
8月5日、ボナムス・パリ事務所でポール・ダーヴィル氏に面会した。まずはザガート・ガビアを手放そうと思っていること、オランダのオークションでは低い金額しか付かなかったことを説明した。まだ40歳ほどのイギリス人であるダーヴィル氏は豊富な知識を持っていたが、兄弟車のザガート・ステルビオのことは知るものの、ガビアに関しては初めて聞いたとのことだった。そこでオランダの雑誌『Autovisie』の10ページの特集記事を見せると、これは絶対に(右ハンドルの)イギリスで売るべきだ、との意見が出た。それはおよそ1ヶ月後、9月10日のビューリーで行われるオークションはどうか、との提案だった。
ここからすべてが走り出す。先ずは、英語でガビアに関する情報をまとめて欲しいとのこと。オランダからイギリスに移動させるためにアムステルダムのクラシックカー・オークション社の住所や連絡先などの情報も必要だった。売買の契約書は、ネットだけでやり取りできるから大丈夫と確約してくれた。それから帰国までの2日間は、オランダのヤンに連絡してクラシックカー・オークション社の連絡先をダーヴィル氏に送ってもらったり、ガビアの情報を英文でまとめたりと慌ただしく過ごした。
日本では英語での住所証明に悩まされ…
帰国してからは勤務医としての仕事に従事する傍ら、再度の渡英とオークション準備を急いだ。そこにはいくつかの手間も伴った。バナムス・ロンドン本社の担当者から英文のPDFが送られてきて、それを開いて長文を読んだが、私が何年に買って、どのようなレストアをしたのか?シャシーナンバーは?など、多数の質問に英語で回答する必要があった。細かい契約書の条文の全部に目を通して契約の内容を全部理解するのはとても無理だと感じたが、そこは歴史あるボナムスを信頼して大まかに把握だけしておいた。
さらに英語で私の情報を伝えないといけない。落札された場合に私の銀行口座に国際送金で送られてくる際の銀行のSWIFT CODEやIBAN CODEの情報は、銀行の本店の海外送金を取り扱っている担当者に聞けば教えてくれる。売主である私の身分証明書は、パスポートのコピーを送れば良いのだが、住所を英文で証明する書類を求められたことには困った。日本に住んでいて、自分の住所を英文で証明する手段というのは、無いに等しい。イギリスという英語社会から求められた英語での日本の住所の証明をどうすればいいか。最後に取った方法は、私の国際運転免許証には英語で住所が記載されていて、このコピーを送って解決できたのだが。
9月5日、DHLで自宅に届いたのは9月10日のオークションのカタログだった。しっかりした印刷・製本の立派なカタログが1ヶ月足らずの時間で完成したとは、とても信じられなかった。さすが200年の歴史は伊達ではない。9月7日夜、関西空港からドバイ経由のロンドン行きのエミレーツ航空に乗って出発、8日昼にロンドンのヒースロー空港に到着、それから地下鉄とバスを乗り継いでホテルに到着した時には、エリザベス女王の崩御のニュースが広がってテレビを付けたら全てのチャンネルで追悼番組が流れていた。
9日は、ロンドンのウォータールー駅からサザンプトン行きの列車に乗り、サザンプトンに移動してタクシーでホテルに到着。テレビは相変わらず追悼番組ばかり、たまにスポーツ番組でサッカーの試合結果が流れる程度。翌朝のビューリーまでのタクシーを予約して早めに寝ることにした。
そしてガビアに付けられた評価額
9月10日朝、約束の時間に迎えに来たタクシーに乗り、ビューリーへと向かう。オークションが開かれるビューリーは、南イングランドのサザンプトンという港町から遠くない場所にある。詳しくはOctane日本語版のホームページに書かれているので参考されたい(https://octane.jp/articles/detail/2064)。前回訪れたのはもう40年近く前のことだ。カタログの中に招待状が入っており、それを見せてタクシーごとゲートに入り、オークション会場へと向かった。
オークション会場は屋外と屋内の会場に分かれており、私のガビアは屋外だが、建物に近い良い場所に展示されていた。建物の中にはオークションの目玉となる車と自動車に関連したオートモビリアと呼ばれる様々なグッズが展示されている。10時からは、先ずオートモビリアからオークションが始まるというが、中に入るやメールのやりとりを担当してくれていた担当者から声をかけられた。日本人としてただ一人オークションに参加している私は、ボナムスの関係者からも知られているようだ。ガビアに付けられた評価額は、3万から5万ポンド。36000から59000ユーロが併記されている。
ボナムスは、スペシャリストと呼ばれるその道に通じた担当者のチームによって牽引されている。その下に事務方の運営スタッフ達がいて、カタログの作成や顧客との連絡、会場の設営に当たっている。ボナムス社に入社すると、まず事務方を数年経験した後、それぞれの得意分野に特化したスペシャリストへと育成される。それぞれのスペシャリスト達は、世界中に自分の顧客を持ち、車両を買いたい人、売りたい人とを繋ぎ、膨大なネットワークを形成している。私にボナムスへの参加の門を開けてくれたポール・ダーヴィル氏もスペシャリストの1人で、パリを拠点としてヨーロッパ大陸で動き回っているというが、今回のオークションには来ていない。
ロットNo.543のガビアは午後2時半から3時にオークションに掛かると教えられた私は、今回のオークションに出品された様々なクラシックカーを見て回った。フェラーリのV8気筒エンジンを積んだミウラのレプリカが評価額3万から4万ポンドで出ていたり、古い商用車やロールス・ロイスをベースにしたスペシャルとか、まさに百花繚乱とでも表現すべきバラエティに富んだ出品だった。 オークション会場を囲む柵の外にも、オークションに集まって来る顧客を目当てに会場外でも様々な業者や個人が展示し、目を止めてくれるのを待っていた。むしろこちらの方に展示されている車の方に心を動かされるような車が多かったのは面白かった。
さあ、私のロットNo.543の番だ
ナショナルオートモビルミュージアム(国立自動車博物館)の中を見学し、カフェテリアで軽く食べてからオークション会場に戻り、ロットNo.543の順番を待つことにした。オークショニア(競売人)が数人交代しながら軽妙な早口のクイーンズ(いや、キングか)イングリッシュで会場に並ぶ顧客とやり取りをしながら値を上げていく古典的なオークションが進み、私のロットNo.543の番になった。緊張が高まる。
1万ポンドからスタートして、早口なオークショニアが読み上げる数字は掲示板でリアルタイムに更新されて行く。興奮してくる。が、数字は2万6千ポンドで止まってしまった。ボナムスの評価額は、3万から5万ポンド、このまま売らないという選択肢もあった。ちょっと困惑している私の顔を見て、件のダーヴィル氏に代わって当日の担当をしてくれているチームメンバーのライアン氏が声を掛けてきた。
「私は、この会場には来ていない顧客を世界中に持っているので、彼らに電話で連絡をとってみるから30分ほど待っていてください!」2万6000ポンドというと170円で計算して442万円。オランダで付いた価格よりも随分良いが、ここまで運ぶ経費も掛かっているからもう一声欲しいところだ。ライアン氏を信じて待つしかない。待つことしばし、笑みを浮かべたライアン氏がやって来て「3万ポンドでアメリカ人の顧客と話が付いた。売る売らないの判断は、あなたが決めることだが」。4千ポンド(68万円)上乗せで、510万円で売れるなら満足して決めるしかない。適切な価格で次のオーナーに渡すことができたのだ。
スペシャリストたちの「さすが」の仕事
ボナムスのオークションで自分の愛車を売りたいと考えるなら、スペシャリスト個人に連絡するか、ロンドン本社に連絡すれば対応してくれるそうである。価値がある(と思われる)車なら、現地に到着して充分に時間を掛けて鑑定作業をしたいので、オークションの予定時期から2ヶ月前には届くようにしたほうがいいそうだ。特別に価値があるなら、もっと前、例えば4ヶ月前に届いたら、現地のクラシックカー専門誌の取材を受けられるように手配もできるとのことだった。とまれ、パリでの出会いからたった1ヶ月でオランダからビューリーの会場まで車を運び、カタログを完成させ、顧客に寄り添ってくれるスペシャリスト達の姿は、さすが歴史あるオークション会社だと感心させられた。
文:宮野滋 Words:Shigeru MIYANO
Thanks to Paul Darvill (European Auctions Manager) paul.darvill@bonhams.com Bonhams Collectors' Car Department 4 rue de la Paix, 75002, Paris