「私か母のどちらかが死ななければ」母娘の呪縛
(写真はイメージです。EKAI/PIXTA)
2018年3月、滋賀県守山市で娘・郄崎あかり(仮名・当時31歳)が母・郄崎妙子(仮名・当時58歳)を殺害し遺体をバラバラにして遺棄した。この事件の経緯を詳細につづったノンフィクション『母という呪縛 娘という牢獄』は、著者の齊藤彩さんが獄中の郄崎あかりと交わした30通を越える往復書簡を元に執筆されている。あかりとのやり取りを通じた印象や、あかりと母の関係性などについて齊藤さんに聞いた(前編はコチラ)。
同じ苦しみを味わう人が、少しでも減ってほしい
共同通信の司法記者として郄崎あかりの控訴審を傍聴していた齊藤彩さんは、弁護士を通して公開されたあかりの手記を見たことがきっかけで直接取材を申し込んだという。
「手記はA4用紙の上から下までびっしりと手書きされていました。被告人がこんなにボリュームのある声明を出すことは珍しく、『この人は何か言いたいことがあるんじゃないか』と思って、大阪拘置所にあかりさんとの面会を申し込みに行きました」
あかりは母について、手記にこうつづっている(※文中の太字部分は本書からの抜粋)。
(私の母は)良かれと思って頑張ってきたのに、(私に)期待を裏切られ続け、失望し、不信感に囚われ、焦燥に駆られていたに違いありません。
そのような母の呪縛から逃れたいが為に、私は凶行に及びました。
ですが、(控訴審第一回期日にて)弁護士さんからの尋問に答えたように、(現在の私は)幼い頃から叩き込まれた教養や厳しかった躾に助けられております。
私の行為は決して母から許されませんが、残りの人生をかけてお詫びをし続けます。
お母さん、本当に御免なさい。
令和二年十一月二十四日 郄崎あかり
あかりの書いた「母の呪縛から逃れたい」という一節に、齊藤さんは強く引きつけられた。初めてあかりと面会した時の印象を齊藤さんはこう語る。
「実際に会ったことで、すごく理路整然とお話しされる方だなという印象を持ちました。話し方が淀みなく、自分の考えを整理して言語化できる方だと思いました。最初に少し雑談をしたのですが、感性や趣味嗜好に関しても身の回りの人とあまり変わらない、私たちと地続きの場所にいる人だと感じました」
あかりは取材に対して最初から積極的だった訳ではなかったという。
「最終的にはかなり高い割合で取材に協力してくれましたが、最初のうちは『これはあまり話したくない』とか『こういうことはやめてほしい』ということが多く、積極的にすべてを話したいと思っているわけではなかったと思います。
書籍化に関しても、最初はあまり前向きではありませんでした。私としては彼女の人生にいい影響を及ぼすようにしたいと考えながら交渉しました。共同通信で最初にこの事件の記事を配信した時から大きな反響があり、いろいろな人が自分ごととして捉えてくれているテーマだということは、彼女も理解してくれていました。
自分の体験を詳しく伝えることで同じ苦しみを味わう人が少しでも減ればいいと思って、これまでの報道に協力してくれました。その思いは2人とも一致していたので、最終的に本を出すことを許諾してもらいました」
あかりは母から激しい罵倒や暴力を受けながら医学部を受験することを強要され、9年もの浪人生活を送った。その末に「看護で手を打ってやる」と母が妥協し、地元の医大の医学部看護学科に合格。あかりは大学進学後、「できるだけ母に寄り添おう」という思いから休日を一緒に過ごすよう努め、母娘で旅行をすることもあった。
私は子ども時代に母がそうしてくれたように、あれこれと旅行を計画した。母は有名テーマパークが好きだったので、TDR(東京ディズニーリゾート)やUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行き、京都や東京、沖縄にも出かけた。
長年、互いに憎み、死を願い続けた険悪な関係だったけれど、やっと普通の母娘になって、楽しく笑い合えるように。何百枚も私は2人の笑顔の写真を撮った。母が喜んでくれるのが、嬉しかった。
笑い合える時もあった
家庭という密室で寝食を共にする親子だからこそ、自分を傷つける相手と笑い合う瞬間がある。残酷な行為をされても「悪いことばかりじゃない」という考えが頭をよぎる。簡単には離れられない関係性が、親子の問題をより根深くするのだろうか。
「彼女の30年間の人生の中で、つねに100%憎んでいた訳ではなく、時期によって割合が変化していたのだと思います。受験や進路が関わってくると、お母さんの存在感が圧倒的に増し、価値観の相違が表れてしまうのでお母さんへの憎しみが100%に近い状態になっていたと思います。
しかし大学生1、2年生の頃はお母さんの価値観を押し付けることができない凪のような時期だったので仲良くやれていた。そのことは完全に憎み切れていなかったことを象徴していると思います。
親子関係、特に母と娘は絶縁しようと思っても他人になれない関係性です。そのために2人の関係性ではなく、命そのものを消すことしか解決する手段がなかった。それが母娘という関係性の逃れられなさであり、呪縛といえるところだと思います」
齊藤彩(1995年東京生まれ。2018年3月北海道大学理学部地球惑星科学科卒業後、共同通信社入社。新潟支局を経て、大阪支社編集局社会部で司法担当記者。2021年末退職。本書がはじめての著作となる。撮影:ヒダキトモコ)
あかりは看護学科で学ぶうちに、外科手術に関わる手術室看護師を志望するようになった。母は看護学科に進学する条件として「助産師になること」を約束させていたが、あかりは助産師になることに熱意を持つことはできず、大学の助産師課程選抜試験に不合格となった。
助産師学校の公開模試の結果もD判定だった。すると母は激昂し、看護師としての就職を断り助産師学校を受験することを強要した。「(病院に看護師として就職したら)死んでやる、病院で暴れてやる、お前が病院にいられなくしてやる!」と言い出したこともあった。
戻りたくはない地獄
なぜそこまで母は助産師にこだわったのか。
「お母さんは看護師という仕事に対して職業差別的な偏見があったのだと思います。お母さんの高校時代の友人に看護師だった方がいたこともあって、自分の子どもにはさせたくない仕事だと考えていたのだと推察します。
ではなぜ助産師ならいいのか。ご本人のみが知るところではありますが、助産師の資格は看護師よりは難易度が高いので『看護師よりは少しでも上の資格をとってほしい』と考えたのかもしれません。医師にすることはかなわないとわかってしまったので、それに代わる道を勧めようとしたのだと思います」
あかりが母を殺そうと思ったのは、九年におよぶ医学部浪人を強制されたからではなかった。その「地獄の時間」を脱し、ようやく自分の足で歩こうとしたとき、またも母の暴言や拘束によって「地獄の再来」となることを心から恐れたのだ。
二〇代のときには耐えられた、受け流すことができた「地獄」も、九年の浪人を経て大学という外の世界を見、三〇歳を超えたいまとなっては、二度と戻りたくない場所だ。
あかりが控訴審で提出した陳述書は、「いずれ、私か母のどちらかが死ななければ終わらなかったと現在でも確信している」という言葉で締めくくられている。この一文に強く引き付けられたという齊藤さんは、どう捉えたのだろうか。
「最近、私の中でまた新しい解釈が生まれています。1つは、彼女は相当な覚悟を持ってお母さんとの関係を断ち切ろうとしていたということです。世の中の殺人事件の動機には『カッとなってやってしまった』という衝動的なものもあります。
でも彼女の場合は何回も踏み止まり、実際に犯行に及ぶ直前にも『本当にこれでいいのか』『怖気付くな』とメモに残しており、自分を奮い立たせているんです。また、毛布を切りつけて刺す練習もしています。相当な覚悟でこの結果をもたらしたという重さが伝わってくる一文だと思います。
もう1つは最近思い至ったことなのですが、あかりさんもお母さんを少しは愛していた部分があったのではないかということです。お母さんが消えてほしいだけの存在だったら、『母が死ぬしかなかった』と書けばいい。そこを『私か母のどちらかが』と書いたのは、お母さんの命に手を下してはいけないという気持ちがあったからではないかと思います」
監獄を出た、娘の未来とは
あかりは第一審では死体損壊・死体遺棄は認めたが、母の殺人容疑は否認を貫き「母は自殺した」と主張していた。しかし控訴審の初公判では一転して母を殺したことを認め、詳細に経緯を語るようになった。あかりがすべてを話すことを決めた背景には、第一審の判決文を読み上げた大西裁判長が、あかりの苦しみに対して理解を示す言葉をかけてくれたことが大きく影響した。
「お母さんに敷かれたレールを歩みつづけていましたが、これからは自分の人生を歩んで下さい」という裁判長の説諭が深く、温かく胸に染み入り、涙がこぼれそうになった。
誰にも理解されないと思っていた自分のしんどさが、裁判員や裁判官に分かってもらえた--嘘をついているのに。
それが嬉しくて、ありがたくて心が救われたようだった。
もう、嘘をつくのは止めよう。
父も弁護士も、本当の私を受け入れてくれるだろう。控訴審できちんと打ち明けて、真相を知ってもらおう。ようやく、迷いはなくなった。
また献身的な弁護活動をしてくれた弁護士や、「空気のような存在」だと思っていた父があかりを支える意志を示してくれたことに対する感謝の思いがあった。
長年の苦しみに理解が示されたことが、あかりにとって救いになったのだろうか。
「私自身を含め、家族の悩みは軽々しく他人に相談できない風潮が日本にはあります。儒教からくる『親は大切にするものだ』という価値観が強く、声を挙げ難い状況を作っていると思います。彼女も相談できる人がなかなかいませんでした。こうして事件の背景や動機が公けになったことで、それを知った人が共感してくれたことは彼女にとって救いだったと思います」
本書の執筆を通して、齊藤さん自身の生き方に対する考え方に変化があったという。
「妙子さんの人生を知って、自分の人生を大切にしないと他人を大切することはできないと思うようになりました。私の取材した範囲では、妙子さんは母親になかなか愛されなかったり、高卒という学歴にコンプレックスを持っていました。
けれど自分で学び直すことはせず、娘に自分を重ねて人生のリベンジをしようとしたところが見受けられます。私はまだ子どもを産む予定はないですが、他人に自分の価値観を押し付けないようにするためには、自分のやりたいことにちゃんと素直になろうと思うようになりました」
心穏やかに過ごしてくれたら
齊藤さんは共同通信社を退職し、執筆活動をしながら学生時代から続けてきたラクロス選手としての活動に力を入れ、日本代表を目指している。
「母に、『社会人になってからもスポーツをするの』とすごく難色を示されたので、自分でも『よくないことなのかな』と以前は思っていたんです。でも親の期待に応えることが人生ではないですし、心から関心のあることはやり遂げたいと思いました。この事件と向き合ったことが、その後押しとなりました」
今後のあかりの人生に対して齊藤さんはどんな思いを抱いているのか。その答えについて深く考え込みながら、齊藤さんはこう語った。
「言葉にするのはすごく難しいところがあります。なぜかというと、服役を終えて出所したら、彼女にしかわからないハードな問題やつらさがあると想像するからです。
彼女にはこれから自分のやりたかったことに取り組んでほしい、文章を書くことが上手なのでぜひその才能を発揮してほしいという思いがあります。しかし出所後の苦しみを知らずして『頑張れ』とは言えません。何か言えるとしたら、心穏やかに過ごしてくれたら。それが一番なのかと思っています」
(都田ミツコ : 編集者・ライター)