「仕事を終えクタクタでも…あまりの臭さに泣きながら糞便処理」老父母W壮絶介護の50代娘が殺意を抱いた夜
■同居後の生活
芸能関係の仕事に従事する馬場寧々さん(50代・独身)は数年前に夫と離婚して、一人息子(15歳)を養育中
だが、介護が必要な状態になった老父母と同居することを決めた。91歳と83歳の両親は、娘と孫との同居をとても喜んでいた。
だが同居早々、父親が馬場さんを悩ませた。同居する前から母親は、「お父さんが夜中、私の部屋に来て、『胸が苦しい』と訴えるから気持ちが悪い。いつも起こされて、ゆっくり寝られない」と嘆いていた。馬場さんは同居するまでは、「へぇ〜、そうなんだ」と、ひとごとだったが、同居した途端、父親が「胸が苦しい」と訴える相手は馬場さんに変わった。芸能関係の仕事を調整しつつ、昼夜関係なく父親を病院に連れて行かなければならなくなり、気が休まらないどころか、眠ることもままならない。
父親は、2つの病院を受診し、肺ガン検診、心電図、血液検査、尿検査などを受けたが、特に胸が苦しくなる原因は見つからない。
「どこも悪くないみたいだよ」と、父親に言っても、夜中になると、「胸が苦しい」と悲壮感を漂わせて馬場さんが寝ている部屋に来る。その度に、「病院に連れて行ってくれ!」と言われるが、さすがに馬場さんも寝不足のため、「もう調べるとこないから!」と声を荒らげてしまう。
そんなある日、内科の医師から、「不定愁訴かもしれませんね。お年寄りにはよくあります。腰が痛いと言う方もいますよ」と言われる。医師は、有名な精神科宛てに紹介状を書いてくれた。
そこは認知症外来もあり、100人近く待ちがあると言われている人気の病院だったが、紹介状のおかげですぐに診てもらえた。診断の結果、父親の病名は、「身体表現性障害」。
この障害は、ストレスが身体の症状となって表れてしまっている病気のこと。身体をいくら調べてもどこも悪くないのに、本人にとっては症状があり、健康不安が尽きない障害だ。こころが作り出した身体の症状で、実際に身体症状として苦痛を感じることもあれば、病気に対する不安が募り、精神的な苦痛が強くなることもある。
馬場さんは、「まさにこれだ!」と思った。父親は抗不安薬を処方されると、「この薬はよく効くわ。胸がす〜っとするわ」と、大満足。それ以来「胸が苦しい」と言わなくなった。
■アルツハイマー型認知症
一方母親は、同居したての頃、料理をしてくれていたが、一緒に買い物に行くと冷蔵庫の中にまだストックがあるのに、必ずホウレン草とハマグリを買う。「まだ冷蔵庫にたくさんあったよ!」と止めると、「は? 私は買ったことないわ。またおかしなこと言うて! 私を陥れるんやから!」と無視。
冷蔵庫の中では、調理されずに腐ってどろどろに液状化したホウレン草が増えていく。
「母は、ハマグリのお吸い物と、ホウレン草のおひたしが好きで、作りたいって頭の中では思ってるんです。けど、作るのを忘れちゃうんでしょうね……」
馬場さんは母親を、「早く認知症外来に連れて行かないといけない」と思うが、本当のことを言ったら拒絶されるのが関の山。そこで、「80歳過ぎたら無料で脳の検査ができるらしいで!」と嘘をついて連れて行き、その日のうちにアルツハイマー型認知症と診断された。
そのため母親もデイサービスを契約するが、自ら「今日は休む」と電話をかけてしまい、両親ともなかなか行ってくれない。馬場さんは一番大変だった頃を、こう振り返る。
「父は『胸が苦しい』と言って毎晩夜中に起こしてくる。母はアルツハイマー型認知症のせいで、『財布がない! 返せ!』と夜中に騒ぐ。おかげで私は、ひどいときは3日もまともに眠れずに仕事に行ったこともあります。同居してから3〜4年経つくらいまでが一番大変でした……」
困り果てた馬場さんはついに、『デイケアに行かないなら同居は解消する! 息子と出て行く!』と宣言。すると両親は渋々行き始めた。
父親は、週5でデイサービスに通い、後の2日は訪問医療・看護・介護を入れ、自宅にいても寝たきりにならないように努めた。母親は、週5でデイサービスに通い、週1アルツハイマー型認知症の診察、精神病院の中にある認知症専門のデイサービスに通い、残りの1日は訪問医療・看護に来てもらった。
やがて同居から1年後、母親は膵臓がんと診断された。自覚症状は全くなく、血液検査とCTで判明。高齢のため、詳細な検査もできず、ステージ何かは不明。医師も本人も治療は望まず、特に薬も飲んでいない。
■母親の強制入院
母親は、鍋を火にかけたまま放置して焦がしたり、炊飯器のスイッチを入れるのを忘れたりが続き、自然とキッチンから足が遠のいていく。同居から2年目くらいの頃には、馬場さんが料理をするようになっていた。
しかし、母親の物盗られ妄想は日に日にひどくなり、夜中にあちこちの引き出しや押し入れを開けたり、馬場さんの部屋に押し入ってきたりして、「通帳返して! 何にも買えへん! 財布も返して! 買い物したら返すから!」と騒がれる。
もちろん、馬場さんは盗っていない。いつしか馬場さんは、母親が来る夜中が恐怖になっていた。
そんなある日の早朝、馬場さんは母親に「通帳返して! 財布返して!」と叩き起こされた。
瞬間、馬場さんは頭の中でプツンと切れる音がしたのを聞いた。
「わかった! 泥棒かもしれない! 警察呼ぼう!」
そう言って馬場さんが110番すると、警察官がすぐに来てくれた。馬場さんは玄関を開けると小声で、「母は認知症なんです!」と警察官に告げる。すると警察官は、「わかりました! お母さまと話します」と言ってくれた。その言葉を聞いた馬場さんは、涙が出そうになった。
「こんなことで警察を呼んではいけないことは分かっていましたが、一人っ子の私には相談するきょうだいもいないし、叔父叔母は高齢だし、このままだと母の首に手を置いてしまいそうでした。精神的にも限界だったんだと思います」
母親は警察官を見るなり、
「あら〜、わざわざ来てもらわなくても良かったのに〜。この子がおおげさなのよ〜」
とよそ行きの声と表情。しかし警察官も心得ていて、「お母さん、あなたは幸せなんですよ! このあたりでも、高齢のご夫婦2人きりで、大変な思いで暮らしている人がいっぱいいらしゃるんです。お母さんは、娘さんとお孫さんと暮らせて、こんなに幸せなことはないです。仲良く暮らしてください」とたしなめてくれた。
だが、それで母親が静かになったのはたったの半日。夜にはまた、「通帳返して! 財布返して!」が始まった。それだけでなく、母親はますます言いたい放題になっていく。
元旦の朝に、「あけましておめでとう」とあいさつすれば、「めでたいことあらへん!」と返される。馬場さんが料理をすれば、「辛い! 臭い! 焼けてない! 何時間かかって料理してんねん! も〜! 一人のほうがマシやわ〜!」とボロクソに言われる。
「何度母に殺意を抱いたかわかりません。父が亡くなったら施設に入れてやろうと考えて、何とか耐えていました」
限界が来ていた馬場さんは、認知症外来の医師に相談。すると医師は、「少しお母さまを預かります。あなたはゆっくり休んでください」と言ってくれた。母親を強制的に入院させて、馬場さんを休ませてくれたのだ。
「物盗られ妄想と暴言行動で、元々ヒステリックな母は、いつも険しい顔をしていました。毎日、母の暴言を聞いていた私は、朝起きるとプチ欝(うつ)で、生きているのがつらく、『今日は何が起こるのか?』と考えると動悸(どうき)までしてくるようになっていました」
母親をだますことに良心の呵責(かしゃく)はあったが、父親も息子も世話している馬場さんは、ここで自分が倒れるわけにはいかない。「いつもの診察」と言って母親を連れ出し、診察室に入った後は看護師に任せることに。
不安な馬場さんは、高校生の息子に同行してもらう。大好きな孫が来てくれたことで、母親は普段より機嫌が良かった。母親は診察室に入ると、いつものように医師と話をする。最後に医師が、「では今日から、入院していただきます!」と告げた途端、母は、
「嫌だ〜! 触るな〜! やめて〜! 帰る〜!」と大暴れ。看護師の手を振りほどき、床に大の字になって手足をばたつかせた。
心を鬼にした馬場さんは、看護師たちに一礼すると、息子とともに病院を後にした。
■息子の不登校
高3になった息子は、「介護の専門学校に行きたい」と言ったが、馬場さんが「介護より看護の方が給料が良いよ」と助言し、卒業後は看護学校に入学。ところが約3カ月後、馬場さんは学校から、「学校に来ていません」との連絡を受けてびっくり。慌てて息子が行きそうな場所や近所のネットカフェなどに電話をして息子を探した。
「看護学校は、毎日小テストや課題提出がありましたが、ADHDの息子は、やるべきことの優先順位がわからず、ゲームをしたり、テレビを見たりしてしまい、勉強せずにテストを受けたり、課題提出もせず、毎日のように先生から叱責を受けていました」
だんだん先生に怒られるのが嫌になった息子は、学校に行ってもトイレやロッカーに隠れていることが増え、その後、学校に行かず、ネットカフェなどで一日を過ごすようになっていたようだ。
「息子が介護の専門学校に行きたいと言ったのは、両親との同居がきっかけだと思います。ででも私が看護学校を勧めたばっかりに、つらい思いをさせてしまいました。当時の息子は精神が崩壊していましたから、暴れて部屋の壁に穴を開けたりと大変で、『私の育て方に問題があったのか?』などと私もずいぶん悩みました。両親も両親でいろいろ崩壊してましたし……。この頃が一番しんどかったです」
馬場さんは、めまいと耳鳴りがひどくなり、嘔吐してしまうことも。病院を受診すると、メニエール病だった。
「頭痛はロキソニンでは効かず、一番きつい頭痛薬をもらっています。今でも薬を飲み忘れると、頭が揺れる感じがして気持ち悪くなりますが、最近は当時よりだいぶストレスが緩和されて、吐くことはなくなりました」
話し合いの結果、息子は看護学校を退学。その後、若者の就労を応援する短期の専門学校に通い、改めて介護について学ぶことに。
「看護学校を退学したとき、息子はうつ病と診断されました。精神科の先生が疲れ切った様子の私を見かねて、『僕が息子さんを預かります。ここから、介護の学校に行かせます!』と言って息子に入院を勧めてくださり、3カ月入院しました」
介護の学校に行き始めた息子は、就労を求めて通う人たちに出会い、「悩んでいるのは自分だけではなかった」と気がつき、少し気持ちが落ち着いたようだ。だが、介護の学校を卒業後、グループホーム勤務が決まったが、先輩が威圧的だったため看護学校でのトラウマがよみがえり、1カ月経たないうちに出勤しなくなってしまう。馬場さんは再び絶望に打ちのめされたが、息子は3カ月ほど休むと、自分で現在の介護施設勤務を決めてきた。
■101歳まで生きた父親
2021年8月に100歳を迎えた日、親戚一同の前で、父親は「あと10年生きたいと思います! 神様にお願いします。娘に迷惑かけんように生きていきたいと思います! Thank you very much!」とあいさつした。だが、翌年8月には新型コロナに感染し、4日間何も食べられなくなり、馬場さんが保健所に電話すると、「呼吸ができていれば自宅療養です」と言われる。
しかし5日目の朝、明らかに元気がなくなっていたため、馬場さんは救急車を要請。幸いすぐに到着し、入院。父親は肺炎を起こしていた。1カ月ほどで完治し、退院すると、父親は食欲が激減していた。
98歳くらいの頃から血尿が出始め、前立腺がんと診断されていたが、血尿止めの薬を処方される程度。99歳の頃には右足大腿骨を骨折し、人工骨頭置換術を受けた。入院生活ではリハビリをしなかった父親だったが、退院後、スパルタなデイサービスのおかげで、介助があれば10歩ほど歩けるほどに回復した。
馬場さんは、「フェニックスだ!」とたたえた。
だが2022年12月。父親は風邪をこじらせ、食べられなくなる。不安になった馬場さんは救急車を要請。病院に運ばれて点滴を受けたが、すぐに帰宅するよう言われる。入院をお願いするも、コロナ禍で受け入れてくれる病院はなく、結局自宅に戻った。その翌日、父親は亡くなった。101歳だった。
2023年1月末に四十九日を終え、同じ月に母親が誤嚥(ごえん)性肺炎で入院。2月には退院したが、入院生活で寝たきりになってしまったため、ケアマネジャーと話し合い、「自宅介護は難しい」という結論に。そして、現在息子が勤務している介護施設に入所が決定。
「いろいろあった10年でしたが、母は、大好きな孫のいる施設に入れて、私は息子から、日頃の施設での母の様子も聞けるので、結果的には看護師ではなく、介護士になってくれて、ありがとうと思ってます。やっと私も解放された気持ちになりました」
馬場さんは時々、息子が荒れていた頃のことを「あの頃には絶対に戻りたくないね」と茶化して話す。すると息子は、「あ〜すまん! 俺も、若かったし!」と頭を下げるという。
■自分を犠牲にしない
「介護にやりがいなんてない」と話す馬場さん。特につらかったのは、両親の便や尿の後始末だったという。
「2022年は、両親共にポータブルトイレになり、家中臭くてたまりませんでした。洗うのは私ですし、仕事からクタクタで帰宅したあと、臭さに涙を流しながら、ポータブルトイレを洗っていました。最近は介護職の息子に助けてもらえるようになりましたが、泊まりの仕事もあるので、基本は私です。家族が一番つらいのは、便の処理だと痛感します」
つらさや苦しさは、友人やケアマネジャーに話すことで解消した。
「昔から、自分は悩みを抱え込むと駄目になるとわかっていたので、人に話して聞いてもらうことで、ストレスを発散していました。介護のためにランチや飲み会を断りたくなかったので、極力、デイサービスで夕飯食べてきてもらったり、息子に休んでもらったりして、友人との仲を閉ざさないようにしました」
介護で眠れなくても仕事も続け、趣味のボウリングや洋裁教室も絶対に辞めなかった。
「介護離職する人は年間10万人以上いるそうですが、私は、もし朝起きて親が死んでいても、多分誰かに葬儀の手配を頼み、仕事を優先します。私は絶対に仕事を辞める気はありません。仕事を辞めたら、自分の老後の経済的な心配につながるからです。でもそれだけでありません。社会と接点がないと、私は孤独感で押しつぶされそうになります。私は仕事をしている時が一番心が落ち着き、『自分はここで生きてるんだ!』という気持ちになれるからです」
父親は早朝に亡くなり、死亡確認の後、馬場さんは仕事に行き、帰宅後に葬儀の打ち合わせをした。
「今、介護離職を考えている人にお伝えしたいのは、決して1人で抱え込まず、ケアマネジャーさんに相談してほしいということです。自分の生活を犠牲にすることは、普通の親なら望んでいないと思います。長男や嫁、子どもが親の面倒を見なければならない時代は終わりました。これからの介護は、介護する家族が自分の生活を犠牲にしないことが大切だと思います」
経済的な理由や、親が嫌がるため施設に入れられないケースも少なくない。しかし子どもには子どもの人生があり、親の余命よりも長い人生が残っている。日本は“家族のことは家族で”という考え方が根深いが、働き盛りの子ども世代が離職して親の介護をするのと、親の介護はプロに任せて社会で働き続けるのとでは、経済社会としてはどちらが有益か。施設や人員、法などの一刻も早い整備を願う。
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)