「少しの大型空母」「たくさんの小型空母」どっちが有利? 旧海軍を苦しめた空母のサイズ問題
太平洋戦争で旧日本海軍は「飛龍」の設計を流用した雲龍型空母を多数建造しました。このタイプはいうなれば中型空母。小型空母でもなく大型空母でもない中型クラスの整備に舵を切った台所事情を探ります。
条約発効により旧海軍は「超大型空母」を取得
航空母艦(空母)という艦種が生まれてから、「少数の大型空母」と「多数の小型空母」のどちらが有利なのか、議論がなされました。どちらにも利点がありますが、日本空母ではある理由により、中型空母が量産されることになります。なぜ、そのような流れをたどったのか見てみます。
旧日本海軍の空母「鳳翔」(画像:アメリカ海軍)。
日本初の正規空母である旧日本海軍の「鳳翔」。同艦は、世界初の新造空母として竣工した艦として知られます。
ただ「鳳翔」は基準排水量7470トン、水線長165mと、大きさとしては巡洋艦サイズでした。のちの空母と比較するときわめて小さいですが、当時の艦載機はコンパクトで滑走距離も短かったため、艦型が小さくてもあまり問題はなかったのです。
しかし、1923(大正12)年に発効した「ワシントン海軍軍縮条約」が、その情勢を一変させます。日本とアメリカは当時の軍艦で最大であった巡洋戦艦や戦艦を、空母に改造したからです。
条約前には排水量1万8000トンの空母を「超大型」と認識していた旧日本海軍でしたが(なお、アメリカ海軍はこの時期に排水量3万9000トンの大型空母を検討)、基準排水量2万6900トンの「赤城」「加賀」を保有することになったのです。ただ、こうした事情はアメリカも同じで、当初、巡洋戦艦として起工した「サラトガ」「レキシントン」は、基準排水量3万3000トンの超大型空母でした。
とはいえ、日米ともに条約で認められた空母建造の上限排水量に到達してしなかったので、次の空母をどうするのか早速、検討が行われます。
アメリカでは、海軍航空の元締めとなる海軍省航空局が、1924(大正13)年に「少数の大型空母では少ない海域にしか配備できない。搭載機の多い小型空母を多数建造した方がいい」と主張します。この考えに立ち、排水量1万3800トンの空母「レンジャー」が生まれますが、防御力の不満から2万トンあるヨークタウン級が3隻建造され、その後には1万5200トンの「ワスプ」が建造されるなど、やや迷走を見せます。
日本はカタパルトの実用化がネック
一方、日本は条約制限以下の公称9800トン「龍驤」を建造した後、「鳳翔」を破棄する前提で、公称1万50トン(実際には1万5900〜1万7300トン)の「蒼龍」「飛龍」を建造します。
同時に、日本は戦時の空母改装を前提とした制限外艦艇として、「大鯨」や剣埼型などといった潜水母艦を建造していました。これらは「基準排水量1万トン以下」の条約制限下で建造されたので、2万5675トンの翔鶴型を除いて、アメリカの同時期空母より小型だったといえるでしょう。
旧日本海軍の空母「赤城」(画像:アメリカ海軍)。
太平洋戦争が始まると、日本はミッドウェー海戦で「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻を一挙に失います。それを補うために日本は雲龍型空母を量産します。ただ、この時期になると、艦載機の性能が向上したことで、飛行甲板の長さがこれまでよりも必要になります。なぜなら、そうしないと艦載機の発艦が難しかったからです。とはいえ、後に「伊吹」で、発艦促進用のロケットを艦載機側に取り付けることで、小型空母の戦力化が可能と判断したようですが。
一方、アメリカは小型空母でもカタパルト(射出機)を使えば重い艦載機でも発艦できたため、小型低速の護衛空母でも、アベンジャーなどの高性能艦載機を運用できました。
では、太平洋戦争中では、大型空母と小型空母では、どんな特色があったのでしょうか。
旧日本海軍が艦載機を発艦させる際、飛行甲板の先端部から70m程度は「発艦区域」となっていました。その後ろは「配列区域」となっており、先頭から艦上戦闘機、艦上爆撃機(艦爆)、艦上攻撃機(艦攻)の順番で並べます。魚雷を搭載した鈍重な攻撃機が、一番滑走距離を必要とするため、最も後ろに置かれたわけです。
これは大型でも小型でも一緒ですが、例えば飛行甲板が延長後でも180mしかなかった客船改造の大鷹型は滑走距離が足りないので、魚雷を装備した新型艦攻「天山」は同時に3機しか発艦できないなど、艦載機運用能力が著しく制限されていました。
飛行甲板の広さが空母運用のキモに
元々空母は「飛行甲板に並べられる機数」しか同時に発艦できないため、大型空母は同時に発進できる艦載機数で有利です。太平洋戦争初頭の1942(昭和17)年5月に起きた珊瑚海海戦では、旧日本海軍は大型空母「翔鶴」から、零戦9機、九九式艦爆19機、九七式艦攻13機の合計41機を一度に発艦させています。これは模型の飛行甲板に航空機を置くとわかりますが、翔鶴型の飛行甲板に41機はほぼ限界といえる数です。
一方、アメリカは珊瑚海海戦で、「翔鶴」より長い飛行甲板を持つ「レキシントン」から、同時に50機を発艦させています。
アメリカ海軍のインディペンデンス級2番艦「プリンストン」。同型9隻中、同艦のみ戦没している(画像:アメリカ海軍)。
なお、太平洋戦争後半の1944年6月に起きたマリアナ沖海戦では、旧日本海軍は小型空母「千歳」「千代田」「瑞鳳」の3隻から、零戦14機、爆装零戦43機、天山7機の計64機を発進させています。機体が軽く、離艦しやすい零戦が主体でも1隻平均21機しか出せていないのです。
よく、超大型空母「信濃」は、搭載機数が48機(+補用機2機)と船体サイズの割に少ないと言われますが、「搭載機全機を同時発進できる」という意味で、大型空母としては最大級の攻撃力を発揮できる艦型とも言えます。
空母戦での艦載機の消耗は、1942年10月の南太平洋海戦を例にすると、出撃112機のうち約90機が失われるなど大きなものです。太平洋戦争後半になると、旧日本海軍は艦載機の消耗が大きすぎるという理由から、あえて必要ないとして空母への爆弾や魚雷の搭載数を削減したきらいもあります。空母戦の結果、飛行甲板に穴が空けば戦闘不能にはなりますが、最初に大きな艦載機数を出せる大型空母は、やはり強いと言えるでしょう
また、大型空母の利点は着艦時にもあります。小型空母では艦載機をエレベーターで格納庫に下ろさなければ補給できませんが、「赤城」「翔鶴」などの大型空母では戦闘機を「発艦区域」に待機させつつ、他の艦載機を飛行甲板上で補給できたため、反復攻撃で有利でした。
技術的に「小型空母多数」が採れなかった日本
なお、小型空母は飛行甲板が狭いので、飛行甲板の先頭部分に艦載機を置いたままにすると、戻ってきた攻撃隊が着艦できなくなります。ゆえに、頻繁に飛行甲板のエレベーターから、格納庫に着艦した艦載機を降ろす必要があり、そういった観点でも大型空母と比べて運用効率が劣りました。
こうしたこともあり、「艦載機を十分に運用できる最低限の艦型」が、日本では中型空母の「飛龍(雲龍型含む)」となったわけです。なお、既存の小型空母は飛行甲板を延長して、少しでも発艦時の「発艦区域」を長く取り、着艦時では「収容区域」に艦載機を貯め込めるようにしていました。
アメリカ海軍の空母「ホーネット」(画像:アメリカ海軍)。
太平洋戦争後半になると、アメリカ空母のほとんどは優れたカタパルトを装備していたので、前述したように小型空母であっても大型の最新艦載機を運用できました(艦載機の運用効率では大型空母の方が優れているのは日本と同じです)。
ただ、大型空母については、自走発進だと1機15〜30秒に対し、カタパルトを使うと1機2〜3分かかることから、カタパルトは無用の長物だと考えられていたようで、大戦後期にHIV型カタパルトの導入で、発艦間隔が30秒〜1分に短縮されるまで、撤去命令が出たほどです。
こうして見てみると、太平洋戦争中に限定するのであれば、日本は「小型空母多数」より「大型空母少数」の方が技術的には望ましいけど、条約制限や予算の関係からできなかったと言えるでしょう。一方、アメリカは「小型空母多数」でも、カタパルトを使えば戦うことはできるけど、速力も速く、艦載機の進歩にも合わせやすい大型空母の方が、やはり望ましかったと捉えることができます。
ただ、日本軍の戦艦に護衛空母が砲撃されたサマール沖海戦(1944年10月)のような事例では、アメリカ側が小型空母6隻ではなく、大型空母2隻であれば、早期に戦闘力を喪失していた可能性もあったことから、戦場につきものの「運」は無視できないとも感じる次第です。