地下鉄有楽町線と直通する″第二総武線″のはずだった? JR京葉線が″東京駅発着″に至る歴史
東京メトロ有楽町線は新木場駅が終点で、そこから千葉方面へは、JR京葉線への乗り換えが必要です。しかしかつては、有楽町線そのものが千葉方面へ伸びるなど、様々な整備計画がありました。
有楽町線が千葉へ直通していない背景は
和光市から池袋、永田町、有楽町を経由して新木場を結ぶ東京メトロ有楽町線。終点の新木場でJR京葉線、りんかい線に接続しています。
京葉線を走る209系電車(画像:写真AC)。
有楽町線とJRは同じ線路幅。もし新木場駅を通じて相互直通運転が実現すれば、千葉から池袋、埼玉方面へのネットワークが生まれます。残念ながら現時点で、その実現に向けた動きは特に見られません。
ところが1972(昭和47)年に策定された、東京圏の交通網整備方針を定める「都市交通審議会答申第15号」を見ると、8号線(有楽町線)は終点の湾岸(新木場)から千葉方面、海浜ニュータウンへの延伸が構想されていたことが分かります。海浜ニュータウンとは海浜幕張、検見川浜、稲毛海岸周辺に広がる住宅地です。このように有楽町線と京葉線は、開業までさまざまな変遷を経て現在の姿に至っています。
昭和30年代からあった京葉線の計画
京葉線は東京圏では遅い時期に整備された路線で、1986(昭和61)年に西船橋〜千葉みなと間、1988(昭和63)年に新木場〜南船橋間・市川塩浜〜西船橋間、千葉みなと〜蘇我間、そして1990年に東京〜新木場間が開業し、全通しました。
ただその歴史はもっと古く、もともと川崎市塩浜から東京港、千葉県臨海部埋立地を経て木更津に至る延長約105kmの「貨物専用線」として計画され、1964(昭和39)年に運輸大臣から工事着手の指示を受けた路線でした。
1975(昭和50)年に蘇我〜千葉ターミナル間が開業したものの、重工業から電子機械工業への産業構造の転換や社会情勢の変化を背景に、埋立地の利用目的は工業から商業、住宅へと変化したため、京葉線の旅客化を求める声が高まってきました。
貨物専用線計画から「第二総武線」計画へ変化
一方、都心と千葉方面を結ぶメインルートである総武線は、1972(昭和47)年に東京〜錦糸町間の地下線(総武快速線)開業と錦糸町〜津田沼間の複々線化を達成。1981(昭和56)年の営業開始に向けて津田沼〜千葉間の複々線化を進めていましたが、早晩、輸送力が行き詰まるのは明らかでした。
そこで東京・千葉の臨海部埋立地、とりわけ現在の海浜幕張、検見川浜、稲毛海岸に広がる海浜ニュータウンの通勤輸送を目的とした旅客線の整備構想が具体化します。これは千葉県が、成田空港建設を受け入れる見返りとして強く要望したという背景もあります。
現在の京葉線は複線の路線ですが、当時は貨物線としての需要も残っていたため、都心・海浜ニュータウン間を結ぶ新線は京葉貨物線の複々線として建設する構想でした。
問題となったのは都心乗り入れです。京葉貨物線は都心を回避するバイパスルートとして計画されたため、通勤路線としての利便性を確保するには途中で分岐して都心に乗り入れる区間を新規整備する必要があります。そこで湾岸(新木場)延伸が計画されていた8号線に乗り入れるか、国鉄が独自に都心に乗り入れるか、2つの案が検討されました。
後者の国鉄都心乗り入れ計画ですが、財政悪化した国鉄にとって、独自に都心乗り入れするための莫大な工費は、重い負担でした。いっぽうで8号線へ直通するならば、都心部の工事は帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)が負担する形になります。しかも国鉄と営団の直通運転は、当時すでに東西線、千代田線で実績がありました。
しかし総武線を補完する「第二の幹線」を欲していた国鉄は、あくまでも自力での都心直通を求めました。当時の資料によれば、これは8号線と山手線・京浜東北線の乗り換え駅である有楽町駅が1面2線10両編成対応の小規模な駅であり、様々な種別の列車を運用する「東京駅のサブターミナル」としての役割を果たすことができないという判断でした。
「京葉線 都心延伸」のルートも途中変更
国鉄が8号線乗り入れの代わりに構想していたのは、京葉線から有明付近で分岐し新橋地下駅に乗り入れる「総武開発線」と、そこからさらに都心地下を西進し、新宿を経て三鷹まで結ぶ「中央開発線」の一体的な建設でした。
臨海部を走る京葉線の電車(乗りものニュース編集部撮影)。
分岐線が「新橋経由」とされたのは、その頃、隣接する「汐留貨物駅」用地に総合ターミナルを建設し、「第二東海道新幹線」の始発駅とする計画があったからです。しかも東京駅周辺では鍜治橋通り地下に、成田空港直結の新幹線「成田新幹線」のターミナル整備が予定されており、国鉄新線が乗り入れるための空きスペースはありませんでした。
ところが、汐留貨物駅再編構想は変更、第二東海道新幹線構想は見直しとなり、新橋(汐留)に駅を設置する必要がなくなりました。さらに成田新幹線構想もとん挫したことで、国鉄は京葉線延伸部について、「東京駅乗り入れ」に方針を転換。1983(昭和58)年6月22日に京葉線の計画変更と、成田新幹線の工事凍結を同時に申請しています。
こうして1988(昭和63)年6月に有楽町線、12月に京葉線が開業し、新木場は両路線の接続駅となりました。京葉線が東京延伸する1990(平成2)年までわずか2年間でしたが、乗り換えという形ながら有楽町線が京葉線利用者の都心アクセスを担う形となりました。
ちなみに京葉線と中央線の直通構想のみ、現在も形を変えて存在しています。交通政策審議会答申第198号は、中央線の混雑緩和や東京都西部や千葉方面のアクセス向上を目的として、京葉線を東京駅から新宿を経由して三鷹まで延伸し、中央線に乗り入れる構想を挙げています。
※誤字を修正しました(1月23日18時00分)。