服部文祥さんが2019年に20万円で購入した築100年以上の古民家「百之助」。南東側より

会議に追われながら、電車に揺られながら、上司、同僚、部下の愚痴を聞きながら、ふと、このまま会社員生活を続けていていいのだろうか、と思うことはないだろうか。

登山家の服部文祥氏は、廃村の古民家で、できる限り、いまの日本社会のシステムから離れ、自給自足生活を送ろうという試みを、数年前から行っている。

ほぼ崩れかけた古民家を修理し、沢から水を引き、薪を集め、ソーラーで発電……実際のところ、どこまで自力でできるものなのか。

憧れに終わるか?

これなら自分でも多少できそうか?

生き方の選択肢のひとつとして「自給自足」を考える。

手探りで行ってきた実践の記録をまとめた新刊『お金に頼らず生きたい君へ』から一部抜粋、再構成してお届けする。

20万円で築100年以上の古民家を手に入れる

2019年頭に私が購入した古民家は百之助という屋号だった。屋号とは家の名前のようなものである。

最初はまず掃除から始まった。

百之助は傾斜地に石垣を組んで作り出した平地に建っている。明治期に建てられたと思われる母屋は、間口6間、奥行2間半で、釘を使わずに組み上げられた日本古来の構造建築である。母屋はそれぞれ10畳の土間、中の間、東の間と仕切られていて、その母屋の北側に、昭和期に増設されたと思われる6畳の部屋と7畳半の台所がついていた。

母屋は養蚕用の構造になっており、2階でカイコのスペースを確保するため、1階の天井がやや低くなっている。1階の梁に頭をぶつけないかちょっと気になるものの、こぢんまりとした堅牢な造りが、100年以上経っても潰れなかった理由と思われる。長年放置されてきた1階はゴミ溜めのようになっていて、湿気を吸って波打つ畳、東の間に3台並んだベッド、破れた障子、そして床にゴミとして散らばるカレンダーや新聞、古い電気製品。食品の賞味期限は25年前の日付だった。 

3台のベッドの布団のカバーには、介護施設の名前がマジックで書いてあった。この家に最後に暮らしたのは、寝たきりになった老齢の方、3人だったようだ。蕗沢集落の老人が全員ここ百之助に集められていたのではないかと思う。

畳の下の板は腐り、ともかくどうしようもなく汚い廃屋だったが、どこか懐かしい昭和のニオイが満ちていた。

三方が山に囲まれ、渓沿いの小道が屈曲して3キロ下のバス道路に繫がっている。母屋の西40メートルに渓流が流れ、鳥、風、ときどきはるか上空を飛んでいく飛行機の音しかしない。携帯の電波はもちろん届かない。

本当のことを白状すると、最初から明確に、できるだけお金を使わずに自給自足する生活をイメージしていたわけではなかった。なんとなく田舎の古民家ならば、水や燃料などの公共料金を支払わずに、暮らしが成り立つのではないかと考えていた程度だった。

だが、百之助で、畳の上に散らばったゴミを寄せ、できあがったスペースに寝転がって、釘をまったく使わない伝統木造建築のすすけた天井を見ているうちに、自分が漠然と考えていたことが、次第に頭の中で輪郭をもっていくのがわかった。

家を建てるのも生活するのもすべて現地調達

百之助の母屋を造っている材料(木材や茅や土)は、どこかで購入して、持ってきたものではない。そもそもこの家は、車が世の中に普及する前に建てられており、建材をよそから運び込むことはできなかった。

木こりが、周辺の山から丸太を切り出し、皮を剝ぎ、大工が(刃物を背負って麓の村から登ってきて)チョウナ(斧の一種で、削る作業に使う)でおおざっぱに製材し(梁にも柱にも削った跡が残っている)、曲がったり歪んだりした柱と梁にホゾを切って組み上げたのだ。土壁や土間の土ももちろん現地調達。屋根の茅は集落のどこかにあった茅場から刈ってきたもののはずだ。

すべて現地調達するしかなく、建てた後も、身の回りから食料や燃料を調達し、生活するしかなかった。だからこそ百之助は、そうやって生活できるように設計されていた。沢から水を引いて、水船(水を受けて溜めておく水槽)で受け、家の中の囲炉裏やカマドで火を燃やせるようになっているのだ。


百之助の間取り(出所:『お金に頼らず生きたい君へ』(河出書房新社))

なぜ、自分が強く古民家に惹きつけられるのかが、このときはっきりとわかった。まだ現代文明が一般に浸透していなかった時代に建てられた家は、自給自足で生きることを前提に造られている。そんな古民家こそ、お金にも文明にも頼らずに生きるための最高の住処になる。古民家こそ、自分の力で生きるための最強の施設、最強のパートナーなのだ。

家屋とは本来、代謝循環するという意味で生き物と同じだ。屋根の茅は10年ほどで葺替え、障子は毎年貼りなおし、土壁は傷んだところを塗りなおし、土間も日々水をまいて踏み固める。それら家をなす材料は周辺の山から調達される。

だが、百之助に最後に住んだ老人は、材を山から調達し、修繕するには歳を取り過ぎていた。崩れた壁には新聞紙が貼られ、その上から、3ミリ厚の合板で壁全体が覆われていた。壁の修繕に使われた新聞には昭和44年とある。トップ記事はアメリカ軍のベトナムからの撤退開始時期についてだった。

カマドウマが跳ねる床をきれいにする

茅葺き屋根にはトタンをかぶせてある。茅の葺き替えが難しくなった現代で、よくおこなわれる屋根の処理法である。知り合いの茅葺き職人に、もし葺き替えるとしたらいくらになるのか聞いてみると、500万円くらいと返ってきた。20万円で購入にした家の屋根の葺き替えに500万円出すことはできないので、屋根は当分トタンのままにする。古くなった茅葺き屋根は、内側から少しずつ二階に崩れ落ちているが、屋内で火を焚いて、いぶすことで、いくらか収まるらしい。


崩れ落ちてくる茅をよしずで防ぐ

玄関の戸はアルミサッシが入っていたが、ガラスが一枚完全に割れて、戸になっていない。板を立てかけて塞いであるが、隙間から鹿が出入りし、土間には糞が落ちていた。とりあえず割れていたガラス部分に合板をきっちりはめ込んだ。

1階の2部屋にざっとホウキをかけ、ぞうきんで水拭きするが、波打った畳は拭いても拭いてもぞうきんが真っ黒になってしまう。台所にはネズミのパーティのあと。掃除中もカマドウマが飛び跳ねていく。

大掃除の末、なんとか、床、屋根、壁、窓、玄関によって、外界とは仕切られた閉鎖空間ができあがった。屋内はまだゴミだらけだが、一人が寝転がるスペースはある。

出入りし始めた当初は、庭で焚き火をして炊事していたが、その後、時計型の薪ストーブを土間に設置した。

家の西側を流れる沢を120メートルほど登ったところに、かつて村で使っていた共同の水源の跡がある。水源は伏流水の湧き出しで、この村で一番良いものは水だといえるくらいきれいである。ただ、現在は湧水の場所が昔より少し下流にずれてしまい、かつて使われていたモルタルの水槽は使用することはできない。最初は、とりあえず沢の水を放置されていた梅酒用の大きな瓶に汲む、水汲み生活から始まった。

天井に竹を渡し、その竹によしずを載せるようにして、崩れ落ちてくる茅を仮に受けた。ストーブも、水も、天井の処理もなにもかも仮だが、山奥で廃屋寸前だった古民家が、少しずつ息を吹き返していくのがわかった。

テレビ4台、冷蔵庫2台、洗濯機1台、照明器具無数、ラジカセ、その他もろもろが、屋内のあちこちに転がっていた。木製のものは薪にするつもりだが、電気製品やプラスチックなどの無機物はやっかいである。動く動かないは調べず、すべて捨てることにした。100ボルトの電気を引く予定はないので、電気製品はほぼすべて使えない。

古民家で自給自足生活をしたいあなたへ

大工道具や農具、古い建具、古い家具、天然繊維の布団は残すことにした。100年前と同じ生活道具は、燃えるか土に返るものだ。昔からある古い道具と、ここ20年ほどの電気製品やプラスチックを分けていると、世界中が石油由来のガラクタだらけになっていることを実感する。


夏本番を迎えた頃、個人では処理できないものを廃品回収業者に回収を頼んだ。4トントラックに積み放題で6万円という触れ込みだったが、結局、テレビや冷蔵庫などの特殊機器は廃棄処理にお金がかかるため別料金を請求され、なんやかんやで全廃品の引き取り料金は11万円だった。

薪にならない可燃物は、廃村に転がっていたドラム缶を、庭まで転がしてきて、ツルハシで叩いて穴を開けて簡易的な焼却炉にして、少しずつ燃やすことにした。

自給自足で暮らしていた時代に建てられた家(=古民家)は、自給自足がやりやすいようにできている。沢水や井戸水を使い、薪を屋内で燃やして生活できるように設計されているからである。現代的な家屋では、カマドで煮炊きしたり、薪でお風呂を沸かしたりするのは難しい。自力で生活しながら快適に生きるには古民家を現代風にリフォームすることなく、昔のまま使うのがよい。

(服部 文祥 : 登山家、作家)