森田直樹/アフロスポーツ

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サッカー元日本代表で横浜FCの中村俊輔が10日、引退記者会見に応じ、26年間のプロ生活や現在の心境などを語った。

中村俊輔本日はお忙しい中、この記者会見に足を運んでいただき誠にありがとうございます。明るく楽しい時間にしたいと思うので、よろしくお願いします。

【質疑応答】

―引退試合を終えて、改めて心境の変化というのは何かありましたか

そこまではないですね。ワールドカップがあるということでリーグは早く終わりましたけど、チームとしては1ヶ月ぐらい練習があるんで、その練習も参加させてもらって、この間も練習試合したりして、それで徐々に引退の気持ちになっていくと思います。仲間から「あの人結局来年もやるんじゃねえの」みたいな雰囲気になってますけど、もうちょっとだけ練習させてもらえればと。

―引退というのは、具体的にいつ決断されたのか

30歳後半ぐらいからは、もういつでもできるようにっていうか、悔いのないようにっていうかね。だから単年契約をどこのチームともさせてもらってましたし、そういう気持ちでやってたんで。ただ、今シーズンなってちょっと足首の状態が良くなくなって、そこからですかね。

―最初に相談された方、報告された方というのはどなたなんでしょうか

相談したのはやっぱり家族で、妻ですね。

―ここまで振り返って改めてどんなサッカー人生だったのか。そして、何が1番の原動力となっていたのでしょうか

原動力は単純に自分の中から出てくる情熱というか、サッカーが好きなので上手くなりたいっていう、それに尽きると思いますね。それで、上にレベルが上がるにつれて似たような選手が集まってくるんですよね。40歳を過ぎてまさかカズさんと一緒にやれると思わなかったですし、自分よりサッカーが好きというか、情熱的な選手と横浜FCで会えたのは自分の中で財産ですし、やっぱり日本代表のためにやってたんで、そういう仲間たちに囲まれたのは大きかったですね。

―フリーキックへのこだわり・かけてきた思いを教えていただけますか。

それだけって言われるのが嫌だったので、意識したのはプロ入ってからですね。 それまではゲームを支配する力とか、ドリブルやパスとちょっとしたおまけみたいな感覚でやってただけなんですけど、気づくとフリーキックが残ったっていうのは自分でもちょっと不思議な感じですけど、やってて良かったなっていう感じです。

PKと同じ感覚で決めるんだっていう意識はありますね。蹴ったら必ず入るという状況をチームメイトにも見せて信頼してもらう。それはもしかしたらこだわりかもしれないですね。

―ワールドカップは2度経験されていますが、その経験はご自身のキャリアにおいてどのような影響があったと感じていますか

日本の代表としてワールドカップに出るっていうのは目標でしたし、誇りですね。両大会とも結果出せずに終わってしまいましたけど、ああいう自分の力のなさを築く場所があったので、また次にへの向上意欲が持てるっていうか、目標がまた立て直せてっていうのがもしかしたら自分のサッカー人生の繰り返しで、良いこともあれば悪いこともあるっていうか、 その度にちょっとずつ上に上がってたのかなっていうのはありますね。

―その舞台に後輩たちがこれから向かって戦いますが、中村さんから何かエールをお願いできますか

ちょっとおこがましいですけどね、本番までに大きな怪我はしないで頑張ってほしいっていうのと、僕らの前の先輩たちがワールドカップでまた行けなかったり、カズさんの時のドーハだったり、そういうの見て次世代の人たちのために、日本のために頑張ってもらえればなと思います。

―これまで多くの試合に出場されてきて、1つに絞るのは難しいかもしれないんですけど、ご自身の中で1番印象に残っている試合ありますか

松田選手(松田直樹)が亡くなられて、次の試合がアウェイのレイソル戦だったんですけど、 全くボールも足も地についてない感じでやって。ああいう悲しい試合をしたのは過去にその1試合しかないですね。

―その経験というのは、その後どのように自分に影響したと感じていますか

松さんだったら、今何考えてるかなとか、こういう状況でどうしてるかなとか、そういう風には考えるようになりましたね。僕を変えようとしてくれた人なんで残念だったんですけど、次に進まなきゃいけないんで、そういう思いでやってましたね。

―引退後は指導者を志すと常々おっしゃっていると思いますが、現時点ではどのようなビジョンを描いているのでしょうか

常々は言ってないと思うんですけど(笑)聞かれたから多分言ってるだけなんですけどね。ストラカン監督もそうですけど、自分が小学生から教わった先生だったり、監督さんだったり、指導者の方々 が自分にしてくれたこととか、支えてくれたこと、そういうのを自分が指導者としてやることで、少しでも恩返しとなるかなっていう風に考えてますね。

―選手としてのキャリアを振り返って、最も胸を張れるようなこと、誇れることはどんなところでしょうか

高校のときにサッカーノートを書くようになって、中期長期って目標書いてたんですけど、どんどんどんどんその目標を超えていって、代表で10番つけてワールドカップ出場というような目標に向かって単純に努力できたことじゃないかと思いますね。

―現役の最後の試合を終えた後も、練習参加であったり練習試合をされてるのはどういう狙いや思いがあったのでしょうか

あの人スパイク脱がねえなみたいな雰囲気になってましたけど、練習あるんだったらやっぱやりたいし 、1月1日までかな、横浜FCと選手としては契約してるんで。この時期は次の来期に向けてだったり、休みすぎても良くないんでっていう意向で練習があると思うんで、そんなみんなガツガツはやってないんですけど、楽しく最後みんなとボール蹴れたらなと思ったので。

―今抱いてる目標はありますか?

今はまだないですね。こうなりたいっていうよりも、こうはなりたくないなっていう方が多いですかね。今のところそういうのは自分の経験上でしかないんで、これからは逆に皆さんの経験を自分に吸収して作り上げていくものだと思うので、 柔軟にやっていきたいと思います。

―セルティックにいた当時は「自分は実験台だ」というようなことをよくおっしゃられていましたが、その実験結果として何を残せたと感じていますか?

俺はこういうプレイヤーだっていうだけじゃなくて、こういうことしたらこうなのかなとか、あえて悪い方を通ったり、結果として自分のいい結果が出なくても、これからの選手だったりチームメイトだったり、これからの指導者としての引き出しだったり、財産になるかもしれないことがいっぱいあるんで、それは悔いはないっていうか良かったなって思いますね。

結果はこれから伝えていければなっていうのはいっぱいありますね。代表の時に長友選手とかも「海外ってどうですか」とかすごい聞いてくるんですよ。そういう鈍欲な選手とかとはいっぱい話しましたけど、そうじゃない選手にもこれから話せる時間があるんで、そうしていければなと思いますね。

―現時点で理想とする監督像があれば教えてください

選手の時はありましたけど、それもあんまり作らない方がいいのかなと。なんか、自分の感覚とか物差しでやると逆に伝わらなかったり、いいことがないかもしれないんじゃないかなっていう、そういう感じでもいますね。演じなきゃいけない時もあるかもしれないし、B級ライセンス取る時も自分は答えがわかってるから教えすぎだって言われてなるほどなって思いましたし、そこを促して自分で気づかせるのも大事だと思いますし、まだまだ本当にいろんなこと勉強しなきゃいけないんで、(監督像は)今のところないですね、 作らないようにしてます。

―ファンタジスタというところで、注目している・期待している日本人選手がいれば教えていただけますか

小野伸二ですね。

―そこは変わらない(笑)

変わらないですね。今の時代という言い方はあんまり好きじゃないですけど、そういう中央の部分はプレッシャーが360度来るポジションなんですけど、そこのポジションにすごい選手が出てきて、それが必要になる時が自分はあると思うし、そういう人を逆に潰さないようにしていきたいなっていう気持ちはありますね。伸二はまだやるので、すごい期待してます。

―ジュビロ時代で1番印象に残っているシーンは、どんなシーンでしょうか

アントラーズ戦のアウェイでゴール決めた後に名波さんのところに行ってみんなで抱き合った時ですね。名波さんってそういうみんなからの求心力があるし、兄貴的存在でサッカーよく知ってますしね。あの瞬間は新しい自分が出たというか嬉しかったです。

―あれはゴールもすごかったですよね

ゴールすごかったっすよ。クリアボールだったんですけど、松浦はずっと俺のパスだ俺のバスだって言ってるんですけど、 そこのこだわりはちょっとよくわかんないです。でも、まぁ、ショートバウンドで決めたのは曽ヶ端選手相手には良かったです。

―サッカー文化の根づく静岡での2年半、思い出はありますか

感謝につきますね。自分は2時間半から3時間かけて東名走って行ってましたし、近くの食堂の方々とも仲良くなりましたし、いい思い出ですね。ファンの方もそうですし、地元の方もいい方が多いし、スタッフは鈴木秀人さんや高校の先輩の小林稔さんがいる素晴らしい環境でやれたので 本当ありがたかったですね。今シーズンは残念でしたけども、すぐ上がってこれると思いますし、上がってこなきゃいけないチームだと思うので、頑張ってほしいです。


―横浜の地に対する思い、地元の関係者、ファンサポーターの方に対してどんな思いを抱いていますか?

僕は深園っていうクラブチームで若林先生の元でサッカーを始めたんですけれども、小学5年生の時に横浜市の選抜に選ばれまして、 6年生主体なのに5年で選ばれてしまったんですよ。本当はいけないことなんですけど、先生が年齢関係ないって言って入れてくれて、その時の会長の堀内会長が周りの意見を聞かないで自分を入れてくれたんです。 そういうご恩がいっぱい横浜市にあります。

初めて親と行った三ツ沢公園球技場での日産vs読売。木村和司さんvsラモスさんとか、あとカズさんがいて、 あれでもう虜になって自分もここでやりたいと。三ツ沢でプレーできて三ツ沢で終われたので、本当に運がいいですし、良かったなと思いますね。

―中村さんにとって、サッカーとはどんなものだという思いがありますか?

生き甲斐ですね。全てですね。それに尽きると思います。

―リスペクトできる選手・すごいなと思った後輩はいますか?

先輩は井原正巳さんと川口能活さん。マリノスでの新人時代によくしてくれましたし、プロってこうなんだ、代表の上まで行くためにはこうなんだっていうのを毎日見れたのは本当に運が良かったと思いますね。あとはボンバー(中澤佑二選手)でしたね。

年下は長友さんですね。大学時代は太鼓持ちしてたのに急にFC東京入って、そこから急に代表で、 イタリア行ってインテルという、この年数に対する急激な成長の仕方が僕はすごい興味あったんで、よくそれについて喋ったりとかしてましたね。そこの向上意欲とか私生活でのサッカーに対する姿勢は僕も学ぶ点がたくさんあったので、彼は尊敬できますね。

―1番のターニングポイントになった移籍があったら教えてください

やっぱりイタリアに行った時とマリノスを出た時ですね。イタリアに行くときは日本で「出なきゃ」と思わせるぐらいだったんで、当時は世界最高峰だったセリエAに行くのを本当焦るぐらいだったんで、本場のサッカーに飛び込んだのは良かったと思いますよね。扉をようやく開けれたっていう サンドニで代表で0−5で負けて、ああやっぱりこのままじゃ置いてかれるっていうのを気づきましたし、やっとこの舞台でやれるっていうので光が見えたっていう感じですね。

―44歳まで現役を続けられた理由みたいなものを教えていただけますか

本当に周りの方々の支えですね。トレーナー、病院の先生、手術だったり、いろんな注射とか、足首の箇所が悪い中で試行錯誤してどうするかとか、そういう自分の知らない知識とか難しい判断とかを相談しながらっていう環境があったんで長くできたと思います。あとは、まだなんかあるな、まだなんかあるなっていう気持ちでいれたのは大きいと思いますけどね。

―現役を引退されて初めてのオフということですが、どんなオフを過ごされて、来年はどんな活動をされるのか差し支えない範囲で教えていただけますか

どんなオフ(笑)現役の時は1週間ぐらいしか休まないんですけど、変わんないかな。体動かしちゃうと思うし、 仲間とサッカーするだろうし、家族と旅行も毎年するようにしますしね。あまり変わりはないと思うんですけどね。来シーズンはまだ今のところは決まってないっていう状態ですね。もちろんサッカーに携わっていきたいなと思います。

―最後に、全国のファンサポーターの方々に向けて中村選手からメッセージをお願いします。

今まで所属してきた横浜マリノス、横浜F・マリノス、レッジーナ、セルティック、エスパニョール、ジュビロ磐田、横浜FCの関係者の方々、プレイヤー選手の方々、本当に感謝しかありません、ありがとうございました。 マスコミの方々も26年間ありがとうございました。日本のサッカー協会のおかげで日本代表で自分もいい経験をさせてもらい成長させてもらいました、本当にありがとうございました。

最後に、ファンの方々、サポーターの方々がいて自分はここまで成長できたと思っているので、本当に26年間一緒に戦ってくださりありがとうございました。やり尽くしたという気持ち、すがすがしい気持ちで終われたので、自分でもホッとしてるというか、良かったなという気持ちでいます。26年間ありがとうございました。

会見映像:https://www.youtube.com/watch?v=iSzngzwNnJs