※この記事は2021年07月12日にBLOGOSで公開されたものです

近代化が進み、村社会のような存在は姿を消しつつあるし、会社は家族同然といった価値観も今は昔。古のコミュニティーから自由になった私たちは、面倒な掟や慣習からも解き放たれたようであり、なんだか清々しい・・・とも言えなさそうなのが、現在の世の中だ。

古今東西の知識人の言を引くまでもなく、私たちは誰かと繋がらずにはいられない。昨今、ネット上のバーチャルなコミュニティーや、ZOOMをはじめとしたオンラインミーティングのようなリアルとバーチャルをないまぜにした新しい繋がりの形が姿を現し、そして人々が吸い寄せられているのがその証だろう。

会議の音声が流出 平井大臣の騒動は他人事ではない

従来のコミュニティーには、それを維持するための掟や慣習があった。しかし、先に挙げたような新しいコミュニティーは広く浸透してから間もないこともあり、法のようなルールや個々人が持つべき心構えが不十分だ。急速な変化に伴う副作用に対応できていない過渡期なのだとも言える。

ネット上にいる見ず知らずの人や、ネットを介した同僚や顔見知りとのつながり方に気を配らないと、ある日突然痛い目を見ることだってありうる。平井卓也デジタル改革担当大臣をめぐる騒動は、決して他人事ではないのだ。

東京オリンピック・パラリンピック向けアプリの事業費削減をめぐって、請負先企業に向けた平井卓也デジタル改革相による「脅しておいた方がよい」といった指示が、内閣官房IT総合戦略室の定例会議で数十人がオンライン参加している場で発せられていたことがわかった。平井氏は問題が明るみに出た11日の記者会見で、指示は戦略室幹部2人に対するものだと説明。「10年来一緒に仕事をしてきた仲間だったのでラフな表現になった」と釈明していた。
出典:朝日新聞デジタル『平井改革相の「脅して」発言は定例会議で 数十人が参加』(2021年6月14日)

もしかすると、オンライン会議が人知れず記録できてしまうことを、平井大臣は知らなかったのかもしれない。または、同じ仲間が参加する会議(コミュニティー)でも、ネットを介するだけで性質が様変わりする事実に無頓着だったのかもしれない。

どちらにせよ、平井大臣は過渡期への適応に失敗した(もちろん、発言そのものにも問題がある)。クローズドなソーシャルメディアでのやりとりが流出し問題に発展した事例、ZOOM上での痴態を晒されてしまった某芸能人、デマや誹謗中傷をネット上に書き込み裁判沙汰になったケース等々、過渡期に適応できなかった人々をめぐる事件や騒動は後を絶たない。

「ラフな表現」はコミュニティー依存のあらわれ?

先述したように、私たちはコミュニティーなしには生きていけない。だから、コミュニティーからの退場を命ぜられる振る舞いは厳禁であり、内部に存する掟(≒空気)に従って生きなければならない。外部から眺めれば、その掟が非常識に見えることもあるだろう。このことは古のコミュニティーでも同じだから、いつの時代でも特定のコミュニティーは特定の非常識で満ちていると言える。そして、政治家の身内に向けた「ラフな表現」が一向に無くならないのは、こうした事情によるものだ。

古であれば、その非常識はコミュニティーのなかに留まっていた。しかし、ネット上のコミュニティーでは、そんな非常識が容易に流出してしまい、時として炎上に発展する。コミュニティーを大切にせざるを得ないという人間の性分はそうそう変えられないので、今後も似たような騒動は続くだろう。

断言・反復・感染も、そんなリスクを増大させる一因だ。フランスの心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは著書『群集心理』のなかで、ある考えを人々に浸透(感染)させるためには、理屈抜きの断言を反復すべきだと主張した。緻密な論理はいらないどころか邪魔だというのだ。

そんな断言・反復・感染は、ツイッターをはじめとしたネット上のコミュニティーで頻繁に見られる。古では一部の人間のみが可能だった不特定多数への断言・反復は、今や容易に誰でもできるようになってしまったのだ。ツイッター等のソーシャルメディアを覗いてみれば、驚くほど偏狭な断言が反復され、甚だ常識外れな考えがさも当然かのように浸透している。

辛ければいつでも脱出を オンライン上のコミュニティーとの付き合い方

こうした特徴のある過渡期への対応策は、いくつか考えられる。

ネット上のコミュニティーから、いつでも脱出する心構えをしておくこともその一つだ。ネット上にある無数のコミュニティーのうちのたった一つに拘泥し騒動に巻き込まれては目も当てられない。古のコミュニティーとは違って出入りが容易なのだから、さっさと離れればよいのだ。

はるか昔、コミュニティーからの迫害が死を意味した時代の残滓が今もあり、本能的に離脱を拒否するのかもしれないが、ネット上のそれから抜け出したところで死ぬわけがない。苦しみつつも特定のオンラインサロンに残り続ける方もいるようだが、逃げてもペナルティーはゼロだ。

このほか、コミュニティーとは無関係のプリンシプル(内的規範、信念)を持っておくことも大切だ。コミュニティー内の偏狭な掟に従ってしまうのは、それに勝るプリンシプルがないためだ。そんなプリンシプルと冷静に離脱できる理性さえあれば、そうそうトラブルには巻き込まれないだろう。

また、あまりに基本的なことで書くのも気が引けるが、ネット上のやりとりは全て記録されているという意識も必要だ。オンライン会議をこっそり録画するなど朝飯前であり、言うなれば録音機を机の真ん中において会話をしているようなものだ。平井大臣の件は、これさえ気を付けていれば回避できた。

もっと根本的には、ネット上に居場所を求めるのをやめればよい。新型コロナ禍でステイホームを強いられた私たちは、リアルな人と人との交流に飢えている。新しいリアルなコミュニティーを探したり作ったりする動機が十分にあるのだ。自粛が明けた頃、交流に飢えた人たちが大勢いるだろうから、これほどリアルなコミュニティーを作りやすいタイミングはない。千載一遇と言える。

働き盛り世代はネットがもたらす「過渡期」をどう過ごすか

私は、1985年生まれの35歳だ。BLOGOSの読者は30代も多いと聞くので、同年代の読者が多くいらっしゃると思う。90年代、まだまだ荒削りな表現がTVなどで堂々と流されていた時代に育った我々は、当然そうしたものを自身の内面に持っている。であれば、平井大臣と同じようなことを起こしてしまう可能性だってある。

高度経済成長期と公害問題がセットで語られたように、進展するネット社会とその副作用もまた、後世の人々から一緒になって評されるだろう。そして、公害問題が一応は一段落するまで10年、20年とかかったことを考えると、ネットがもたらす過渡期は当分続きそうだ。私たちの働き盛りと過渡期は重なってしまう。

懸命に前を向いて走っていたら、いつの間にかいい年になっていた。そんな感触を持つ80年代生まれの方々は多いように思う。走るのを止める必要はないが、このリスキーな過渡期にて、足を踏み外さないための準備くらいはした方がよさそうだ。