※この記事は2021年07月02日にBLOGOSで公開されたものです

自分はいったい何者なのか?

今の自分は本当に納得できる自分自身なのか?

アイデンティティを巡るこうした自問自答の最盛期は、もちろん思春期だ。将来に向かって何をすべきかわからない時や、今の自分にふさわしい居場所が見つからない時に、青少年は「何者かになりたい」と願ったり「何者にもなれない」と悩んだりする。

では、思春期を終えた中年はアイデンティティに思い悩まなくなるのだろうか。

ある程度、そうだと言える。

職業が定まり、出世の先行きにも見当がつき、家族や住まいも定まった中年なら特にそうだろう。職業、家族、住まい、趣味や人間関係が安定すればするほど、(それらを構成要素としている)自分自身のアイデンティティは安定し、自分探しに無駄なエネルギーを費やすこともなくなる。そのぶん、後進の育成にも集中しやすくなり、家族や共同体、ひいては社会を支える主柱として活躍する人も多い。

しかし、その安定を巡って思わぬ「中年の危機」が生じることもある。この文章では、そうした中年ならではのアイデンティティの危機を紹介したうえで、その対策についても触れてみたい。

「自分の人生はこれでよかったのか?」やり直しへの未練が起こす中年の危機

アイデンティティが安定しているはずの成人が「中年の危機」を迎えるのはどんな時か。

典型的な「中年の危機」の第一のパターンは、これまでに作り上げてきた自分自身のアイデンティティやその構成要素に対する潜在的不満が、きっかけを得て表面化する場合だ。

先に述べたように、中年は職業も出世の先行きも家族もおおよそ決まっているし、そのおかげでアイデンティティも簡単には動揺しない。だが、中には自分の仕事や家族、趣味などに不満を持っている人だっている。そのうえ、中年には人生の残り時間が少ないのだ。自分の人生に悔いを残したくないと思った時、何かに挑戦できるのはこれが最後かもしれない──そのような焦りと長年にわたって燻らせ続けてきた自分自身への不満や疑問が重なった結果、中年が"清水の舞台から飛び降りる"かのような行動に打って出ることがある。

時に、そうした中年が唐突に思春期のやり直しのような行動をとることがあります。中年期も半ばになった頃に、人生の最後の輝きとばかり、今までの仕事をやめて自分がしたいことに全力を尽くす人、パートナーや家族を捨てて若い愛人のもとに向かってしまう人などがその例です。穏当な場合には、脱サラの成功者という形をとることもあります。
--『何者かになりたい』熊代亨(イースト・プレス)より

サラリーマン人生を続けてきたけれども、本当は飲食店を経営してみたかった。恋より打算で結婚したけれども、本当は大恋愛のうえに人生を築き上げてみたかった──そうした未練を抱えた中年が忘れていた「if」をかなえるチャンスに出会ってしまった時、冷静にスルーするのは難しい。なぜならそのようなチャンスは(思春期の頃と違って)二度と巡ってこないかもしれないからだ。その思いが焦りを生めば、判断は甘くなる。

結果、実現可能性の乏しいチャンスに飛びついてしまったり、これまで築いてきたものを失ってしまったりする中年をしばしば見かける。「何者かになりたい」とまっすぐに悩む若者に比べれば少ないものの、中年にもなれば人生の"掛け金"も大きいため、成否にかかわらず、チャレンジは周囲に大きな波紋を投げかけることになる。うまくいかなかった場合、当人が被る経済的・社会的・精神的損失は甚大だ。

心のセキュリティホールになりうる「自分の人生への不満」

このタイプの「中年の危機」を避けるにはどうすれば良いだろうか。

対策は、かなり難しい。このタイプの「中年の危機」が表面化する人は、自分の人生やアイデンティティに対する不満を解消できないまま年を取り続けてしまうなんらかの必然性を帯びていることが多く、普段は自分の持っている不満から目をそらし続け、自覚も薄い。そうした"清水の舞台から飛び降りる"起爆剤となる不満を、自覚するよりも早く他人に察知されてしまえば、たとえば若い異性や詐欺師にマニピュレートされてしまうおそれもある。このような、自覚はできないけれども他人からは透けて見える不満や欲求は、心のセキュリティーホールとして手玉に取られやすいからだ。

望ましいのは、若いうちから自分自身の人生やアイデンティティに対する望みや不満を自覚したうえで、力及ばないところがあったとしてもそうした望みや不満に対して自分なりに努力を行っておくことだ。卑見では、突然に"清水の舞台から飛び降りてしまう"中年には、自分の人生やアイデンティティに対する望みや不満に対して力を尽くせなかった人、そうした望みや不満が無いかのように生きてきた人が多く見受けられる。

そういう意味では、若いうちに「何者かになりたい」と願い、多少の遠回りや失敗があったとしても尽力しておくことは「中年の危機」から距離を取る助けとなる。望みどおりの結果に手が届かなかったとしても、力を尽くすことで身のほどを知り、気持ちの整理がつくからだ。あるいは、結果として手中におさまったアイデンティティへの納得も生まれる。

中年になってできることは、現在のアイデンティティの構成要素となっている一つ一つを大切にしていくこと、だろうか。仕事で自分の力を尽くす。家庭に貢献する。趣味を丁寧に育てていく。それらが手ごたえを伴うなら、アイデンティティの構成要素としてそれらは強くなり、"清水の舞台から飛び降りてしまう"動機は弱くなる。たとえそれらがアイデンティティの構成要素となった経緯が成り行きによるものだったとしても、だ。

家族や仕事・・・大切なものが失われた時に起きるアイデンティティの喪失

ありがちな「中年の危機」の第二のパターンは、重要なアイデンティティの構成要素が、なんらかのアクシデントで失われてしまった場合だ。

この文章のはじめに触れたように、中年のアイデンティティは大筋としては安定している。しかし、そのアイデンティティをなんらかの理由で失ってしまった時、その喪失感を埋めあわせるのは時間的猶予のある若者世代に比べて容易ではない。

よくあるパターンのひとつは、仕事や事業に時間や情熱を尽くしてきた人が、なんらかの理由で仕事や事業を続けられなくなってしまった場合です。この場合、収入や外聞といった世間的な問題に加えて、自分自身のアイデンティティの大部分を占めていたものを失ったあとでどうやってそれを再構築するかという、難しい問題に迫られます。
--『何者かになりたい』熊代亨(イースト・プレス)より

たとえば仕事や事業に情熱を尽くし、それが自分のアイデンティティの主柱になっている人がそれらを失った時、その人のアイデンティティはどうなってしまうだろうか?仕事や事業以外にもアイデンティティの構成要素を持っていた人なら心の空白は小さくて済むが、仕事や事業に専心してきた人には自分自身のアイデンティティの大半を持っていかれたような体験になってしまう。

子育ても同様である。精神医学の世界では"空の巣症候群 (empty-nest syndrome)という言葉もあるが、子育てに全身全霊を傾けていた親が子どもの自立に直面すると、それがアイデンティティの危機に、ひいてはうつ病のきっかけになってしまうことがある。

これは一番下の子どもが家を離れることになった時に、男女ともに起こりうるうつ病である。ほとんどの親は一番下の子どもの出発を受けてストレスより安堵感を覚える。しかし、親として、特に母親としての行為に代わる活動を見出すことができなかった場合、抑うつ的になりうる。これは、母としての役割がそれまでの人生を占めていた女性や、「子ども達のために」それ以外の点では不幸な結婚に踏み留まる決心をしたカップルに特に当てはまる。
--空の巣症候群 『カプラン臨床精神医学テキスト』より

仕事でも子育てでも趣味でもそうだが、時間やお金や情熱を傾けてきた対象はアイデンティティの構成要素として重要になり、人生の存在理由のようにも感じられる。それだけに、失くした時の喪失感は大きく、それがメンタルヘルスに影をおとすことにもなる。

この二つめのタイプの「中年の危機」を避けるには、アイデンティティの構成要素を一つに絞りすぎず、複数の宛先を持っておくのが望ましい。つまり、仕事人間としての自分や親としての自分以外にも、趣味人としての自分や地域社会のメンバーとしての自分など、アイデンティティの宛先を分散させるということだ。もちろん、仕事や子育てにアイデンティティの重心が大きく傾く時期があってもおかしくないし、また、あるべきだろう。しかしキャリアや子育ての見通しが立ってきたら、少しずつでもアイデンティティの宛先を分散しにかかったほうがいいだろう。だから、子育てが一段落した時点で仕事に復帰したり、キャリアの先行きが見えてきた時点で趣味や副業に力をいれたりするのは、理にかなっている。そうすることで人生の彩りが増すだけでなく、「中年の危機」の予防策にもなるからだ。

大人のアイデンティティ問題の対処法 ヒントは高齢者に?

このように、中年にもアイデンティティにまつわる課題はあり、そうした課題は年老いてもなお続いていく。年を取るにつれ、親しい人との死別に直面することも増えるし、健康を損ね、活動できる範囲が狭くなることもある。たとえば配偶者の死は人生で最も大きなストレスといわれるが、アイデンティティの面でも最大級の危機たりえる。配偶者の死に限らず、人生の後半生には、こうしたアイデンティティの構成要素の喪失がたびたび起こるから、そのたび、自分が「何者かで居続ける」ためのメンテナンスが必要になってくる。

では、そうしたメンテナンスは難しいことだろうか。

難しいといえば難しいのかもしれない。少なくとも精神医療の場では、そうしたメンテナンスがうまくいかず、アイデンティティの危機がメンタルヘルスの危機に直結してしまった人を結構見かけるからだ。

それでも、この問題で精神医療の助けを借りなければならない人は全体の一部だ。実際には、多くの中年や高齢者が自分のアイデンティティを巧みにメンテナンスし、年を取ってからも何者かで居続けている。なかにはアイデンティティの空白を「日本スゴイ」的な動画配信のシンパになることで埋めあわせてしまう人もいるが、そうしたことも含め、人は自分のアイデンティティの空白をどうにかするためには骨惜しみしないし、それで案外なんとかなっている、ともいえる。

思春期の「何者かになりたい」「何者にもなれない」に始まり、高齢に至ってもなおアイデンティティが求められる私たちの性質を、あなたは希望とみるだろうか。それとも呪縛とみるだろうか。解釈は人それぞれだろうが、私なら希望とみたいし、立派に生き続けている高齢者たちはその希望のロールモデルであるように思う。さまざまな危機や喪失を乗り越え、それでもなお矍鑠(かくしゃく)としている高齢者たちは、アイデンティティの危機を乗り越えてきた、いわばサバイバーだからだ。