お金持ちは「優先されるのが合理的」?運転マナーの悪い高級車が多いワケ - 御田寺圭
※この記事は2021年05月27日にBLOGOSで公開されたものです
「優先されるのが合理的」と彼は言った
私には、ある知人がいる。
彼はとても聡明で外交的で行動的でポジティブでよい人間だ。――自動車に乗っている時を除けばだが。
彼は事業や投資業で大きな成功を収めた、いわゆるお金持ちである。所用で移動するさい、彼の運転する車に同乗させてもらったことがあった。いわゆる外国産の高級車である。
彼の運転は上手ではあったが、しかし他方であきらかに「傲慢」でもあった。黒く輝く大きな車体で周囲を威圧しながら、他の車にはけっして道を譲らず、むしろアクセルをさらに吹かしてどんどん追い抜いていった。横断歩道に歩行者がいたとしても一時停止することは絶対になく、そのまま加速してビュンと走り去ってしまうのだ(ご存知のとおりこれは道路交通法違反である)。
「もう少しゆっくり行っても良いのではないか。歩行者がいたら止まらないといけないわけだし」と、なかば諫めるつもりで私が提案したところ、彼はこともなげにこう答えた。
「こっちの方が時間当たりの生産性が高いのだからこれでいいんだよ。」
「自分が優先されたとしても、それは個人的に得をしたいってだけじゃなくて、社会全体で見たときにだって合理的なのだから問題ないと思う。」
――と。
ようするに、車を飛ばして自分の時間をわずかでも節約して多く確保することができたら、社会に提供できるリソースを生産する時間に回すことができるから、結果として自分を優遇することが、その他大勢にとっても旨味になって還元されるという理屈のようだ。
加速して他車を追い抜きまくり、横断歩道を渡りたい歩行者がいても無視し、1回のドライブで得られる結果が数分の「儲け」であったとしても、それが数十回あればやがては1時間になる。その1時間があれば、自分はその辺の人の何倍もの生産性を出せる、というのが彼の持論だった。
優秀な人間の時間を、みんなで尊重するべきか?
彼は「自分の時間当たりの生産性」をつねに意識していた。
ヒゲの永久脱毛に定期的に通っていたのだが、清潔感や美的センスのためではない。時間効率を上げるためである。「考えてみてほしい。男性は毎朝の髭剃りで、トータルではいったいどれだけの時間が毎年失われているのか。自分がヒゲ脱毛に行くのは、なにも清潔感を演出したいからではなくて、それよりも時間を買うためだ」――と。
彼は時間効率に徹底してこだわっていた。実際のところ、彼の年収はおそらく数千万円であり、彼の生産性を時間で割れば、その辺の人とは比較にならないことは事実だろう。たしかに彼にとって時間はほかの人よりも大事な資源に思えたとしても無理はない。
しかしながら、彼の主張は「優秀な人には時間を有効活用できるための特権をどんどん与えるべきだ」と言っているようにも聞こえる――と、私が尋ねると「そもそも特権や優遇を与えることのなにが悪いのかわからない」と彼は答えた。その方が全体としては合理的なのだから、そうしないのは賢明ではないし、そうすればするほど、生産性の低い人を社会が面倒を見られる余力もうまれるはずだ、と。
個人の損得にフォーカスするから「あの人はズルい」という感情が生まれるのであって、全体の厚生にフォーカスすれば「あの人のおかげでたくさんの税収があった、ありがとう」となるはずだという。つまりは「トリクルダウン理論」に近似した社会観を彼は持っていた。
そして私は、高級車に注意を払うようになった
インターネットでは特定の車種を指して「○○はヤバい」といった俗説があたかも公然の事実かのようにまかり通っているが、彼とそうした話をしてから、私は街を移動するときには高級車にこそ注意を払うようになった。結果的に、私はこれまでより安全に街を移動できるようになった。
街中で誰もが知っているようなブランド力を持つ高級自動車メーカーの車をみると、やはり大衆車とは違い、乱暴で傲慢な運転――標識があっても一時停止をしない、速めの速度で交差点に進入して右左折する、全赤(黄色から赤に変わって交差点すべての信号が赤になっているわずかな時間)に猛スピードで突破するなど――をする確率が明らかに高かったように見える。これは私の直感にすぎないというわけではなく、実際に海外の研究では「高級車ほど交通マナーを守らない傾向がある」ことが示されている。面白い調査をする人もいたものだ。
米ネバダ大学の研究チームは、道路を横断する歩行者に対する車の反応を調べるため、ボランティアに何度も道路を横断してもらい、その様子を撮影して、ドライバーの反応を観察した。その結果、歩行者のために減速するドライバーは、車の値段が1000ドル高くなるごとに、3%ずつ減っていた。
-----
CNN.co.jp『高級車のマナーの悪さ、米欧の学術研究で実証?』(2020年2月28日)より引用
https://www.cnn.co.jp/fringe/35149954.html
高級車に乗って「傲慢」な運転をする人びとはみな彼と同じように「自分の時間は他の人を差し置いてでも優遇されるべきだ」という価値観を(意識的かどうかは別として)内面化しているのだろうか。
世間一般で「金持ち」といえば「他者を出し抜くことに良心の呵責もない、性格が悪い人間だ」というイメージとともに語られることが多い。しかしながら、そのような直感的なイメージの因果の矢を反転させるような事実、すなわち「《金持ち》という状態がその人をあとから『いやな人間』に変えてしまう」ことを示す研究※1も数多く存在する。人の行動様式が状態を規定するのではなく、人の状態が行動様式にも影響するというルートも存在し、相互作用的に「金持ち」の人となりを(本人の恣意性にかかわらず)思いやりに欠けた状態にしていくというものだ。
※1:5 Ways Money May Be Costing Your Humanity | Savvy Psychologist- Quick & Dirty Tips(英語)
平等が「不平等」に思える
ちなみに彼が嫌うのは役所と病院だ。なぜならその二か所は、彼のことを優先も優遇もしない「平等」な場所だからだ。
だれもが先着順に受付され、待合室で呼ばれるのをただじっと待っている――彼にとってはその「平等」はきわめて不合理であり、もっといえば「不平等」なもののように感じてしまう。彼は多額の税金や社会保障費を収めているという自負がある(もちろんそれは事実だろうが)。それにもかかわらず、彼とはまったく比べものにならないくらいわずかしか負担していない人と同じ扱いを受けなければならないからだ。
たしかに彼の主観視点からすればこれは「不平等」に思えるのかもしれない。「役所のあらゆる手続きはすべてオンラインですべて済ませられるようにすればよい」「病院は支払額に応じて優先的に受診可能などのシステムを取り入れるべきだろう」と述べていた。前者についてはマイナンバーの普及にともない実現されつつあるが、やはり完全ではないので、彼は苛立ちを感じている。
トリクルダウンは存在しない?
「自分のような立場の人間を優遇することは、個人的にはズルいと思われるかもしれないが、しかしそれが全体にとってもめぐり巡って利益をもたらす」というトリクルダウン理論に基づく考えを、時に横暴ともいえる自らのふるまいを正当化する根拠として彼は援用していた。
たしかに一定の筋は通った主張ではあるが、その考えが客観的にただしいかどうかはまた別の問題である。しかも現在はその妥当性に大いに疑問符がつけられつつある。
トリクルダウン理論は「富める者が富めば、貧しい者も自然に豊かになる」という経済に関する仮説で、大企業や富裕層の支援政策を実施する際の論拠として引用されてきました。しかし、先進国で実施されたトリクルダウン関連政策を分析したところ「富裕層がさらに富む効果しかない」ことがわかったと、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの研究チームが発表しました。
-----
GIGAZINE『トリクルダウンは存在せず「富裕層を支援しても貧困層は豊かにならない」という研究結果』(2021年1月9日)より引用
https://gigazine.net/news/20210109-tax-cuts-rich-no-trickle-down/
「自分は格差社会の上位に立つが、それは不当なことではなく、社会全体の豊かさや社会保障のリソースを大きく生み出している、むしろ有益なことなのだ」という信念を持つことは、金持ちにとっては、それが客観的に事実であるかどうかは関係なく都合がよいものだった。だからこそ長年にわたって「トリクルダウン理論」は、主としてネオリベラリズムやリバタリアニズムを支持するエリートたちから人気が高かった。
「自分の利益追求は社会全体にプラスである」と考えることができれば(あるいはそのような信念に客観的な根拠が与えられることで)、利己的で自己中心的な非道徳的ふるまいによって自分の心中に生じるある種の「後ろめたさ」を相殺することができたからだ。
「自分の利己的なふるまいは、悪行ではなく実は善行なのである」――という信念は、世界中の金持ちに愛されてきた。市民社会からはたいそう嫌われていた「金持ちの自己利益追求行為」が市民社会に「善」をわかりやすくフィードバックしていることを示したいからこそ、寄付や慈善事業に熱心でもあった。ただし、寄付や慈善事業のために私財を投じることでもっとも社会適応度や社会的名誉を最大限高められるものはなにか慎重に吟味することは忘れない。街で暴れまわるイエローベストを着用した貧乏人に金を与えても社会的名誉を獲得するには費用対効果は低いから敬遠するが、ノートルダム寺院やオーストラリアの森林の再建に投資することはそうではない。
車に乗れば暴君のようにふるまう彼も、一方で寄付や社会事業に積極的な支援を行う慈善家の顔を持っていた。
彼は「後ろめたさ」からそうしていたのだろうか。それとも・・・・・・。