「全部やれ。」フジ追い抜いた日テレの奮闘劇はTV界の″最終戦争″ - 松田健次

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※この記事は2018年05月31日にBLOGOSで公開されたものです

5月新刊「全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方」(文藝春秋)は、NHKに次いで民放初のテレビ開局を果たし、テレビ草創期に「光子の窓」「シャボン玉ホリデー」をはじめ多くの名番組を生み出した日本テレビが、80年代以降の長い低迷期から当時の王者フジテレビにいかにして追いつき、視聴率首位の座を奪取したかを追う80年代から90年代にかけてのテレビ史だ。

もしも「カノッサの屈辱」(フジテレビ 1990~1991)で描くとするなら、バブルの追い風を一身に集めたノリで地上波という地上を制圧した「軽チャー共和国フジテレビ」に対し、覇権奪還を唱え大胆かつ緻密な戦略で立ち向かった「旧帝国日本テレビ」による「帝国の逆襲」の物語である。

著者は戸部田誠(てれびのスキマ)。朝々晩々日々刻々、テレビを縦横にウォッチし続けるライターで、「笑福亭鶴瓶論」(新潮社)「1989年のテレビっ子」(双葉社)他、テレビ関連の書籍を重ね、現在は「週刊文春」「週刊SPA!」「水道橋博士のメルマ旬報」等でテレビ愛に充ちた執筆を奮っている。

名だたるヒット番組を生んだプロデューサーたちの記録


本書は、日本テレビが当時いかなる構造改革と世代交代を進め、ヒット番組を生み出していったか、当時の現場に携わった人々の声をつないで綴られている。

小杉善信「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!」
渡辺弘 「マジカル頭脳パワー!!」
五味一男「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!」「マジカル頭脳パワー!!」「投稿!特ホウ王国」
吉川圭三「世界まる見え!テレビ特捜部」「恋のから騒ぎ」
菅賢治 「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」「恋のから騒ぎ」
土屋敏男「進め!電波少年」

彼ら名だたる日本テレビの番組プロデューサー、ディレクターによる足跡が絡み合い、ヒット番組誕生にまつわる、奮闘、失敗、試行錯誤、そして番組誕生のクリエイティブなエピソードはどれも刺激的だ。

それまでのテレビ界には無かった編成方法や映像手法などの新しい発見にまつわる記述も、テレビ史の記録として書籍に残ることに改めて意義を感じる。

そして、彼ら最前線のクリエイター達を奮起させ、活躍させる、全社的な改革の取り組みがさらに深い興味をそそった。

<「全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方」より>

開局から約40年、様々な変遷を経てつくりあげられたタイムテーブルは、複雑な利権やしがらみ、こうでなければといった固定観念が絡み合い、決して合理的とはいえなかった。

好調時にはプラスとなる優先的な「利権」の数々は、事態が不調に陥ると様相を反転し、厄介な「しがらみ」に姿を変える。

これはテレビ業界に限らず、現職総理からヤクザやテキヤの地割りまで、たいがい長く居座るほど時代にそぐわぬ旧弊となる。

「全部やれ。」は氏家社長の強固な決意

この旧弊が蔓延していた日本テレビは1988年、開局35周年の年に、ゴールデンタイムの中軸を担える新たなクイズ番組を生みだすため「クイズプロジェクト」を発足させ、30代の優秀な人材を競わせる。また、編成機能を強化して「タイムテーブル」、いわゆる朝から夜まで全番組の編成を大胆に見直す動きを始める。

80年代末に芽吹いた変革への萌芽を、最終的に成し遂げる責任者が1992年に日本テレビ取締役社長に就任した氏家齊一郎と、編成局長の萩原敏雄(のちに2001年~2003年に社長)だ。

本書タイトル「全部やれ。」は、氏家齊一郎社長による強固な決意として、部下たちに発せられた檄である。

その改革を推し進めた力は人であり、組織における「人事」だ。

中途採用、人材登用、新旧世代交代、これら人事の動きが随所で本書の背骨を貫く。そのひとつ、人事の最終的なトップに立つ氏家齊一郎社長自身が厳しい人事に翻弄された経緯を持っていたことに触れる箇所は興味深かった。

あることをきっかけに、氏家は読売グループ最高実力者に睨まれてしまう――。

<「全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方」第7章より>

氏家は82年6月、(※読売新聞常務取締役から)日本テレビ副社長の座に‘左遷‘された。普通の感覚からすれば、テレビ局の副社長は「栄転」だ。だが、新聞こそがメディアの要であるという意識の強かった当時の読売グループの中ではそうではなかった。

実際に氏家は、当時の心境を「飛ばされたと思ったもの。事実、飛ばされたんだけどね(笑い)」と語っている。だが、務臺(※むたい/務臺光雄/当時、読売新聞社会長。読売グループ最高実力者)の氏家への冷遇はこれだけでは終わらなかった。わずか3年後の85年、視聴率低迷の責任を取らされる形で副社長の座まで追われ、氏家は日テレを‘追放‘されてしまうのだ。氏家が再び日本テレビに復帰を果たすのは、務臺の死を待たなければならなかった。

(中略)

91年4月、務臺が94歳で亡くなると、同年5月、渡邉恒雄(※ナベツネ/渡邉と氏家は旧制高校時代からの盟友という仲)が読売新聞社長に就任する。その渡邉の意向もあり、同年12月、氏家は常勤顧問として日本テレビに復帰。翌92年6月に副社長に返り咲くと、同年11月17日、社長に就任した。

(※)は松田による注釈

人事という生殺与奪の重みを身をもって知る氏家。その氏家が指揮を振るう人事に、読売グループ内の覇権争いとは別の、テレビ局経営者としての重みが伝わってきた。

人事は複雑なパズルだ。上から下へ、山を伝う水の流れが木々の配置で幾筋も変わり、時に澄んだ清流をつくることも、よどんだ溜まりをつくることもある。人の配置で良くも悪くも組織は変わる。部署と部署、上司と部下、人と人の関係は一筋縄ではいかない。関係は常に変化し、時の経過で成長したり枯れ衰えたりもする。

人事によってどんな結果が出るかは容易にはわからない。それでもなお、組織の行方を大きく左右するのは「人事」だ。

著者は本書冒頭で、「今回焦点を当てたかったのが、テレビそのものではなく、それを裏で支えている人たちだった」と述べている。その意図はテレビに人生をそそぐ「テレビ屋」たちの群像となり描き出される。彼らは様々な人事によって、それぞれの職能を発揮していく。

80年代から90年代の日本テレビを通して描かれる組織の中の人の物語。本書を読み終え、当時の現場を内外に知る(本書には登場しない)様々な人の感想も多く聞いてみたくなった。

ネットやスマホが台頭…テレビ局の戦いは続く


そして…

本書はテレビ史おいて、テレビ局が純然とテレビ局と戦っていた時代のファイナルエピソードに該当するのだろうと位置付けた。1994年の「日本テレビ VS.フジテレビ」という興亡を経て、翌年11月23日にマイクロソフトが「Windows 95」日本版を発売。圧倒的な影響力を誇る放送メディアの足元で通信メディアへの扉が開いた。

「光子の窓」(日本テレビ 1958年)からウィンドウズという「ネットの窓」(1995年)へ。

ご存知の通り、通信メディアはそれから急速な成長を右肩上がりに遂げていく。電通が今年2月に発表した「2017年日本の広告費」を見ると、「テレビメディア広告費」が前年比0.9%減の1兆9478億円、「インターネット広告費」は前年比15.2%増の1兆5094億円。それが現在のニッポンだ。

テレビ局の戦いは続いている。だが、テレビがテレビ以外(ネット、スマホ、ゲーム…)のライバルと戦う時代の「勝ち方」を誰も(かつて勝利を味わった英雄たちであっても)知らない。さらに言えば「負け方」も知らない。

様変わりし続けるメディア環境、景気低迷による失われた〇〇年、人口減少によって縮小を余儀なくされる未来。放送局からは人が減り、予算が減り、あらゆる数字が減り、祭りの記憶は過去のものという諦観が長い時間をかけて沈着していくのを片隅で目にもしてきた。

それでもなお、テレビは視聴率を、ラジオは聴取率を、新聞は発行部数を、出版は販売部数を、CDはイニシャル(発売枚数もしくはダウンロード数)を、右肩下がりに抗いながら追い求める。

著者・戸部田誠(てれびのスキマ)は今も日々刻々とテレビウォッチを続けている。その視線で現代を生きる「テレビ屋」という人々の物語は、果たしてどのように綴られるのだろう。(気が急いてしまいすみません。)