<カワイイとバカがテレビの多様性を奪う>テレビを席巻する「カワイイ」と「おバカ」を憂う。 - 吉川圭三
※この記事は2015年02月06日にBLOGOSで公開されたものです
吉川圭三[ドワンゴ 会長室・エグゼクティブ・プロデューサー]
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先日、テリー伊藤さんの「テレビ馬鹿一代」という本を読んだ。
正直、伊藤さんの本は駄作もあるし傑作のあるが、この本は本来、天才的なバラエティ演出家であった伊藤さんが、毎日新聞の連載から推敲に推敲を重ねて、いままで殆どあえて避けて触れていなかった「テレビというもの」について徹底的に考え抜かれた本質を突いた素晴らしい本だ。文章は解りやすいが、テレビのドラマ担当者からバラエティ担当者、スポーツ担当者まで全てのテレビ屋さんに読んでほしい本である。
その中にこんな文章がある。
「日本のテレビは全てをカワイイにされてしまった。」
・・・動物&ペット、AKB等のアイドル、お笑い芸人、ゆるキャラ、スポーツ選手他カワイイ存在は人気を得るが、そうでない存在カワイくない存在はほとんど人気が出ない。むしろ下手するとバッシングにあう可能性もある。多少の欠点があってもカワイイ存在は人気獲得の保険になる。日本においてカワイイは「絶対善」で、カワイクないは「絶対悪」である。・・・テレビはこういう解釈傾向を日本人に与えてしまった。政治家・小沢一郎氏や落合博満元監督などのカワイくないコワい存在はいくら能力が優れていても、全く人気が出ない。・・・という内容だ。
確かに日本には「カワイイ」が充満している。フルーツが沢山乗った美味しそうなケーキも「カワイイ」だし、スマホの凝ったケースも「カワイイ」だし、中年男性俳優が「おしゃれカンケイ」に登場したときも「カワイイ」と言われ迎えられることもある。
そういえば、NHKで「東京カワイイTV」という番組もあった。アクセサリーや雑貨店等を紹介する番組だった。深夜番組だったが「この時間になんでNHKがこんなのやってるの?」と疑問に思ったものだ。「カワイイ」イコール「クール・ジャパン」などと思っているの?などと邪推したものだ。
美意識等と言うものは時代で変わるのはある程度分かっているが、この状況は「カワイイ」を強制するファッショだと思ったこともある。「まあそれだけ日本は平和という事なのだ。」と言われると、返す言葉もないが。
そして、もうひとつ「おバカ」ブームである。あのフジテレビの島田紳助司会のヒット番組「クイズ・ヘキサゴン」から生まれた現象である。確かあの当時、深夜に始まったあの番組はゴールデンタイムに移り、当初混迷していた。しかし、天才・紳助が思考錯誤の上、スタジオで「おバカ」な回答を繰り返すタレントやアイドルに強烈なツッコミを入れ始める。
スタジオは爆笑の渦。番組は視聴率をどんどん上げる。ここで生まれた「おバカ」というキャラクター(中にはおバカを演じている人もいたが)が他局の番組でも多数重用され日本のバラエティは「おバカキャラクター」無しには成り立たなくなって来た。そして「おバカ」は今現在もテレビ番組に生息し続ける。毎日のテレビをじっくり見ていればその存在が、しっかり今も生きている事を確認することが出来る。
しかし、なぜ「おバカ」はこの様にテレビ界を席巻するようになったのか?
考えてみれば、落語世界の与太郎の存在から「おバカ」があったのだからその歴史は江戸時代までさかのぼる事が出来るかも知れない。しかし、「おバカ」を国民的人気者にしたのは漫画家の赤塚不二夫さんだったかもしれない。「天才バカボン」ではバカボンの父が「おバカ」だった。色んな厄介事を起こすが、予想不可能なその言動に我々は釘づけにされた。
あるいは、落語家の先代・林家三平さん。あるいは明石家さんまさんの元運転手・ジミー大西さんのボケ芸。あまりの見事なボケぶりにあの萩本欽一さんでさえ、さんまさんに「ジミーちゃん、あれ天然?」と聞いた程である。あるいはアホの坂田という存在も見つかるが、ジミーちゃんはリアルな「おバカ」と思わせる本物っぽさがあった。
そして「ヘキサゴン」は「おバカ」をテレビ史上ありえないほどの大量生産した。ここで「おバカ」についての考察を少々するが、視聴者は「おバカ」を見て「気持ちが楽になる」のだと思う。寒い冬に暖かい露天風呂に入ったような「ホッとする」あの感じ、「ああ、バカでも生きてていいんだ。」という安堵。学校や会社では「利口であること。頭が良いこと。」が必須だが、「バカでもいいんだよ。生きてていいんだよ。」と言われている様な感覚でテレビを見つめているのかもしれない。
そして、このような番組を見て「勉強も努力も勤勉さも知識も必要がない」という視聴者が現れても不思議ではない。その位のインパクトがあった頭脳明晰・強制勉強ストレスにさらされていた人達を解放したのかも知れない。一方、私の個人的体験だが知人たちにちょっと難解・知的な話を私がすると、「あ~吉川さん、インテリ~。」等と指を差されたことが近年、何度もある。これはある種の「おバカ」ファッショなのだろうか?
ここで筆者は思う。
このカワイイとバカのパワーはかくも凄まじいのだが、「考えなくてもいい」、「あるいは迷わなくてもいい」とする番組が余りに溢れすぎると、テレビの多様性が失われると思うのだ。柔らかい物を食べてもいいが、時には堅い物も食べないと、舌にに苦い物も食べないと、思うのだ。
難解な事に取り組むとき、人間の脳は信じられない動きをする。また、知的な表現を避けていると表現の幅が狭まる事もある。まあ今更その難解さ、複雑さ、絶妙さ、繊細さ、知的さを今のテレビに求めるな、と言う声も聞こえるが、ステレオタイプ化するテレビのなかで、カワイイも醜いも、おバカもお利口も共存して多様性を持てばさらにテレビの幅は広がるし、ビジネスにはそういう側面も必要だと思う。
「ニコ動」の宣伝になるが、先日その著作「21世紀の資本」で知られるフランスのトマ・ピケティのインタビューをネットに乗せた。格差社会の歴史的変遷を説いた一冊5940円もする地味な「みすず書房」の難解なベストセラーである。放送後、少なからぬ反響があった。普段「ゲーム実況」等をやっている動画サイトでこんな試みもしている。
会長・川上量生は「ネットは多様性こそ命」と思っているのかも知れない。もちろんネットとテレビのメディアとしての違いがあるのは間違いないが、「ピケティ」をやるというのは早かったし、絶妙なタイミングだった。
以上、「カワイイ」と「おバカ」に我が愛するテレビが席巻される前に一言申し上げる次第である。