「自閉症」の息子と7年…療育の帰り道、母親が気付いたわが子の“成長”
4月2日は、「世界自閉症啓発デー」です。この日は、自閉症を理解してもらう日として国連が定めたもので、世界各国でさまざまな取り組みが行われます。日本でも近年、「自閉症」という言葉をよく聞くようになりましたが、その障害がどのようなものであるか聞かれると、言葉に詰まる人は多いのではないでしょうか。
知的障害を伴う自閉症の子どもを7年育てている筆者でも、正直、自閉症を知らない人にうまく説明するのが難しく、また誤解が多い障害だと感じます。その一方で、少しずつではありますが、息子の姿を通して、分かってきたことがあります。息子の“成長”に気付いた日のことも含めて、お話しします。
「集中しやすい」「飽きっぽい」など、特徴はさまざま
自閉症は、発達障害の一つです。発達障害は、いくつかの発達に関わる障害の総称で、その中の一つである「自閉症スペクトラム(ASD)」に含まれるものですが、自閉症は文部科学省のホームページによると、次のように定義されています。
「自閉症とは(1)他者との社会的関係の形成の困難さ(2)言葉の発達の遅れ(3)興味や関心が狭く特定のものにこだわることを特徴とする発達の障害です。その特徴は、3歳くらいまでに現れることが多いですが、成人期に症状が顕在化することもあります。中枢神経系に何らかの機能不全があると推定されています」
自閉症は、文科省の定義にもあるように、社会性や言葉の発達の遅れ、こだわりの強さなどの特徴が目立つ障害です。具体的な特徴の例はたくさんありますが、その全てが自閉症の人全員に共通するわけではありません。
例えば、あまり人と関わりたがらない人もいれば、積極的過ぎるほどに人と関わりたがる人もいますし、何かに集中すると他が見えなくなるほど集中力が高い人もいれば、飽きっぽい人もいます。
また、極端な偏食で、決まった物ばかり食べる人もいれば、何でも食べる人もいます。なかなか眠れない人もいれば、問題なくよく眠る人もいますし、言葉を話す人もいれば、話さない人もいます。知的発達の遅れがある人もいれば、ない人もいます。
それら全てを連続的に捉えた概念として、「スペクトラム(連続体)」という言葉を使っているのです。
さらに、自閉症は他の発達障害と併発することも多く、知的障害や注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害などと併せて持っている人も多いと思います。そうなると、他の障害の特性とも合わさって、余計に症状に幅が出てきてしまいます。
実際、筆者の息子も自閉症ですが、息子と同じ自閉症のお子さんと会っても、同じどころかむしろ正反対だと感じることも多いです。例えば、息子が幼稚園に通っていたとき、息子と同じ自閉症の男の子がいました。2人は障害名が同じですが、特性も必要なフォローも、まったく違う子どもだったのです。
息子は動きが少なく、砂場で砂を触ったり、粘土で遊んだりするのが好きな子どもでした。高い場所が苦手で恐怖心が強く、遊具にはほとんど近づきません。食べることは好きで、何でも食べられましたが、逆に何でも食べるがゆえに、砂や石、粘土など、何でも口に入れて誤飲してしまう危険がありました。
もう1人の自閉症のお子さんは、園内や園庭を活発に動き回っている姿をよく見かけました。そして、遊具の高い所まで1人で登るなど、息子には到底まねできないような高い運動能力を持つお子さんでした。食事に対する意欲が少なく、特定の食べ物しか食べられないと聞きましたが、逆に息子のように何でも口に入れる危険は少なかったかと思います。
このような例を見ても、自閉症は端的に説明するのが非常に難しく、人によっては何とも捉えどころがなく、理解しにくいと感じてしまうかもしれません。
「自分」と「他人」の概念が曖昧
さまざまな特徴を持つ自閉症の人たちを、ひとくくりにして理解するのは難しいことです。それでも、自閉症の息子を赤ちゃんのときからずっと一番近くで見守ってきた筆者が、一番しっくりきた自閉症の捉え方があります。
それは、自閉症とは「自分」「他人」の捉え方が独特な障害だという考え方でした。
自閉症の子どもを育てていると、息子以外の自閉症の人と接する機会も自然と増えていきます。その中で、相手に近づき過ぎてしまったり、逆に絡み方が分からず距離を取り過ぎてしまったりと、「他人との適切な距離感がつかみにくい」という話をよく聞きました。
これは、「自分」「他人」という概念の捉え方が独特なことから、その境界線が曖昧になってしまい、起きてしまいがちなことなのかもしれません。
例えば、自閉症特有の行動と言われる「クレーン現象」。これは、自分の手を使わず、人の手を動かして物を取ったり、動かしたりさせようとする行動です。とても不思議な行動ですが、本人にとって人の手は、「他人の体の一部」というより「何かを動かす道具」にすぎないのかもしれません。
筆者の息子は、昔からクレーン現象が非常に多い子どもでした。2、3歳の頃などは特に顕著で、公園を歩いていて何か気になる物があると、いつも自分では直接手を出さず、筆者の手を無理やり使って拾わせようとしていたのです。息子が集中して筆者の手を動かし、欲しい物を取ろうとする姿は、まさにクレーンゲームのようだと思いました。
「自分で取った方が早い」と思うようなすぐ近くにある物でも、かたくなに筆者の手を動かして取ろうとしていたので、息子が自閉症だと分かるまではその行動が不思議でなりませんでした。これも、「他人の体の一部」という捉え方が私たちと違うのかなと思うと、ある程度納得できます。
また、他人との距離感についても印象的な出来事がありました。息子はもともと、同世代の他の子どもになかなか近づけませんでした。しかし、親子で児童発達支援センターなどに通って療育を受けさせていたとき、いつも同じクラスで過ごしているけれど、特別親密に接しているわけではないと思っていた男の子に、突然抱き付いたことがあったのです。筆者も相手の男の子も、息子の突然の行動に驚きました。
一瞬の沈黙の後、息子は突然われに返ったように「はっ」とした表情をすると、今度はぱっと手を離して走って部屋の隅まで逃げました。
発語がない息子の真意は分かりませんが、もしかしたら以前からその子に近づきたかったのかもしれません。私たちからすれば、突然他人に抱き付こうなんて思いませんし、抱き付く前にまずは仲良くなるなど、段階を踏むと思います。しかし、彼の中の他人の捉え方が私たちとは違うのならば、そういう発想もあり得たのかもしれません。
息子が同年代の子どもに抱き付いたのはそのときだけだったので、普段の息子の様子と比べると非常にギャップが大きく、筆者の中でとても考えさせられる出来事でした。
他人に無関心だった息子に変化が
これは、まだ息子が自閉症の診断を受ける前の話ですが、かかりつけの小児科で、「この子は他人に対する興味が極端に薄い」と言われたことがありました。当時はそれほど発達の遅れも自閉症の特徴も目立っておらず、筆者にはその意味がよく分かりませんでしたが、その後何となく分かってきたような気がします。
恐らくなのですが、そもそも彼の世界には「自分」しかいなくて、「他人」は演劇に例えると、舞台の背景にある木や草、石と同じような存在なのかもしれないと思ったのです。
息子は親である筆者に対しても、他の子どもほど強い執着や特別感を持っていないように感じました。だからこそ、息子は赤ちゃんのときも、親の姿が見えなくなったからといって泣くこともなく、それほど頻繁に抱っこも求めない、「手がかからない赤ちゃん」でした。
その傾向は、息子が今より幼いときはもっと顕著だった気がしますが、療育を進め、幼稚園などで集団活動をしていくことで、ずいぶん変化していったと思います。2歳ごろの息子は、商業施設のキッズスペースや児童館などに行っても、他の子どもに興味を示すことはあまりありませんでした。しかし、療育や幼稚園での生活の中で、徐々に他人への興味が育ってきたように思います。
療育の帰り道、いつも脇目も振らずにまっすぐ帰る息子が、何度も後ろを振り返りながら歩いていることがありました。不思議に思って筆者も振り返ると、かなり遠くに、息子と同じ療育に通う子が歩いているのが見えました。そのときは、ようやく息子の世界に「自分」以外の「他人」が登場するようになったのだと知って、とてもうれしくなったのを覚えています。
息子のような自閉症のお子さんには、当事者の親はもちろんですが、その周りの人も、どう接したらいいか戸惑うことが多いかもしれません。そんなとき、この記事の内容を思い出していただけたら、とてもうれしく思います。
そして、自閉症という大きなくくりでは説明しきれない、その人それぞれの姿を見つめていただけたらいいなと思います。