戦力外後に2球団から“オファー”も辞退 元オリ右腕が被災地にUターンしたワケ
赤間謙さんは15年ドラ6でオリ入団、現在は故郷のスポーツ協会に勤務する
オリックスとDeNAでプレーし、2020年シーズン限りで現役引退した赤間謙さんは出身地である福島県双葉郡楢葉町のスポーツ協会に勤めている。球団に残る道を悩んだ末に断り、Uターンを決めたのは東京電力福島第一原発事故の影響を受けた故郷に「貢献したい」との思いがあったから。球場の施設管理などに従事する1年を過ごし、未来を模索している。
大きな揺れと巨大な津波……。東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故で全町民が約4年半避難した楢葉町。その総合運動場には両翼100メートル、中堅122メートルの野球場「SOSO.Rならはスタジアム」、サブグラウンド、陸上競技場、2019年4月にオープンした「ならはスカイアリーナ」の各施設がある。その広大な敷地が、楢葉町から初めてプロ野球選手になった赤間さんの現在の“職場”だ。
「(敷地内の)木を切ったり、草刈りをしたり。野球場もペンキを塗ったばかりなんですよ。今は陸上競技場のペンキを塗っています。時期になったら芝生の手入れもします。(成長を促進する)エアレーションという作業をして、芝が伸びたら刈ったり、除草剤を撒いたり。これまで当たり前のように球場を使っていましたけど、すごく大変な仕事だったんだなって。改めて、有り難みが分かりますよね」
プレーする側から支える側になり、「世界は誰かの仕事でできている。」という缶コーヒーのキャッチコピーではないが、野球場は「誰か」によって成り立っていると知った。仕事はそれだけでなく、イベントがあれば対応し、合宿を誘致することも役目だ。
投手だった赤間さんは2015年ドラフト会議でオリックスから9位指名された。社会人野球の鷺宮製作所でプレーして3年目の秋。調査書は2球団から届いていたが、指名されるとは思わず、ドラフト会議中は寮2階の自室で録画したテレビ番組を見ていた。すると、チームメートの野川拓人投手がDeNAから7位指名され、寮の3階が一気に賑わった。それから数分後、後輩が「指名されましたよ!」と駆け込んできた。
ルーキーイヤーの2016年春季キャンプ終盤、1軍に呼ばれた。第一線で活躍する投手陣の球に衝撃を受けたが、結果を残して開幕1軍入り。「がむしゃらにやった1年」は中継ぎとして24試合、35イニングを投げ、シーズンを完走した。ところが2年目、右腕は自信を持っていたチェンジアップをうまく操れなくなり、空振りが取れなくなった。50試合登板を目標にしていたが、7試合に終わった。
所属2球団からの打診を断り故郷へ、今年2月に学生野球資格を回復
3年目の2018年夏、交換トレードでDeNAに移籍した。告げられた時は驚きとともに、寂しさが込み上げてきた。「好きだったんでね、オリックスが」。新天地での再起を誓ったが、初めて1軍登板がなかった。4年目はファームでの登板機会は多かったものの、1軍に呼ばれると結果を出せなかった。「2軍では冷静に抑えていても、1軍になると『打たれたらどうしよう』とか『点を取られてはいけない』って思っちゃうんですよね」。7試合登板で防御率5.59の成績が残った。
新型コロナウイルスの感染拡大がはじまった5年目の2020年は開幕が遅れ、コンディション調整に苦労した。「みんな、同じなんですけどね。僕はスタートダッシュができなかった」。1軍に上がることなく、静かにユニホームを脱いだ。「自分としては年齢も置かれている立場も十分に理解して5年目を迎えました。ファームでは一番多く試合に投げて抑えるんですけど、(1軍に)上がるのは僕ではない。若い選手が上がっていく。シーズン終了が近づくにつれて、『そろそろ、そういうことなのかな』と感じていました。それでも、言われた時はやっぱりショックでしたよ。ただ、後悔のないようにやっていたので、やり切った思いがありました」。
DeNAから戦力外を告げられると同時に球団職員のオファーを受けた。オリックスからも連絡が入り、打撃投手を打診された。そんな時、楢葉町長を始め、故郷でも気に掛けてくれる人がたくさんいることを知った。故郷に戻ったとしても仕事はどうしようか。熟考している頃、町では仕事に関する話が進んでいたようで、スポーツ協会に勤務する案が浮上した。「最後の最後まで悩みましたね。すごく悩みました。悩んで、これからのことを考えた時、地元に帰るのもいいのかな、と。楢葉町に戻ってプロ野球で経験してきたことを生かし、何か貢献したいなという思いで、それだけの思いで帰ってきました」。
原発事故の影響で約4年半、生活音が消えた故郷の楢葉町。現役生活への後悔はなかったが「町にもっと恩返しを」という思いと、ユニホームを着た2球団への恩義を胸に刻んで地元に戻った。東海大山形高に進学するため、中学卒業と同時に町を離れた赤間さんにとって、15年ぶりの故郷での生活も1年が過ぎた。仕事を覚えていく中で、「思い」だけではなく町に貢献する具体的な「何か」を模索し始めた。今年2月の学生野球回復資格研修を受けたのも、その1つ。町に高校はないが甲子園を目指して球場を利用する福島県内外の高校球児の姿が刺激になった。
「常に何かできることはないかなって考えているんですけどね」。答えはまだ見つかっていない。プロ入りするまで、プロの世界に足を踏み入れてからも、苦労や困難、失敗、挫折、葛藤を経験してきた。プロ5年で通算38試合登板、投げたイニングは56回。成功したとは言い難いかもしれないが、それを目指した日々で培ったバイタリティは一生もの。その精神は、きっと巡り合うであろう“貢献”の形に続いているはずだ。(高橋昌江 / Masae Takahashi)