PCR検査で検体を採取するデモンストレーション。検体の取り方だけでなく、検体の保存期間や保存状態も問題になることがわかってきた。ラボでの検査も複雑だ(写真:時事通信フォト)

PCR検査は病人の診療において、診断を補助するためのツールとして使われてきた。新型コロナウイルスに感染している無症状者を見つけ出し隔離をするというのは本来の使われ方ではない。しかも、経済を回すために導入すべきだという極端な主張が、一部の医学者、経済学者、マスコミで展開され、検査結果が100%保障されるものではないにもかかわらず、PCR検査の拡大が声高に叫ばれている。

新型コロナのPCR検査件数は4月から5月にかけて1日平均で8000件台だったが、7月最終週からは1日平均2万1000件程度に拡大している。クラスター対策として、検査対象を症状のある人だけではなく無症状者へ広げているためだ。だが、この間の陽性者はそのうち6%に満たず、また、陽性者の9割以上が無症状か軽症だ。無症状者を収容した場合も症状を持つ患者同様、医師や看護師の手間はかかるため、医療体制には大きな負荷がかかる。

ここへきて、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会は、検査拡充を掲げつつも、医療崩壊を避けて重症者を優先的にケアするために、無症状者や軽症者の自宅療養などへの切り替えを推奨し始めた。しかし、新型コロナは、感染が広がりやすい一方、死者は8月20日までの6カ月あまりで1154人、昨年の季節性インフルエンザの2019年の死者3571名をも下回る。そうした程度の病気において、感染のゼロリスクを追求して隔離目的のために結果の100%保障されない検査を大量の無症状者に行い、結果として一般市民の活動を萎縮させることは、適切な施策といえるだろうか。

国立病院機構仙台医療センター臨床研究部ウイルスセンター長の西村秀一医師はかねて、やみくもなPCR検査を批判してきたが(参照記事『「PCR検査せよ」と叫ぶ人に知って欲しい問題』)、今、そのような検査の弊害が現実に生じていることを訴える。

リスクのない小学生を隔離し学校は休校に

――無症状者への検査拡大で最近は実際に問題が生じているそうですね。

参考になる例を1つ紹介する。新型コロナに感染した人の濃厚接触者を調査したところ、1人の無症状の小学生が陽性と判断され、その結果、学校が数日間も休校になり、学校に業者が入って消毒作業が行われた。 

ところが、その子の検査結果をよく見ると、検出されたウイルス遺伝子の量は陽性判定ぎりぎりだった。最終RNA産物1マイクロリットルあたりに換算して1コピーにも満たないというものだ。ウイルスを扱っている者なら、生きているウイルスの遺伝子数は100から1000コピーに1個であり、数コピーでは生きているウイルスは存在しない確率のほうがずっと高いことを知っている。もしも仮に存在したとしてきわめてわずかだ。検査結果が正しければその子が検査以前の数日間に周囲に感染を広げていたリスクやその後2〜3日で感染を広げるリスクは、ほぼないと考えるべきだ。 

検査として大事なのは、条件反射的な白黒判定ではなく、対象者のデータの冷静な解釈だ。まず、すべきことは、その値に再現性があるか、またその子の鼻でウイルスが増えているかどうかを、翌日再検査で確認することであって、休校にすることではなかった。なのに、その子も家族も周囲から白い目で見られ、他の子どもたちも勉強の機会を奪われた。


西村秀一(にしむら・ひでかず)/国立病院機構仙台医療センター臨床研究部ウイルスセンター長・臨床検査科長兼ウイルス疾患研究室長。1984年山形大学医学部医学科卒。医学博士。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)客員研究員、国立感染症研究所ウイルス一部主任研究官などを経て、2000年より現職。専門は呼吸器系ウイルス感染症。『史上最悪のインフルエンザ―忘れられたパンデミック』(みすず書房)、『豚インフルエンザ事件と政策決断―1976起きなかった大流行』(時事通信出版局)、『インフルエンザ感染爆発―見えざる敵=ウイルスに挑む』(金の星社)などの訳書や論文多数(写真:西村秀一氏提供)

そもそもPCR検査はウイルスの遺伝子であるRNAを増殖して見るだけのものだ。不活性のウイルスの残骸でも捕まえてしまうことがある。濃厚接触の中で感染性のないウイルスに手で触れてたまたま鼻腔をさわっただけでも陽性になりうる。

検査は機械や資材があれば誰でもできるわけではなく、きちんと評価する仕組みがないと結果を誤る。

人ひとりのPCR検査を単なる環境検査と混同してもらっては困る。1つの検査結果がその人の人生を左右することすらある。だから、細心の注意が必要であり、それぞれの結果に対して丁寧な読みが求められ、場合によっては再検査もすべきだ。人に対する検査とはそういうものだ。

今、検査を増やせというかけ声と、早く検査して早く報告しろというというプレッシャーがあり、情報の質よりスピードが優先されている。紹介したような事例が各地で起きているのではないか。

ゼロリスクを求めるあまり、問答無用で本人が学校や職場を休ませられることはもちろん、周囲を消毒し、最悪の場合、学校や職場自体が閉鎖されるという大騒ぎが広がっている。そして、それがいつものように特別発表として報道され、人々に過剰な恐怖と分断をもたらしている。

「陽性なら帝王切開」に正当性はあるのか

――症状のある人が不安だから早く検査を受けて治療を受けたいというのはわかります。ですが、無症状でしかも健康上のリスクの低い人が検査を受けて隔離されて、その人本人にメリットがあるのでしょうか。

私が最近非常に憂慮しているのは、症状がないにもかかわらず、出産前の妊婦さん全員にPCR検査の実施を求める動きが広がっていることだ。分娩時に呼吸が荒くなるため、そこから出る飛沫を医療従事者が感染リスクと捉えているからだという。

問題は、陽性であったらどうするのかということだ。十分な感染管理ができる感染症指定医療機関へ転院させるのか。その場合、本当に他人にうつすほどのウイルス量を出しているのかどうか、しっかり判断できないとたいへんなことになる。無症状の妊婦さんを検査した結果、多くの陽性者が出たらどうするのか。感染管理上、完全隔離して、出産も帝王切開すべきだという話になっていると聞いて驚いた。

――帝王切開そのものがリスクですよね。

帝王切開は妊婦さんにとって大きな不安でありリスクだ。もしかしたら本当は陽性ではないかもしれないと妊婦さんに説明して、それで帝王切開の同意がとれるのか。医療従事者にとっての安心は患者の安心ではない。薄っぺらな「安心」を語ってはいけない。

そもそも、感染が地域に大きく広がっていなければ、偽陽性の可能性が高い。逆に広がっていたら、先の小学生の例のような人にうつすリスクのない陽性が頻繁に出てくる。また一方で、検査には偽陰性のリスクもあるので、検査するしないにかかわらず、感染防止に配慮することはどの病院でも必要だ。

心ある医師ならば、向き合っているそれぞれの患者さんの人生のことも考えるものだ。ところが、PCR、PCRと言い続け、「陽性者は隔離」などという人たちは人を人とも見ていない。1つ検査するだけでオセロの駒のように白と黒に分けられると考えている。また、PCRで隔離しろと叫ぶ一般の人たちも、あたかも自分は安全地帯にいるかのように、ウイルスがくっついた人を塀の内側へ入れろと要求している。そういうところから、差別や偏見が広がっていく。

検体中のウイルスが減っていくという難しさ

――偽陽性と偽陰性の問題が広く知られるようになってきたため、検査・隔離を主張してきた人は「何度も検査すればいい」と言っています。

それこそ、検査の現場、医療の現場の逼迫につながる。現場のことを何もわかっていない。先ほどの小学生の例のような場合は、確認のために何度もやるべきだが、マス・スクリーニング目的であれば、同意できない。

検査はタダではない。1回1万数千円で自己負担するには高い。税金でやるならそれは子や孫の世代への付け回しだ。百歩譲って、もし無症状者を検査するとすれば、重症者や死者を出すリスクの高い病院や高齢者施設の担当職員に絞ってやるくらいだ。検査資源は効率的・効果的に使うべきだ。

また、最近の論文で、検体の取り方だけでなく保存の仕方、保存期間によって検体中のウイルスの遺伝子量が減ってくると報告された。ウイルスが死んでいても遺伝子は残ると考えられていたのが、人間の検体の中にはRNAを分解する酵素もあり、それが遺伝子を壊していったりする。保存状態によってはそれが急激に進む。しかも驚いたことにマイナス20℃で凍結保存しても起きるそうだ。先の小学生の例では採取してすぐに検査したことを確認しているが、数日置かれると検体として意味を失うというのだ。

――検査して陰性であってもその翌日には陽性になって感染が判明する可能性があることは言われていました。ですが、逆に本当に陽性でも検体そのものがダメになってわからなくなることがあるのですね。

検査数が短期間に何万件もあったら、毎日頑張っても翌日あるいは曜日によっては翌々日以降になる積み残しが生じてくる。検査会社への輸送に時間がかかり、またラボに数日「検査待ち」でおかれ、2〜3日は経ってしまう。つまり、適切なタイミングで適切な人が検体を採取し、新鮮なうちに検査し、結果をプロが判断するという適切な流れでクオリティコントロールができないと、何のための検査なのかわからなくなる。

低い感度、バラバラな基準で「やってるふり」

――民間での検査が増えています。また、唾液による検体の採取とか、全自動検査システムなど、検査件数を拡大する方向で採用されています。

唾液検査について言えば、先ほど話した保存によるウイルス遺伝子量の低下は、唾液検体がいちばん起こしやすい。簡単に唾液検体を集めて大量に検査するなら、よほど素早くやらねば、偽陰性の山になる。

さらに知っておいてほしいのは、検査の方法によって判断基準がまちまちだということ。これから大きな問題になる。今までは国立感染症研究所のマニュアルに従って、地方衛生研究所が反応のサイクル数やコピー数を見ている。だが、最近は反応時間を早くしたとか、人手のいらない全自動とか、事前にRNA抽出の操作が要らないというシステムも使われ始め、これから大量の検体処理のため広まることが予想される。しかし、このシステムでは白か黒かの判定しかなく、ギリギリのところの判断で偽陽性や偽陰性が起きていることに気づかない。

また、システムによっては最低検出感度が10倍、極端な場合は数十倍から100倍も鈍く、陽性陰性の線引きも異なる。コピー数が低めの検体の場合、あるシステムでは陽性、別のシステムでは陰性ということが普通に起きる。例えば100コピー以下はすべて陰性と報告されるかもしれない。そのシステムなら、先の小学生の例は陰性との判断がなされたはずだ。

感度を下げることに反対しているわけではない。たとえば100コピー以下は生きているウイルスもいないことだし「陰性」と判断する、というなら、それを確固とした基準として統一しておく必要があるということだ。

基準の問題でいえばPCRを増やせという人たちが、よく外国での件数例を挙げる。確かに中国の各都市では今、無症状者を含め何万人単位で検査しているが、これは10人分の検体を1つにまとめて1回のPCR検査をやっていると聞く。陰性なら10人が陰性となる。そうなると1人あたりの検査に使われる検体量は10分の1になり、感度を10倍落としての検査によって陰性と判断しているということになる。それでもいいというのならば、それも1つの検査哲学だ。

しかし、こうした簡便な方法をどんどん進めると、検体の劣化も含め、1人ひとりの結果を慎重に見るのではなく、単なる「やってるふり」になっていく。

――経済団体や企業は海外出張などの際に「陰性証明」を求められるという問題があり、だから検査が必要だとしています。目的がそれですから、対外的に「やってるふり」でもいいと考える可能性は大いにあると思います。検査をビジネスとして拡大したい人の声もあるでしょう。国際的に「やってるふり」が広がるのかもしれません。

そうなら、私としては、本当に何を見ているのかわからなくなる危険性がありますよ、それこそ偽陰性だった人がウイルスをまき散らすリスクはありますよ、ということはきちんと言っておかないといけない。

本当に必要な人に質の伴った検査を

――「検査して隔離が常識」などと主張するメディアが手本にしているのがアメリカです。しかし、新型コロナ対策に資金を出してきたビル・ゲイツ氏が最近、「結果が出るまでに48時間以上かかる検査を大量にしたことは無駄だった」と語りました。また、全員が「陰性証明」を取得して参加したジョージア州での合宿キャンプで感染が広がったという事例も注目されました。

PCR検査の弱点を考えれば「陰性証明」に意味がないことは明らかだ。中国での陰性は先ほど話した程度のもので、その程度でよいというのであれば、そこで検査としてのPCRの話は終わりだ。

一方、アメリカでは検査、検査と増やした結果、また検査キットなどの資源が足りなくなってきたと報告されている。このしわ寄せは日本も含めた世界に及んでくる。PCRの機材だけじゃなくて、綿棒とか遠心管とか補助機材も不足してくる。そうすると、本当に必要な人が検査を受けられなくなってしまうことが一番怖い。

――最近、無症状で宿泊施設に収容された人が、部屋が狭い、食事の量が少ないなどというので逃げ出す事態が散発しています。仕事や買い物に出たりする人もいて、自治体は問題視しています。しかし、「隔離」の強制は人権侵害です。無症状の人の隔離に妥当性はあるのでしょうか。

個々の人の陽性の「質」を見る必要がある。詳しく調べて、必要であれば再検査も行い、周囲に感染を広げるリスクがないと判断したら、念のための自宅待機だけでよいことにしたらいい。検討の結果、ウイルス量が多い人に対しては、症状が急変するかもしれず、その場合にすぐに対応できるよう宿泊施設にとどまっていたほうがよいと説明し、納得してもらえばいいのではないか。

そもそも感染の観点を離れて、それが強制収容なのか、本人の希望なのかということは大事だ。問題ない人が意に反して収容されるようなことがあってはならない。

検査の範囲を無理やり広げても、質の担保のない信頼できない検査だと思われ、しかも結果次第で長期隔離ということになれば、検査を忌避する人たちも出てくるのではないか。

――武漢のように陽性者を集中的に収容する建物をつくれという提言をする学者もいて、そのような施設も準備されています。しかし、野戦病院のようになると、かえってウイルスに感染する機会を増やして感染爆発を引き起こすおそれはないでしょうか。

収容の様式にもよる。収容者同士が集まったりしないようにされているなら、そこで感染が広がることはないが、そうでない場合は真の感染者と偽陽性感染者が同居することになる。もし真の感染者が効率よくウイルスを出していれば、収容者の中から発症者が出てくる。もし本当にやるのであれば、そうしたことを早い段階で見逃さないようにしなければならない。

ゼロリスクは机上の空論、うまく付き合うしかない

――「検査して隔離」は、致死率が高く感染が広がりにくい病気では有効と思われますが、新型コロナのように感染が広がりやすいけれど重症化リスクや死亡リスクがあまり高くないという感染症には適さないのでは?

インフルエンザのようにどこで感染したのかがわかりにくい感染症は、無症候性の感染者の隔離を行うことや、それによって流行を止めようとすることは机上の空論で、無駄かつ無理だ。今度の新型コロナもたぶん同類だ。上手に付き合っていくことを考えるしかない。

今の「恐れすぎ」は公衆衛生として必要な範囲を超えている。「恐れすぎ」が蔓延して、ゼロリスクを求める動きにつながっている。「検査して隔離」は「恐れすぎ」による思慮を欠いた発想だ。完全にゼロリスクにすることなどできない。


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ゼロリスクを追求するあまり、学校では入学式や卒業式もまともに行われず、再開しても、運動会も学芸会もない。子どもたちの思い出はどうなるのか。歌のない音楽の授業や、実験のない理科の授業、昼食の間はおしゃべり禁止だ。会話を楽しみながらの昼食も食育だろう。ボールや机のアルコール消毒など、先生たちも疲弊している。

こんなことをいつまで続けるのか。さすがにまずいと思ったのか、文部科学省も机の消毒については8月6日に見直し方針を現場に伝えたようだが、「何か」に対する忖度がらみの現場のやりすぎはまだまだある。今後、そういった呪縛のひとつひとつを解いていく対応が望まれる。