E-1選手権の取材から日付の変わった深夜、チャンピンズリーグのザルツブルク対リバプール戦をテレビで観た。日本人にとってのザルツブルクは南野拓実と奥川雅也の所属するクラブだが、韓国ではファン・ヒチャンがプレーするクラブということになる。10日深夜から11日にかけてのスポーツ専門チャンネルでは、ザルツブルク対リバプールが何度も放映されていた。

 ザルツブルクは0対2で敗れたものの、南野のプレーは勇敢だった。

 アーリング・ハーランドとファン・ヒチャンを一列後方からサポートしつつ、自身もアグレッシブにゴールへ迫っていった。ボールを受けることを怖がらず、保持することにためらいがなく、サポートが乏しければ密集へドリブルで飛び込んでいく。それでいて、エゴイスティックなところはない。

「なぜそこでボールを下げる」とか「なぜそこで仕掛けない」といった物足りなさを感じさせない南野のプレーは、とても逞しくて頼もしいものだった。チームは16強入りを逃したものの、彼自身は確実に評価を上げただろう。より高いステージからのオファーが、冬の移籍市場で届くのではないか。

 ひるがえって、E−1選手権の日本対中国戦である。

 CLをフィルターとして語るのは、そもそも比較対象として無理がある。さらに言えば、日常的にトレーニングを積めるクラブは、代表よりも練度が高い。ましてや今回の日本は、海外組のいない即席チームである。そのうえ、ごく限られたトレーニングしか詰めていないのだから、チームとしての機能性は求められない。

 森保監督はリードする展開でも、選手交代のタイミングを引っ張った。それも、急造のメンバーによる3−4−2−1のシステムのなかで、先発メンバーにできるだけプレーさせたいからだった。

 言い方を変えれば、うまくいかない部分を呑み込みながら監督は試合を見つめた、ということである。勝利を求めつつも、トレーニングの延長のような要素を含んでいた。

 問われたのは「個」の対応力だった。組織で解決できない問題を、個人でカバーできるか、である。

 2対1で中国を退けたから、個の頑張りはあったと言える。観衆が少なかったこともあって、ピッチ上での積極的なコミュニケーションの声がスタンドまで届いていた。選手たちは絶えず声を掛け合っていた。必死さが伝わってきた。

 ただ、試合のレベルは決して高くなかった。マルチェッロ・リッピが辞任したばかりの中国は、暫定監督のもとで経験の少ない選手を数多く起用していた。機能性に欠けるのは、彼らも同じだったのだ。

 日本代表の底上げを促すなら、東京五輪で表彰台を目ざすなら、一人ひとりの選手がもっと逞しくならなければならない。Jリーグ終了直後のタフなコンディションのなかでも、野心とか野望をプレーで表現する選手をE−1選手権で見つけたいのだ。