他人に共感できない、平然と嘘(うそ)をつく、良心に欠けるなどの性質を持つとされるサイコパス。玉川大学文学部の岡本裕一朗名誉教授は、「悪いイメージで語られがちだが、サイコパスの特徴は裏を返せば長所にもなる。ノーベル平和賞受賞者のマザー・テレサもサイコパスとされていた」という。サイコパスを例に、共感や良心について哲学的に考察してもらった--。

※本稿は、岡本裕一朗『哲学の世界へようこそ。--答えのない時代を生きるための思考法』(ポプラ社)の一部を再編集したものです。

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■野球応援に興味がないのはいけないことなのか?

他人に共感できることは、本当にいいことなのだろうか。この記事では、身近な事象を哲学的に考察することを通じて、これまでの常識を問い直していきたい。

たとえば、近年よく耳にするようになった「サイコパス」。

かつては、FBIの犯罪捜査などで取り上げられる残酷な連続殺人魔と見なされていたが、最近ではそのイメージもずいぶん変わってきたようで、身近な扱いにくい困った人物を「サイコパス」と呼ぶこともあるらしい。「隣のサイコパス」なんてフレーズが本のタイトルに入って話題となるくらいだ。

しかし、こうした流行には思わぬ誤解がつきまとう。たとえば、周りと同調しない人が安易に「サイコパス」と揶揄(やゆ)され、イジメの対象になったりする。そのため、あまり気のりしないことであっても、仕方なく周りと合わせなくてはならなくなる。

こんな状況を考えてみよう。

■レイナはサイコパス

レイナが通っている学校はスポーツが盛んで、とくに野球は強豪校だ。今年のチームは例年以上に強く、甲子園にも出場しうるほどの実力を持っていた。地方大会も順調に勝ち進み、決勝戦を残すのみ。そこで、レイナのクラスでは、みんなで応援に行こうと決めた。

ところが、レイナはもともと野球に興味がなく、野球部が甲子園に行っても行かなくても自分には関係ないと感じていた。そもそも、みんなでひとつのことに熱狂したり、手を取り合って歓喜したり、負けたときには涙を流したりする──そういう感情がサッパリわからなかった。

だからレイナは、クラスメイトの前でハッキリこう言った。

「私は行きたくない。無関係の他人を応援して、なんの意味があるの?」

すると、レイナはクラスの全員から非難の嵐を浴びた。

「レイナは人の心がわからないサイコパスだ!」
「きっと将来ヤバい犯罪者になるぞ!」

その反応を受けてレイナは戸惑った。私って、サイコパスなの?

サイコパスに特徴的なパーソナリティとは

君だったら、レイナの態度をどう受けとめるだろうか。

たしかに、他人の気持ちがわからないとか、共感できないというのは、「サイコパス」の特徴と言われるものだ。せっかくみんなが盛り上がっているのに水を差すような行動をとるレイナは「サイコパス」なのだろうか。それとも、クラスメイトの捉え方のほうに問題があるのだろうか。

ただ、ここではもう一歩、踏み込んだ問いを設定してみたいと思う。

そもそも、他人に共感する必要はあるのだろうか?

共感できることは、いいことなのだろうか?

一般的に「共感できること」は良いことだとされているが、あえて考えてみてほしい。常識を問い直してみることから哲学ははじまるのだから。

この問いに答えるためにも、まずは「サイコパスという概念を正確に理解していこう。

そもそも「サイコパス」という言葉は、いつから使われるようになったものだろうか。実はこの言葉は、精神医学の世界で使われはじめたもので、「反社会性パーソナリティ障害」に該当するとされている。診断は『HARE PCL-R第2版テクニカルマニュアル』という20項目のリストにもとづき、専門家が行う。

この言葉を一般レベルにまで広めたのは、猟奇的な連続殺人犯エド・ゲインをはじめとする、史上まれにみる犯罪者たちであろう。

しかし、「サイコパス」と呼ばれる異常犯罪者は非常にまれな存在であり、北米でもおそらく100人もいない、と言われている。それほど特殊な存在のはずなのに、一般の人たちが、身近な隣人を「サイコパス」と呼んではばからない現状はなんとも奇妙である。

サイコパス」とは具体的にどんなパーソナリティを持った人物なのか、実際の診断項目の一部を簡単にまとめてみた。

・口達者で皮相的
・自己中心的でナルシスト
・良心の呵責(かしゃく)や罪悪感の欠如
・共感性の欠如
・感情が薄っぺらい
・異常なまでにウソをつくクセ
・衝動的な行動
・自分の行動をコントロールできない
・常に刺激を欲している
・責任感の欠如
・抵抗なく人を操る
・少年時代に犯罪歴がある
・仮釈放取り消しなどを受けた経験

■「サイコパス=異常犯罪者」というイメージは誤解だ

当てはまる項目が多いほど、ある人のサイコパス傾向(サイコパシー)は高いと判断される。そしてここが厄介な点なのだが、これらの項目のほとんどは内面的な評価に関わるものであり、明確な「犯罪」に関わる項目は数個しかないのである。

要するに、異常犯罪者にも当てはまるけど、一般的な人にも当てはまりそうな項目が並んでいるのだ。たとえば、他人に冷淡な人も、口達者でウソつきな人も、私たちの周囲には当たり前にいる。そして、その人たちがみな「異常な犯罪」に及ぶとは限らない。

実際に、アメリカでは「サイコパス」は人口の数%、多いときで10%は存在すると言われている。つまり10人に1人だ。日本の場合はもっと少ないようだが、それでもざっくり、100万人は超えていると考えていい。先ほど、「サイコパスの異常犯罪者」の数は北米に100人もいないと言ったが、それよりも多いのである。

この段階でわかることは何か。「サイコパス」は歴史的に異常犯罪とセットで語られることが多かった。そのため「サイコパス=異常犯罪者」というイメージが形成された。しかし、診断基準を見る限り、「サイコパス」とはもっと広い概念であり、この社会のどこにでもいるような特徴を備えている。その中で、特別に強い「反社会性」を持つ者だけが「異常犯罪者のサイコパス」になるのである。

なので、レイナに関して言えば、たしかに周りの気持ちがわからないという傾向はあるかもしれないが、別にそのことを気に病む必要はないし、それで将来サイコパスの「ヤバい犯罪者」になるとは限らないのである。

サイコパスの診断項目はその人の長所にもなる

サイコパス」という概念がさらに興味深いのは、最近では彼らが、凡人とは違ってとても高い能力を持った天才として見なされていることである。

たとえば、『サイコパス 秘められた能力』(NHK出版、原書は2012年)という本の中で、心理学者のダットンは、「サイコパス度が高い職業」として10の職業を挙げている。

1.企業の最高責任者(CEO)
2.弁護士
3.報道関係(テレビ/ラジオ)
4.セールス
5.外科医
6.ジャーナリスト
7.警察官
8.聖職者
9.シェフ
10.公務員

これまで「サイコパス」=「異常犯罪者」というように、ネガティブに取り扱われてきたはずの概念が、このリストではまったく違った様相を見せている。むしろ、社会的に見て評価の高い職業がトップに並んでいるのは驚きだ。

CEOや弁護士、外科医やジャーナリストといえば、花形の職業と言っていいし、なんと警察官や聖職者、公務員まで含まれている。とくに後者の職業に関しては、反社会的どころか、人々に奉仕する性質のものではなかったか? どうしてこうした人たちの職業は、「サイコパス度が高い」とされるのだろうか。

要するに、先ほど見たチェックリストの項目のほとんどは、「犯罪」(反社会性)に関するものさえ除けば、その人の強みにも弱みにもなるものなのだ。

たとえば、口達者で抵抗なく人を操れるような人は、セールスマンや信者を勧誘する聖職者などに向いているかもしれない。自己中心的で、良心の呵責や罪悪感、共感性といったものが欠如した人は、経営者としてときに思い切った判断ができるだろう。感情が薄っぺらいのは、逆に言えば冷静沈着に行動できるということだから、淡々と仕事をこなす外科医などにとっては必要な特徴なのかもしれない。

サイコパスは「異常」でもあり「天才」でもある

このように、「サイコパス」は「異常」という文脈で語られることもあれば、「天才」というある種、肯定的な文脈で語られることもある、複雑な評価とイメージをまとった概念なのだ。

職業ではないが、政治家であるヒトラーやスターリン、ノーベル平和賞をもらった修道女のマザー・テレサさえもサイコパスとされているし、「20世紀最大の哲学者」のひとりハイデガーも、心理学の権威であるユングから「サイコパス」のお墨付きをもらっている。こうなるともう、「サイコパスって何?」と言いたくなる。

そもそも「反社会性」という基準もあいまいだ。連続殺人犯のように法律を完全に無視する者もいれば、法には違反しない範囲で他人に迷惑行為を働く人もいる。根も葉もないウワサをまき散らす人、店員に過剰な文句を言う客、お風呂にまったく入らないために強烈な体臭を発する人。

あるいは、実績はあるが部下に厳しく当たる会社員、手術の腕はいいが患者にぶっきらぼうな態度をとる医者、研究熱心だが弟子の面倒は見ない大学教授──身近な人からすれば至極迷惑である。

いったいどこからが「反社会的」なのだろうか。これもまた、「法」という人間が恣意(しい)的に定めた基準に拠っているにすぎないのではないか。

■「良心はいいものだ」という当たり前を疑ってみる

この時点で、レイナを「サイコパス」と断罪したクラスメイトの発言は、ただの言葉遊びにすぎないことがわかる。世間に流通するさまざまなイメージから、あいまいに「サイコパス」を語っているにすぎない(そもそも専門家にしか判断できないのだから)。レイナはそんな彼らの態度を真摯(しんし)に受けとめる必要はない。

だが、今回は冒頭でも提示したように、もっと踏み込んだ問いを設定してみたい。

共感はいいものか? それは必要なのか?

ここで「良心」という観点を導入してみよう。

実は、「サイコパス」について考える上での大きな落とし穴は、「良心」の存在が自明とされている点にある。こうした無意識の前提こそ、疑うのが最も難しい。

サイコパス」のチェックリストには、「良心」という言葉が当然のように使われているし、それが欠如するとサイコパス傾向が高まるのだ、とされている。だが、これはほんとうだろうか。「良心」とは、いいものなのだろうか?

■「トロッコ問題」から良心を考える

具体的に考えていったほうがわかりやすいと思うので、古典的な思考実験「トロッコ問題」に取り組んでみよう(もとはイギリスの哲学者、フィリッパ・ルース・フットが考案した倫理学の思考実験である)。

2つの選択

【スイッチの事例】ブレーキのきかなくなったトロッコ電車が向かう先に、5人の作業員が働いている。このままだと5人全員が轢(ひ)かれてしまう。今、あなたの目の前には線路のスイッチがあり、それを切り替えれば電車の進路を変えて5人を救える。しかし、もう一方の進路にも別の作業員が1人いる。進路を変えたとしてもやはり1人を轢くことになる。さて、あなたはどちらを選ぶか。
【陸橋の事例】ブレーキのきかなくなったトロッコ電車が向かう先に、5人の作業員が働いている。その線路をまたぐ陸橋の上には、あなたともう1人、太った男性がいる。彼を突き落とせば電車は止められそうだ。あなたは5人の作業員を救うために、太った男を突き落とすか、どうか。

■友達が「太った男を突き落とす」と答えたら……

アンケートを行うと面白い結果が出る。

スイッチの場合は、多くの人が功利主義的に考えて、進路を変えることで5人を救い、1人を犠牲にすることを選択する。ところが陸橋の場合では、むしろ義務論的に考えて、「5人のために1人を殺すべきではない」と判断し、5人を見殺しにする人が多くなるのだ。

「5人の命か、1人の命か」という構図は同じはずなのに、問い方を変えると、考え方にも違いが生じ、結果、行動も変わるのである。

ただ、この問題を通してほんとうに問いたいのは、君がどちらの選択をするかではない。君の友人が、陸橋の場面でこう答えたらどう思うか、ということである。

つまり、「結果は同じなのに、2つの場面で考え方を変えるのは矛盾している。だから自分は、スイッチの場面と同じように、陸橋の場面でも5人を救う。つまり、太った男を突き落としたほうがいいと思う」──と。

■「良心」の概念はあいまいで、状況によって変わるもの

たしかに、スイッチの場面で5人を救うのであれば、思考の一貫性という意味では太った男を突き落とすほうが正しい。でも、こう答えるとどう言われるか。

「より多くを救うためとはいえ、わざわざ人を突き落とすなんて単なる殺人じゃないか。それを肯定するなんて、君には良心がない!」

しかし、この反論に納得できるだろうか? というのも、スイッチの場合であっても、私たちはあえて進路を変え、1人を轢き殺す選択をしたのである。これだって、死ななくてもよかった1人を5人のために殺した、れっきとした殺人ではないだろうか。

太った男を突き落とす選択をした者に良心がないのであれば、スイッチを切り替えて1人を轢かせた者にも、同じように良心がないと言うべきであろう。

とまあ、こんなことを言われても、感情的にこの理屈を受け入れるのは難しいはずだ。ここで大事なのは、「良心」は自明ではないし、人が何を望ましいと見なすかは状況によって変わるということである。

サイコパス」の診断基準には、そもそもあいまいな前提が含まれていることを理解しておくべきであろう。

■ときに社会の良心は誤った方向に向かう

すでに確認したように、「良心」という概念そのものがあいまいなのだから、「良心の欠如」と言ったとき、その状態を判断する基準も正直よくわからない。

だいたい「あなたに良心はあるか」と聞かれて、自信満々に「YES」と答える人がいたら、その人ほうがよっぽど怪しい。この問いには、「良心」の定義がわからない限り答えられないのだから。ちなみに「良心」は、「自分の心の内面から聞こえる道徳的な声」などと言われることもあるが、そんな声は実際には聞こえないだろう。

また精神科医のフロイトは、「良心」を社会が個人に対して強制する規範(ルール)だと分析している。その考えを仮に採用するなら、「サイコパス」が声高に叫ばれる社会とは、もしかすると、それだけ良心的であることの「同調圧力」が強い状況にあるのかもしれない。

かつて異常犯罪者たちが「サイコパス」と呼ばれたのは、社会的な規範や常識といったものをまったく顧慮しなかったからだ。同調圧力の外側に出てしまったとき、人は「サイコパス」と呼ばれるのかもしれない。

そして、それは必ずしも悪いことではないだろう。というのも、ときに社会の良心は誤った方向に向かうからだ。

■同調圧力に反して「サイコパス」になる勇気も必要

ナチスの時代、ドイツの人々はその政策を素晴らしいものとして受け入れた。いや、それを受け入れることが正しいのだというような空気を、社会全体でつくり上げていった。こうした「同調圧力」こそ「ナチス的な良心」であり、その結果、ユダヤ人は“絶滅”の危機にさらされたのである。

岡本裕一朗『哲学の世界へようこそ。--答えのない時代を生きるための思考法』(ポプラ社)

社会の同調圧力が誤った方向に向かったとき、果たして「共感」といったものがどれだけ役に立つのだろうか。あえてそこを踏み外す、「サイコパスになる勇気」も案外、必要なのではないだろうか。他の誰かに共感できるということが、必ずしも善であるとは限らないのである。

つまり、問題はある人が「サイコパス」であるかどうかではない。大事なのは、ある人を「サイコパス」と決めつけようとするとき、そこにどういう社会的な圧力が働いているのか、その力学を見抜くことである。

安易な共感能力はいらないし、それはときに、社会を誤った方向に進ませる。大衆の熱狂に疑いを持てたレイナの態度は、決して捨てたものではない。

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岡本 裕一朗(おかもと・ゆういちろう)
玉川大学文学部名誉教授
1954年福岡県生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。九州大学助手、玉川大学文学部教授を経て、2019年より現職。西洋の近現代哲学を専門とするが興味関心は幅広く、哲学とテクノロジーの領域横断的な研究をしている。著書『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)は、21世紀に至る現代の哲学者の思考をまとめあげベストセラーとなった。他の著書に『フランス現代思想史』(中公新書)、『12歳からの現代思想』(ちくま新書)、『モノ・サピエンス』(光文社新書)、『ヘーゲルと現代思想の臨界』(ナカニシア出版)など多数。
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(玉川大学文学部名誉教授 岡本 裕一朗)