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3.0LのV8に2+2のレアな組み合わせ

translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

ストレスフルな日常の暮らしに疲れたからといって、ヨガやピラティスを選ぶ必要はない。トライアンフ・スタッグという選択肢もある。ドロドロとしたビートは明らかにV8エンジンの存在を教えてくれる。ちょっと悪びれたサウンドでもあるが、愛すべき2+2のカブリオレ、スタッグのおっとりとした正確にもぴったりな心拍数でもある。

このスタッグというクルマは不思議なことに、せっかちなドライバーでも気持ちを穏やかにしてくれる。3.0LのV8エンジンを搭載し、最高速度は193km/hと、決して遅くはないグランドツアラーではある。しかし心を沈めてくれる効果がある。競争本能を奮い立たせる種類のクルマではない。

トライアンフ・スタッグ・カブリオレ

ゆったりと流せば、現代の成功者が乗るラグジュアリー・オープンにも通じる豊かなライフスタイルを、スタッグからも感じ取ることができるだろう。50年近く昔のクルマでもあり、4シーターにV8エンジンが搭載された、イタリアンなアピアランスを持つオープンカーという視点で見ると、ライバルも多くは存在しない。日が暮れてくると、快適なツーリングを楽しむには冬用の帽子が必需品となるけれど。

1970年当時、2000ポンド(27万円)という価格設定は悪くないものだった。少し古びたメルセデス・ベンツ280SLの価格は倍以上で、しかもリアシートは付いていない。近似する価格帯には、アルファ・ロメオ1750 GTVやロータス・エラン+2Sというクルマもあったが、屋根が開くことはなく、トライアンフの開放感を得ることはできなかった。

英国で最も盗難被害の多いクラシックカー

一方でスタッグのモデルライフは、順風満帆ではなかった。コヴェントリー郊外、カンリー工場のエンジニア、ハリー・ウェブスターの考案で1960年代なかばに生まれたクルマで、1977年までの間に生産された台数は2万6000台ほど。メカニカル面での完成度が低く、1968年にトライアンフを含むかたちで結成された自動車メーカー、ブリティッシュ・レイランド社にとって、議論となるクルマの1台にもなった。

メルセデス・ベンツSL「パゴダ」の成功に着想を得たウェブスターは、開発が安価であるという前提で、大型で豪華なオープン・トライアンフのアイデアを、上層部に持ちかける。基本的にはトライアンフ2000の焼き直しで、ランニングギアやサスペンション、全長を短くしたフロアパンなどを流用している。

トライアンフ・スタッグ・カブリオレ

ハリー・ウェブスターがマリーナの開発のためにオースティン・モーリス部門へと移動すると、彼の創造性は封じられてしまう。スタッグはブリティッシュ・レイランド社のモデルラインとしては高すぎ、信頼性にも欠ける、困りもの扱いをされてしまう。特に取り付け位置が高くギア駆動されていたウォーターポンプのトラブルは広く認知されていたほど。

加えて、V8エンジンのオープンというパッケージゆえに期待していたアメリカ市場での販売は、環境規制が厳しくなり難しく、英国から輸出されることもほとんどどなかった。だとしても、楽しめるクルマとしての素質は高く、ファンクラブを形成するのにも適したモデルであることは、今になってみると良くわかる。かつて、英国で最も盗難被害の多いクラシックカーという、不名誉な人気も得ていた。

デザインはジョヴァンニ・ミケロッティ

当初はトライアンフ2000と同じ2.5Lの直列6気筒エンジンを搭載する計画だった。しかし、4、6、8気筒に展開する新しいモジュラーOHCエンジンの開発が重なり、スタッグにはV8エンジンが搭載されることになる。しかし、ブリティッシュ・レイランド社としての統合によって、エンジンの開発自体が難航する。

当初のスペックは2.5LのV8にフュエルインジェクションという組み合わせが考えられていたが、発表時には3.0Lへと排気量は増え、ストロンバーグ社製のキャブレターを2基搭載。最高出力は控えめな147psとなっていた。

トライアンフ・スタッグ・カブリオレ

ヘラルド以降、当時のすべてのトライアンフのボディデザインを手掛けていたのは、イタリア出身のジョヴァンニ・ミケロッティ。リトラクタブル・ヘッドライトとパワーバルジのないスリークなボンネットはないものの、テール部分のカーブが美しい、ハンサムな2+2をデザインする。

華々しい発表キャンペーンも功を奏し、スタッグはグランドツーリングカーとして国際的に知られるようになる。一方で、V8エンジンが抱えていた問題や、絶えず変化するアメリカ連邦の衝突安全性や環境負荷への規制に対する交渉や対応に、裏では追われることになったのだが。

英国とを隔てる北海の反対側、BMW 2002カブリオレは、やや不格好なエクステリアデザインとは裏腹に、順調に計画が進められた。もとはコーチビルダーのバウアー社が手掛けた1600カブリオレで、リリースは1967年。1971年には2.0Lとして再登場している。1973年には右ハンドル車が354台輸入されている。

2002カブリオレの生産台数はわずか4210台

2002カブリオレの1973年の価格は3499ポンド(48万円)で、2002ターボを除いて、コンパクトなBMWの2ドアモデルとしては最も高い価格を下げていた。2002クーペより1000ポンド(14万円)高く、スタッグよりも900ポンド(12万円)ほど上回っている。

バウアー社は1910年にシュツットガルトで誕生し、BMW 501や502のカブリオレボディを生産していた他、BMW M1のボディも生産していた。1930年代にバウアー社が手掛けていたBMW 320や326カブリオレを祖先に持つような、4シーター・オープンだといえる2002カブリオレ。BMWとの深い関係性は1980年代のE30型3シリーズ・カブリオレまで続いた。

BMW 2002カブリオレ

2002カブリオレはBMWから部品供給を受けるかたちで年間500台程度が生産され、1975年まで続けられた。クーペ比で50kg程度重量は増加しており、エンジンは2.0Lのシングルキャブのみで、最高出力は99ps。もっとも目立っていたオプションは、ZF社製のオートマティック・トランスミッションだったが、英国市場では魅力を高めるために、4スポークのアルミホイールが組み合わされていた。

BMWとしては世界的に輸出することは考えておらず、バウアー社が生産した2002カブリオレの総数は4210台。1967年から71年までのクルマがオリジナルボディとなる。カブリオレでは珍しいことだが、ルーフを閉じたときの方が、アピアランスはカッコ良い。

後編では、2台を詳しく見ていこう。