大船渡は佐々木朗希を育て、守った。登板回避よりも伝えられるべきこと
物事には表があれば裏がある。
「1億総評論家時代」と言われる今、表を見ては裏をつつき、裏を見ては表を引っ張り出そうとする。そんな光景が日常にあふれている。
岩手大会決勝戦、大船渡が「故障を防ぐため」という理由で怪物エース・佐々木朗希を登板させなかったことは、賛否両論を巻き起こした。だが、もし佐々木が登板していたら、今度は「連投などありえない」という批判が起きていたに違いない。つまり、佐々木が投げようが投げまいが、いずれにしても大船渡は批判を浴びていたはずなのだ。
岩手大会決勝戦で登板することなく敗れた大船渡の佐々木朗希(写真左から2人目)
ルールに違反している。指導者と選手の間で認識に乖離(かいり)がある。そんな誰の目にも明らかな問題があれば、批判されるのもやむをえない。だが、ルールにのっとり、指導者の方針に選手が納得しているなら、第三者が過度にとやかく言うべきではないだろう。
ましてや高校野球はアマチュアスポーツである。メディアで大々的に取り上げられるからといって、チームや個人を批判してもよいという免罪符にはならない。もし納得がいかない場合でも、「こんなチームもある」と思うしかない。
少なくとも、大船渡の國保陽平監督は初志貫徹したと言っていい。5月の時点で國保監督に「夏は佐々木投手の起用をどのように考えていますか?」と尋ねると、真顔の國保監督からこんな答えが返ってきた。
「できるだけ雨が降って、たくさん登板間隔が空いてほしいなと。それと、曇りの日が多くて気温が低ければいいと思います」
そのようなコメントは、夏の大会が開幕したあとも頻繁に口にしていた。ポイントは「登板間隔」と「気候」である。
登板間隔は言わずもがなだが、気候は、できる限り休養がほしいという意味だ。今夏の岩手大会は7月12日に雨で全試合雨天順延になり、大船渡の初戦(遠野緑峰戦)は1日ズレ込んで16日に延びた。さらに19日も雨が降り、大船渡は中1日で戦うはずだった4回戦(盛岡第四戦)を中2日で戦うことができた。とはいえ、國保監督としては5日間で4試合を戦わなければならない4回戦以降で、できるだけ雨が降ってほしかったのが本音に違いない。
決勝戦の試合後、報道陣から大会日程の過密さについて問われた國保監督は「私は発言する立場にありません」と語った。だが、ゆとりのある大会日程であれば、そもそもこのような論争には発展しなかった。岩手県に限らず、期末試験の期間が障壁になっているのであれば、北海道や沖縄などの地区のように6月から開幕するべきだろう。「球数制限」の議論よりも、過密日程の問題を解消するほうが先のはずだ。
一方、「気候」は決勝戦で佐々木を登板回避させた大きな要因になった。國保監督はこう説明している。
「今まで曇りの日が続いていて投げやすいコンディションだったんですけど、今日は暑いですし」
たしかに、今夏の大船渡の試合日は過ごしやすい気候の日が多かった。試合日の最高気温を見ていくと、初戦(遠野緑峰戦)の22度に始まり、最高30度を超えた日は一度もなかった。佐々木が先発完封した準決勝(一関工戦)は29度。雲間から太陽が顔をのぞかせ、汗ばむ時間帯もあり、試合後に國保監督に聞くと「暑さはとても心配です」と語気を強めていた。そんななか、疲労がたまり、精神的な負荷がピークになる決勝戦が最高気温31.9度で、太陽が照りつける環境だった。
そして、國保監督は恣意的に決断する指導者ではない。久慈戦の試合後には、投手起用の判断材料として「理学療法士、医師、トレーナーからのアドバイス、あとは球場の雰囲気、相手チームの対策、自分たちのモチベーション。それらを複合的にふまえて判断しています」と語っている。
國保監督が佐々木の登板回避を決めたのは、決勝戦の朝の練習を見たときだという。
「私は教員ですし、(佐々木の代は)最初は同じ学年についていましたので、彼が入学してからの行動とか、どのような動きをするとか観察評価してきたつもりです」
國保監督はこう説明した。さまざまな要因をふまえて、最終的に下した結論が「登板回避」だった。國保監督によると、方針を伝えた佐々木の反応は「笑顔で『わかりました』と言っていました」ということだった。
選手が納得しているのであれば、問題がないはずだ。ただ、試合後の佐々木の反応は非常に読みづらかった。
國保監督が起用しなかったことへの感想を求められると、佐々木はしばらくの間、うつむきながら押し黙っていた。そして言葉を選ぶようにして、「監督の判断なので、それはしょうがないです」と答えている。
ほかにも「(登板回避を伝えた際)國保監督は笑顔で答えたと言っているが……?」という問いには首をかしげる仕草を見せ、「國保監督から学んだことは?」という問いには長い沈黙のあと「ちょっと今は言えないです」と答えた。
悲願だった甲子園出場を逃した試合後だけに、気持ちを整理できないのは仕方がないことだ。頭では起用されなかった理由を理解しつつも、「投げたかった」という本音を必死に押し隠しながら受け答えしていることが伝わってきた。マウンドに立ちたい。それは投手の本能なのだ。
一方で、國保監督が佐々木の体を気遣って決断したことについて問われると、佐々木は「ありがたいですし、そのぶん自分が将来活躍しなきゃなと思います」と感謝と決意を口にした。
準々決勝の久慈戦の試合後には、佐々木は國保監督についてこうも語っている。
「チームメイトもそうだと思うんですけど、プレーしやすい環境をつくってくださって、自分がしたいベストなプレーができるように尽くしてくださっていると思います」
こうした発言からも、國保監督と佐々木の間で信頼関係ができていることは明らかだ。投げられる、投げられないという認識に多少の齟齬(そご)があったとしても、すべては佐々木の「しょうがない」という言葉に収斂(しゅうれん)するはずである。
ただし、國保監督の起用法について解せない点もある。それは準々決勝の久慈戦で好投した大和田健人、和田吟太の2人を決勝戦で登板させなかったことだ。久慈戦で大和田は7イニング(大会通算10イニング)、和田は4イニング投げているとはいえ、登板間隔は中2日空いている。
國保監督はこう説明した。
「2人とも大会を通じて20イニングとか長い回を投げたわけではないですが、精神的な疲労もたまっていました」
たしかに和田に確認すると、「肩に張りが残っていて、いい状態に仕上げられなかった自分に納得がいっていません」と語っていた。ところが、大和田は故障もなく、疲労もほとんどなかったという。
「久慈戦の次の日は疲れがあったんですけど、今日はほとんど抜けていました。万全とまではいかなくても、準備はできていました」
登板機会がなかったことについて、大和田は「監督の考えがあったろうと思います」と理解を示しつつも、「自分としては最後に1回でもマウンドに立ちたかったですね」と本音もにじませた。
野球部内で学業成績ナンバーワンという大和田は、国公立大学への進学を目指しており、大学で野球を続けるかどうかはまだ決めていない。身長160センチの小兵右腕としては、この夏に野球人として完全燃焼したかったはずだ。
とはいえ、國保監督の言う「観察評価」では大和田本人にも気づかない疲労の兆候があったのかもしれない。
そして見落とされがちだが、岩手大会準優勝も称えられてしかるべき好成績なのだ。佐々木は「優勝できなければ準優勝も1回戦敗退も一緒」と言った。戦う者がストイックに結果を追求するのは当然だが、見る者までその感覚に付き合う必要はない。
決勝戦に至るまでの國保監督の選手起用にも、「表」と「裏」があった。夏の大会の試合後、國保監督が必ず言っていたのは「目の前の一戦一戦を戦うだけ」という言葉だった。準決勝、決勝は連戦になることがわかっていながら、準決勝の一関工戦で佐々木を完投させたのも「準決勝を勝つためです。佐々木が投げられる状態だったので、決勝戦に行くために投げさせました」という理由だった。
高校野球の監督はトーナメントを戦ううえで、2つのタイプに分けられる。1つは組み合わせを見て対戦相手を想定し、あらかじめエースの休養やローテーションを考えるタイプ。もう1つは先のことを考えずに、目の前の相手を現有戦力で倒すことを考えるタイプだ。今夏の國保監督は明らかに後者のスタイルだった。
だから優勝を逃したとも言えるし、だから決勝戦まで勝ち上がれたとも言える。
決勝戦で登板できなかった無念さをにじませていた大和田に、「もしかしたら國保監督は今日の結果を受けて批判を浴びるかもしれないけど……」と向けると、大和田は真っすぐにこちらを見てこう言った。
「國保先生がいなかったら大船渡はここまでこられませんでした。それは間違いないです。國保先生には感謝しています」
そしてもうひとつ。國保監督がいたから、佐々木朗希という怪物がすくすくと育ったという事実も忘れてはならない。
菊池雄星(マリナーズ)、大谷翔平(エンゼルス)の恩師である花巻東の佐々木洋監督に、ずっと聞いてみたかったことがある。「球界の宝」と言われる逸材を預かることは、預かった者にしかわからない心情があるのではないかと。決勝戦の試合後、佐々木監督にその質問をぶつけると、こんな答えが返ってきた。
「ケガをする、しないだけではなく、目に見えないところでいろいろとあります。周囲に注目されることで、チームのバランスをとることが大変になったり。國保監督も相当ご苦労されたことだろうと思います。私自身、雄星を預かって本人には申し訳ないことをしました。あのクラスの選手を預かるのは初めてで、雄星本人も遠回りをしているように感じたこともあったと思います。
そういう経験を生かして大谷に接することができたので、非常によかったと思うんです。幸いにして雄星も大谷も『オレのチームだ!』と勘違いすることもなく、道具の準備から勉強まで優秀でしたし、私は恵まれていました。朗希くんもそうだと思うんですけどね」
高校野球が未来の希望を握りつぶすような場であってはならない。大船渡は佐々木朗希という球界の希望を育て、守った。それは10年後、100年後へと語り継がれる功績なのではないか。
もちろん、物事には表があれば裏がある。大船渡が甲子園に出られなかったことで悲しみ、落胆した人々もたくさんいる。とはいえ、すべての人が納得できるエンディングなど、あったのだろうか。
佐々木朗希はあの時、投げなくてよかった──。
多くの人がそう思える未来が訪れることを願ってやまない。