「ここの電圧設定を上げるのがセオリーという項目が、この条件なら逆に下げたほうがクロックが伸びるとか、発見したときはもうたまらないですね」という(撮影:村田 らむ)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第20回。

パソコンにはオーバークロックという裏技がある。処理能力を左右するCPUやグラフィックスチップなどの処理速度(クロック)を引き上げることで、パソコンのパフォーマンスアップを図るチューニングだ。

メーカー保証から外れた使い方になるので、引き上げすぎて動作が不安定になったりオーバーヒートしたりしても自己責任。それでも人気は根強く、自作パソコン用のパーツにはオーバークロック向きの機能を備えた製品が少なくない。各国のマニアがクロックアップを競う世界大会も頻繁に開催されている。

オーバークロックの世界にいる数少ないプロ


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今回インタビューした清水貴裕さん(31歳)はそのオーバークロックの世界にいる数少ないプロだ。世界大会の賞金は多いところで1万ドル程度(約112万円)。しかし、優勝を狙うためには自前で膨大な数のパーツを調達して選別しなければならない。その費用は300万円とも400万円ともいう。何をどう頑張っても元すらとれない。

そんな世界でどのようにプロ=それを本職にして食べている人たりえているのか。その答えは、清水さんの半生を辿ると見えてくる。

清水さんは1986年に岡山県総社市の古くから続く地元の名家の長男として生まれた。二世帯住宅の片側に暮らす祖父母は跡取りたる清水少年を特別視し、清水少年もまた、妹や従兄弟たちとは違う期待をかけられていることを自覚せずにはいられなかった。

金銭面では平均的な同級生たちよりずいぶん恵まれていた。祖母と出歩けば必ずおもちゃを買ってもらえたし、ガチャガチャ(ガチャポン)は目当てのアイテムが出るまで回し続けるのが当たり前だったという。

欲しいモノは何でもおカネで手に入る。その感覚が変わったのは小学校5年生の夏だ。当時ブラックバス釣りが流行しており、最初はオモチャの釣り具で試したがまったく釣れず、父親にねだって本格的な釣り具を買ってもらったが、やはり釣果はからっきしだった。なぜうまくいかないのだろう……? ここで工夫する楽しさを知る。

「ブラックバスはその日の天気や池の状態にあわせて動くのでゲーム性がすごく高いんですよ。考えて工夫して、それを実現する技術を身に付ければ、きちんと結果が返ってくる。買ってもらって遊ぶだけじゃ味わえない興奮がありました」

曇りの日は低気圧で魚が浮くからよく浮くルアーを使おう。池の水位が下がったら魚が隠れそうな朽ち木の位置をマップに書き込もう。そこに投げるルアーは針が隠れるタイプが必要だ。けっこう遠いから正確に投げられるよう、毎日練習しないといけないな。登校前に釣りに行って、放課後にまた釣りに行き、暗くなったら家の庭でルアーを投げる練習をし、夜は釣り具をメンテナンスする。ブラックバス釣りに熱中する日々は中学校を卒業するまで続いた。

高校に入ると今度は音楽にどっぷりハマる生活になる。地元の仲間とロックバンドを結成してからというもの、日焼けが格好悪いからとバス釣りから急速に離れていった。入れ替わりで頭の中を埋め尽くしたのはドラムだ。ドラムの腕を上げるにはひたすら練習しかない。正確なリズムでできるかぎり速く、多彩な表現を身に付けるべく、音が出せる時間帯はひたすらドラムを叩き続けた。ステージの後方でも目立つようにと髪を赤く染め、学校にはあまり行かなくなり、成績は最底辺をさまよっていった。

名家の跡取りとしてみている祖父母からしたら由々しき事態だ。口頭で激烈に叱責されるのは日常茶飯事で、「昨夜、位牌が燃える夢を見た」「築きあげてきた清水家が云々」と書かれた手紙を受け取ったりもした。自由な生き方に理解のある両親ですら手を焼き、自部屋の荷物を全部玄関先に出されたこともある。しかし、激しめの反抗期を迎えていたこともあり、清水さんは意に介さなかった。いずれプロドラマーになると心に決め、ライブハウスでドラムを叩き続けた。

それでも中退とはならず、出席日数ギリギリで卒業した後どうにか地元の医療福祉系大学に進学する。そこには「潰しを利かせるために一応大卒を」という本人の計算もあったが、清水さんを大学に進学させるために両親と祖父母が用意した“餌”の存在も大きかった。通学用に買ってくれたスポーツカーだ。

このスポーツカーがまた清水さんの脳を埋めていく。大学入学後も基本的にはドラムを鍛錬する日々だったが、知人に元プロレーサーがいたこともあり、一時期はドライビングにも熱中する二足のわらじ状態になった。月に3回サーキットに行って全力でドライビングし、小遣いではまかないきれなくなったガソリン代やパーツ代はゲームセンターのバイトで埋めたりもした。

自作パソコンのオーバークロックとの出会い

しかし、やはりプロになりたいのはドラム。そう考えてクルマ熱は抑えるようになるが、大学生活が4年目を迎えた頃にまた別の誘惑が襲いかかってきた。それが今に続く、自作パソコンのオーバークロックだ。

「当時レポートを書くのに使っていたノートパソコンが滅茶苦茶遅かったんですよ。それで買い換えようとネットで調べていたら自分で組み立てられると知って、通販でパーツを買い集めたんですよね」

自作パソコンの組み立て方を解説するサイトを参考に見よう見まねで組み立てたところ、無事にWindowsが起動した。安堵したところでサイトのある項目が気になりだす。「オーバークロックとは」。


ドラムは卒業したが、考えるときにドラムスティックを持つクセは今でも抜けないという(撮影:村田 らむ)

なにやらCPUを載せた基板(マザーボード)の設定を調整すると定格仕様よりも処理能力が高くなるらしい。面白そうだ。まずはWindowsを起動する前の設定画面(BIOS画面)に入る。そのなかのCPUに関する項目を開き、クロックを極限まで引き上げて再起動。うまくいけばそのままWindowsが起動するので、チューニング専用アプリでCPUのクロックをチェックする。

確かに目に見えてクロックが上がっている。面白い! これで最後にパソコンに高負荷をかけるテストをクリアすれば、この設定でずっと使えるらしい。実行。……と、ここで基板から火花が上がり、パソコンが突然シャットダウン。基板から出た炎はすぐに消し止められたが、電源ボタンを押してもうんともすんとも言わなくなった。

これは、無茶なオーバークロックを施したときによくある失敗だ。発熱量や電力量が許容値を大きく超えたまま稼働を続けると、回路やパーツがショートしたり燃えたりして完全に壊れてしまう。オーバークロックは不可逆的な損傷と隣り合わせの自己責任の遊びだ。よく読むとサイトにもそう書いてあった。

ここで清水さんは凹まず、むしろ嬉しくなったそうだ。その日のうちに隣町のPCパーツショップにクルマを走らせ、店員さんにアドバイスをもらったうえで、同じ型番のパーツを購入。再びオーバークロックに挑戦したという。

「うまくいかないときって楽しいんですよ。なぜだろうって考えるから、普段気にしないところまで目がいくんです。すると新しい発見があって、じゃあ今度はこうやって試してみようかなってなるじゃないですか」

バス釣りでもドラムでもクルマでもそこは変わらなかった。原因を考えて仮説を立てて実践して、技術が足りなければ練習して、また試す。その繰り返しに身を置くと何よりも落ち着くし、みずからの能力を研ぎ澄ましている気持ちになれる。

すでにオーバークロックの虜になっていた。

かくしてドラムとオーバークロックの二足のわらじ生活は大学を卒業して1年ほど続くことになる。せめぎ合いはクルマのときより激しかったが、月に1度、埼玉のドラム学校に通うときに秋葉原に立ち寄るようになり、最新のパソコンパーツと触れあう中で、ウエイトはじわじわと後者に移っていった。

100倍返しするからプロになるまで面倒を見てくれ

とことんやるならそれ一本。行き着く先はプロだ。ならばもうオーバークロックのプロになるしかない。この道のプロが存在するのかどうかもよくわかっていなかったが、当時から世界でオーバークロック大会が開催されていることはわかっていた。根拠のない自信を胸にとにかく腹を決め、両親を説得する。

「プロを目指すのなら秋葉原に通えるところに住まないといけないし、1日中オーバークロックに没頭する環境を作らないといけない。働く時間もすべてオーバークロックに当てれば、プロになれる確率が上げられる。そう思って、100倍返しするからと、プロになるまで面倒を見てくれと頭を下げました」

息子の性格をよく知っていた両親は理解し、祖父母の防波堤にもなってくれると言ってくれた。父からは「お前は絶対にサラリーマンになれない。だから、自分の好きなことを極めて、それを仕事にしなさい」とも激励された。

横浜市に引っ越してきたのは2010年。24歳になっていた。

両親からは生活費に加え、パソコンパーツ代も面倒を見てもらった。パーツには個体差がある。同じ型番のCPUでも、引き上げられるクロックの限界はまちまちだ。大会で優勝したりクロック数の世界記録を出したりするなら、緻密なチューニングや臨機応変な判断力だけでなく、図抜けた伸びしろの個体が必要になる。大当たりは100個に1個あればいいという世界。4万〜10万円するCPUで大当たりを狙えば軽く数百万円かかる。パーツ代は年間およそ1000万円に及んだ。

「普通だったら勘当されるくらいのことをしているのはわかっていました。それでも信じて応援してくれて本当に感謝しています。それだけの支援があるので絶対プロになると思いながら練習に明け暮れていました」

遠慮はしない。とても恵まれていることを自覚しつつ、目的のためなら存分に活用することをためらわないたちだ。年間1000万円分のパーツをオーバークロックに使い込むのは簡単なことではない。秋葉原にパーツを調達しに出向く以外は基本的に家にこもり、膨大なパーツを使ってオーバークロックの腕をひたすら磨いていった。


CPUを金属筒で囲って液体窒素を直接注ぎ込む。-196度まで冷やせる極冷の世界だ(撮影:村田 らむ)

BIOS画面で電圧を0.005V上げて挙動を調べ、別の項目を無効化してまた挙動を調べ。海外で文献を漁りながら、実機で試して、自らの勘を働かせてセオリーとは逆を試してみたりもし、とことん血肉にしていく。対象はCPUだけでなくグラフィックスチップにも広がり、冷却手法は-78.5度のドライアイスからより冷える-196度の液体窒素にシフトしていった。

当初思い描いていたプロの道はこうだ。世界大会の優勝賞金や世界記録の賞金を獲得し、複数のパソコンパーツメーカーとスポンサー契約を結ぶ。ときにイベントなどに出演したり、製品を共同開発したりしてトータルの収入に上乗せする。いわば、ゴルフやテニスなどの個人競技のプロのようなイメージ。メジャースポーツほどの収入にならないまでも、生計を立てるには十分だろう。

その青写真にリアリティがないことはオーバークロック大会に参戦するようになって少しずつわかってきたが、完全に打ち破られたのは2013年の年末だ。上海で開かれたオーバークロックイベント「GALAXY GOC 2013」に参戦した清水さんは、そこでグラフィックスチップ「GeForce GTX 760」の世界最高スコアをマークして一躍注目を集める。4年の月日をかけてようやく摑んだ栄光だったが、その先に待っていたのは落胆しかなかった。

「世界記録を出しても賞金は1000ドル(約11万円)程度で、しかもチャリティイベントだったために全額寄付だったんですよ。メーカーからもスポンサーの話なんてなくて、仮に声がかかってもパーツを無償で送ってもらえるくらいで、資金援助されるわけでもない。このままじゃ確実に食えないということを痛感しました」


自宅兼ラボに常備している液体窒素。50Lの容器を満たすのに20万〜50万円かかる(撮影:村田 らむ)

冒頭で触れたとおり、世界大会で優勝を狙うには300万〜400万円相当のパーツを自前で調達する必要があるし、1リットルで500円程する液体窒素を数百リットルも使う必要がある。それでいてあまりにリターンが少ない。第一線で活躍している選手と交流するようになって、ある程度は状況が見えてはいたが、その高みに立ったうえで実感した空虚感といったらなかった。

「うまくいかないときって楽しい」

ただ、「うまくいかないときって楽しいんですよ」と語る性格。ここで折れない。

オーバークロックの腕をおカネに換える方法は、すでにひとつ身に付けていた。原稿執筆だ。2012年頃に秋葉原のイベントに参加した縁で自作パソコン系雑誌の編集者に声をかけられ、熱心なレクチャーのもと、プロのオーバークロッカーとしてパーツのレビュー記事を定期的に書くようになっていた。1記事数万円なので、月に10本書いてもまだまだ収支は釣り合わない。それでも堅い収入源であることには違いない。それに身に付けた伝える技術は収入源の拡大に大いに貢献してくれた。

典型例がイベントプロデュースだ。マザーボードメーカーやパソコン雑誌などが主催するイベントで、清水さんがオーバークロックに絡めたショーを披露するというもの。主催メーカーの製品を使ったチューニング術の披露や、防水処理したパソコン基板を丸ごと液体窒素に沈めてのクロックアップチャレンジなど、さまざまな切り口の企画を自ら提案し、実演するようになった。2014年後半から始めたビジネスだ。

「最初はNick Shihさん(世界的に著名なオーバークロッカー)から、突然『秋葉原でイベントやるから一緒に出て』というメールをいただいたのがきっかけでした。マザーボードメーカーの製品発表イベントでしたが、英語がわからないなりにNickさんの発言を訳したりステージでチューニングを手伝ったりと何とかこなしたら、方々から評価していただいて」

ショーとしての見せ方にはバンド時代のノウハウがある。そこにオーバークロックの知識と経験、ライターとしての情報の扱い方、さらに入念な準備も加わり、やるたびに高い評価を得ていった。以降は多いときで月に3〜4本のペースで大小のイベントに関わるようになる。大規模なイベントなら報酬は材料費込みで50万円にも及ぶ。それが原稿料に上乗せされるようになった。しかし、まだ足りない。


海外メーカー・Thermal-Grizzly製の熱伝導グリス。国内販売パッケージに清水さん推奨のシールが貼られている(撮影:村田 らむ)

2015年に入って始めたのはBTOパソコンのチューニングだ。BTOはBuild To Orderの略で、パーツ構成をカスタムして注文できるパソコンを指す。この組み立て過程で清水さんがオーバークロックを施すことで商品に付加価値を付ける。懇意にしていた秋葉原のパソコンパーツショップで始めたところ、コンスタントに注文が届くようになった。さらに、同店での立ち話をきっかけに、熱伝導グリスのスポンサー料を得るようにもなる。


ラボに置かれていたCPU。上に塗られている灰色は熱伝導グリスの跡(撮影:村田 らむ)

「CPUなどから出た熱を冷却装置に効率よく伝えるには、優秀な熱伝導グリスが必要になります。当時海外で評判になっていたグリスがあって、それを店内で熱く語っていたら、海外パーツの販売代理店の方がたまたま来店していて。『試しに輸入してみるから、清水さんレビューしてくれない?』と。そういうやりとりをしているうちにおカネをいただけるようになりました。本当、ラッキーでしたね」

原稿料とイベント料、チューニング料にスポンサー料。大会に参戦しない程度にパーツ代を抑えれば食べていける程度にはなった。しかし、まだ足りない。

パソコンパーツショップへ就職

次に狙ったのはパソコンパーツショップへの就職だ。

「もっと大きく稼げることをやるなら、企業の後ろ盾がいると思ったんですよね。大量のCPUを選別して、オーバークロック耐性が高い個体は2倍の値段で売るとか、オーバークロックしたパソコンを一からプロデュースしたりとか、アイデアはたくさん持っていたりしたので、それを実現できる環境を求めるようになりました」

数あるパーツショップから資本や販売姿勢などを基に3社に絞り込み、就職活動を始めた。イベントや原稿執筆時のやりとりで、各店との交流はすでにある。そのつてに、就職の意思と「自分が加入したらどんなメリットがあるか」をまとめたプレゼン資料を送るようになったのは2016年の春頃。候補としていた企業の担当者と会食を行ったり、ブラックバス釣りに誘って雑談するなど硬軟あわせたアプローチを重ね、同年8月には課長職の待遇でツクモ(Project White)に就職を決めた。

「決定打は給料面ではなく、原稿執筆やイベント登壇などの副業と在宅勤務もOKという待遇面でした。将来大会に参戦する場合もシフト調整を約束してくれるなど、かなりこちらの要望を受け入れてくれて、本当にありがたかったです」

オーバークロック大会は稼げない。2013年に痛感したことだが、いまだ参戦の気持ちは萎えていない。オーバークロッカーとして、スポットライトを浴びながら晴れ舞台でトップに立つ目標はおカネに換算できないものがあるという。実はその思いが、プロのオーバークロッカーとして生きていくもうひとつの道である、パーツメーカーへの就職を選ばなかった理由にもなっている。

「Nickさんが世界記録を出しまくってメーカーに就職したように、それはひとつの成功ルートではあると思うんです。だけど、就職してしまうとほとんどの大会で参加資格が得られなくなるんですよ」

2017年12月現在。父に「お前は絶対にサラリーマンになれない」と言われた清水さんは、変則的ながら会社組織に属している。サラリーマンになった景色はフリーランス時代と比べてどうか。

「何かするときに自分の裁量だけでは決められないというのは感じますね。広報的な業務も担当しているので会社のプレスリリースを作ったりもしますが、完成しても上司や関係者に確認する時間を計算して動かないといけない。あと、設定がうまくいかなくて深夜まで会社のラボにこもるとかもNG。そういう時間感覚は新たに学ばせてもらいました。

そうはいっても、ストレスはあまり感じないですね。自分の得意分野以外に詳しい人、たとえばHDDやSSDなどのストレージに詳しい人の話を聞けたり、一緒に組んで企画したりできるのが楽しくて。基本的に好きなことをやらせてもらっていますから」

オーバークロックの伸びしろのあるCPUの選別品を売り出すアイデアも入社した2カ月後には実現し、系列店で販売されるなど、社会の風通しもまずまずいい。週末に全国の系列店に出向いて店頭イベントするのも恒例になっている。ただ、オーバークロック仕様のBTOパソコンなど、当初の計画はまだ半分も形になっていないという。

「いろいろと忙しくなりすぎたのもありますし、実績を積んでいかないとGOが出ないプロジェクトもありますから。イベントも頑張りつつ、いろいろ学んでいきたいと思います」

プロをそれで食べていけている人と規定するなら、今の清水さんはプロのオーバークロッカーといえる。しかし、大会費用をすべてまかなえるまでには至っていない。現在の経済的な余裕は多忙のために大会から遠ざかっているためという面がある。両親への100倍返しなんてまだまだ遠い状況だ。

貪欲に稼げるアイデアを探し続けている

だからこそ、今も貪欲に稼げるアイデアを探し続けている。

「僕は昔から3年先のことを考えて動いている節があるので、2020年くらいまではけっこう具体的な道筋が頭にあります。10年後もおぼろげには。それ以降は不確定要素がいろいろ絡んでくるから、考えても無駄ってなっちゃいますしね(笑)。

ただそれでも、仮にそのときにオーバークロックそのものが消滅したとしても、何かを一から始めて極めるまでやると思います。努力して磨いた腕で食べていく、という根本的なところは大切にしていると思います」

世間体や遠慮など、自分にとって無駄なものはとことん省いてきた。そのぶんのリソースを夢中になれるものに注ぎ込み生活源にしていく。清水さんの10年後20年後の姿は想像できないが、根底のところは変わらないだろうと思った。