丸ノ内線の車両が所属する中野車両基地は、中野坂上から分岐する支線の中野富士見町駅近くにある(筆者撮影)

昨年秋から東京都杉並区で暮らすことになった。最寄り駅は東京メトロ(東京地下鉄)丸ノ内線の方南町駅であり、この路線を使うことが格段に増えた。

丸ノ内線は池袋から御茶ノ水、銀座、新宿などを経由して荻窪に至る本線のほか、中野坂上から分岐する支線があり、終点が方南町になる。ゆえに鉄道で都心や横浜、千葉などに出かける際は、中野坂上で本線や都営地下鉄大江戸線に乗り換えることが必須になる。

しかしこの路線、今でこそ支線となっているが、当初の計画では本線扱いだったことを知る方は少ないだろう。


丸ノ内線の計画はどんなものだったか

丸ノ内線を含め、現在東京地下鉄(東京メトロ)が運行している路線は、2004年以前は帝都高速度交通営団(営団地下鉄)という特殊法人が運行していた。この時代を含めた東京の地下鉄の歴史を記した「帝都高速度交通営団史(東京地下鉄発行)」によれば、東京で地下鉄計画が立ち上がったのは予想以上に古く、1903(明治36)年まで遡る。

当初は7路線が考えられていたが、数度の計画変更を経て、5路線に整理される。うち浅草-新橋間は東京地下鉄道、新橋-渋谷間は東京高速鉄道という会社が、いずれも第二次世界大戦前に開業させており、直通運転も始めていた。これが現在の銀座線になる。


中野車両基地の土地は戦時中に確保


しかし1940年代に入ると、東京の鉄道を民間企業が自由に開発するのは混乱を招くという意見が多数を占めるようになり、1941年に営団地下鉄が設立。東京地下鉄道、東京高速鉄道、東京市(現在の東京23区)などが計画および運行していた地下鉄道は、ここに一元化されることになった。



車両基地に停まる丸ノ内線車両。左が3両編成の支線用、右が6両編成の本線用(筆者撮影)

営団地下鉄は翌年、現在の丸ノ内線に相当するルートのうち、先行して赤坂見附-四ツ谷間の工事を始める。間もなく第二次大戦が激化し、工事は中止されるが、その後も営団は将来に向けた布石を打った。1944年、現在中野車両基地がある土地を入手していたのだ。

この付近は神田川と善福寺川が合流しており、洪水が絶えなかったという。住居や耕作には使いにくい土地だったこともあり、安価に入手できたらしい。

戦争が終わり、翌年「復興都市計画高速鉄道網」という名前で、5路線からなる地下鉄計画が発表される。ここでは東京湾側から順に1号線、2号線と名付けられており、3号線がすでに営業運転を行っていた銀座線、そして4号線が現在の丸ノ内線に相当するルートだった。


終点は荻窪ではなく中野富士見町のはずだった

4号線の起点は池袋の西側、現在の有楽町線・副都心線小竹向原に近い場所にあり、終点は新宿からまっすぐ西へ伸びて中野富士見町に至っていた。市街地が郊外へと拡大していくことを見込んだ計画だったためもあったが、新宿側の終点が中野富士見町になっていたのは、もちろん戦時中に手に入れていた土地を車庫として活用するためだった。

工事は1951年、池袋側から再開され、3年後に丸ノ内線の名前とともに、池袋-御茶ノ水間が開業した。その後少しずつ路線を延伸し、1959年に新宿まで到達している。

ところがこの間の経済成長のスピードは、多くの人の予想を上回っていた。鉄道の分野でとくに議論に上ったのは、ピーク時には混雑率300%に達していた国鉄(現在のJR東日本)中央線の混雑だった。

これを解消すべく、国鉄はそれまで中野までだった複々線区間を三鷹まで延長するなどの対策に取り掛かったが、それだけでは不十分だった。西武鉄道軌道線をルーツとする東京都電杉並線(新宿駅前-荻窪駅前)は、もともと時間が掛かっていたうえに、自動車の増加でさらに時間が読めない乗り物になっていた。


荻窪延伸で主従関係が逆転


まもなく営団地下鉄に、4号線の荻窪への延伸要望が舞い込む。彼らとしては建設費増大が悩みどころだったが、東京西部の交通問題解決のために受け入れることとした。同時に車庫を建設する土地の西隣にある方南町まで、地域住民の要望に応え伸ばすことになった。

その結果、1961年から翌年にかけて開業した新宿以西の区間は、現在のような丁字型となり、丸ノ内線と直通運転する本線が新宿-荻窪間、支線が中野坂上-方南町間と、主従関係が逆転してしまったのである。線名さえ荻窪線(その後1972年に丸ノ内線に編入)と、荻窪直結をアピールしていた。

当初は荻窪行きが4両編成、方南町行きは2両編成だったが、荻窪線の駅はすべて6両編成規格で設計された。急激に乗客が増加していた丸ノ内線が6両化を進めていたからだ。支線も中野新橋と中野富士見町は、車庫に出入りする車両が客扱いをするので、本線と同じ120メートルが確保された。


方南町駅だけ短いホーム

ところが方南町駅だけは、なぜか110メートルで作られた。丸ノ内線の車両は1両18メートルなので、6両編成でも全長は108メートルにすぎず、「荻窪線建設史(帝都高速度交通営団発行)」によれば110メートルで6両編成列車停車可能とある。しかし実際は終着駅なので車止めなどのスペースが必要となり、現在は本線の6両に対し支線は3両編成に留まっている。



方南町駅を6両編成乗り入れ可能にする改良工事のポスター(筆者撮影)

方南町駅はホーム両端に出入り口があるので、どちらからアプローチしても列車まで距離がある。改札の向こうに電車が見えるのに、その電車に乗れないということも何度かあった。

車両は長らく銀座線と同じ形式を色を変えて用いてきており、支線らしさを醸し出していた。現在は本線用と基本的に同じ02系に統一されたものの、外観は細い黒帯が入るとともに、行き先表示はLEDではなく昔ながらの方向幕を採用。車内では座席端の仕切りがパネルからパイプに変わるなど、細部は微妙に異なっており、80番台を名乗っている。

その80番台が行き来する方南町駅では現在、6両編成の乗り入れと本線への直通運転を可能とすべく、改良工事が行われている。


始まっている6両編成化工事


東京メトロが昨年発表したグループの中期経営計画「東京メトロプラン2018」によると、方南町駅のホーム延伸による池袋方面からの6両編成列車直通運行及び中野坂上駅-方南町駅間の運行形態の見直しを、2019年度に実施予定だという。4年前に発表された「東京メトロプラン2015」では2016年度完成と書いてあったので、作業は遅れ気味だが、すでに一部で工事は始まっている。

方南町駅の出入口は、環状7号線と方南通りが立体交差する方南町交差点角と、交差点から110mほど東に離れた方南通り沿いの2か所となる。いずれも初めて訪れる人は通り過ぎてしまいそうなほど小さく、エレベーターやエスカレーターの用意はない。そこで数年前から、戦隊ヒーロー風のコスプレでベビーカーなどの重い荷物を運ぶ「ベビーカーおろすんジャー」がボランティア活動を実施している。その模様は新聞などでも紹介された。

この状況を改善すべく、交差点付近にもうひとつ出入口を新設することになった。ビルの中に設けられる新しい出入口にはエレベーターやエスカレーターが設置される予定で、ベビーカーおろすんジャーの将来が気になるところだが、多くの人にとって便利になることは間違いない。

出入り口の新設に伴い、現在は線路の延長線上にあった事務室などが奥に移設される予定で、移設後にレールを伸ばし、6両編成の入場を可能とするという順序で工事は進んでいくようだ。


本線直通化で街並みはどう変わる?

方南町支線の6両編成化は、編成統一による合理化という側面もあるが、地元住民にとっては新宿や銀座へ乗り換えなしで行ける利便性がありがたい。ただ一方で、便利になることで庶民的な街並みが失われないか懸念もしている。



方南町駅の出入口(筆者撮影)

方南町は高齢者夫婦が営むパン屋や定食屋など、新宿からわずか5駅という立地からは想像できないほど素朴な店が多い。こうした店の多くは20時頃に閉店するので、22時ぐらいに方南町駅を降りて地上に出ると、地方都市のアーケードのような眺めとなる。駅の改良が完成し、6両編成の車両が本線から直通するようになったとき、この街並みがどうなるかは興味深い。

それを含め、かつては本線として計画されながら、高度経済成長の荒波の中で支線に格下げされた路線が、本線と同格に返り咲こうとしている様子を眺めるのは、貴重な体験ではないかと思っている。


著者
森口 将之 :モビリティジャーナリスト

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