台湾南部、屏東県竹田郷竹田村の竹田国民小学校で24日、日本人女性、水谷雪さんの追悼式が行われた。水谷さんの夫は戦争中に台湾に渡り消息が不明になった。水谷さんは後に、夫は現在の竹田国民小学校の場所にあった竹田野戦病院で亡くなったと知った。その後、水谷さんは33年間にわたり同小学校に図書や奨学金を寄付しつづけた。水谷さんは現地で「Yuki Obajan」(解説参照)などと呼ばれ、慕われていた。日本で22日に死去した。94歳だった。

 水谷雪さんの夫は第二次世界大戦中台湾に渡り、竹田野戦病院で勤務していたが、消息が分からなくなった。後になり、同病院で死亡していたと判明した。竹田野戦病院は戦後、竹田国民小学校になった。

 水谷雪さんが竹田国民小学校に初めて足を運んだのは、1981年8月4日だった。到着して最初にしたことは、ひざまずいて、土を集めることだった。夫の遺灰の代わりにするためだった。

 水谷雪さんはその後、平均で2年間に1度程度は同小学校を訪れ、書籍や奨学金を寄付しつづけた。生徒や学校関係者の前で、日本の歌を披露したり、生徒らと一緒に歌ったりした。水谷さんは地元で「雪婆婆」、「Yuki Obajan」とも呼ばれ、慕われるようになった。

 竹田村は感謝の気持ちをあらわすため、水谷さんを「第1号名誉村民」とした。傅民雄村長自らが作詞・作曲した「Yuki Obajan」の歌を村民の多くが覚え、口ずさむようになった。

 最後の訪問は2009年だった。水谷さんはすでに88歳で、体の自由がきかなくなったためだ。その後は娘の夫が同小学校を訪れて、寄付活動を続けた。竹田村は2013年春、小学校生徒を日本の水谷さんのもとに派遣した。生徒は「Yuki Obajan」の歌の録音を水谷さんに手渡し、「おばあちゃんとまた、歌を一緒に歌いたいです」と伝えた。

 水谷さんは11月22日に死去した。94歳だった。日本では24日正午に告別式が始まった。竹田国民小学校でもちょうど同じ時刻の現地時間午前11時、告別式が行われた。用意された遺影は、扇子の図案の上に、明るい色合いで彩色された水谷さんの顔を描くという、現地風の感覚のデザインだ。参列した人は、日本風に起立して遺影に向って合掌した。告別式の風景も、日本人と台湾人の心の交わりを象徴していた。

 傅村長は、「水谷さんが初めて竹田国民小学校を訪れ、ひざまずいて土を集めた時の姿が忘れられない」と語った。竹田国民小学校の生徒からは「小さいころ、みんなで歌ったり踊ったりして、おばあちゃんに見てもらったことがあります。懐かしいです」、「一緒に歌いたかったのですが、できなくなりました。本当に残念です」などの声が出た。

 水谷さんが竹田国民小学校側に「是非、お願いしたい」と申し出ていたことがある。「自分が死んだら夫から贈られた結婚指輪を、竹田小学校敷地に埋めていただきたい」ということだった。水谷さんは「そうすれば私と夫の魂はいつまでも一緒に竹田の地にいることができますから」と述べた。学校側は、「2人の愛の物語に美しいピリオドを添えたい」との考えで、関連する儀式などの準備を始めたという。

 竹田国民小学校の謝俊明校長は、「水谷さんは夫への愛情を生涯にわたって貫いた」、「私たち竹田村の者に、そして私たち台湾の若者に、学ぶべきことを示してくれた。私たちも感情面や家庭について、節操を固く守る心の力を持ちたいものです」と述べた。

 台湾メディアは「水谷雪おばあちゃん逝去。竹田国民小学校で追悼」、「水谷雪さんの愛は台湾に残る」、「海を越えてつながる心」などの見出しで、長年にわたった水谷さんの寄付行為や夫への愛、そして現地の人々が水谷さんを慕いつづけたことを紹介した。

 竹田村では、水谷さんを記念し、今後も水谷さんから学ぶために、記念品を展示しつづける動きも出ている。

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◆解説◆
 台湾では日本語由来の単語がかなり使われている。多桑(トーサン=父さん)、歐巴桑(オバサン)、運匠(ウンチァン=運転手)、便当(ビエントン=弁当)と言った具合だ。水谷雪さんにたいする「Yuki Obajan」だが、「雪おばあちゃん」の意と考えられる。

 中国語話者は日本語の長母音と短母音の区別が苦手な場合があり、日本語の「チ」の音を「ヂ」のように聞きとることもあるので、「おばあちゃん」が「Obajan」になったという経緯だ。

 台湾では終戦までの日本統治時代に日本語教育を受けた人が日本語世代と呼ばれている。やや若い世代でも、父母が日本語世代である関係で、日本語の単語などを比較的多く知っている人がいる。「Yuki Obajan」については、水谷さん側が伝えたのではなく、現地の人が自然にそう呼び始めた可能性が高い。(編集担当:如月隼人)