本文中でとりあげられなかったが、「日本春歌考」(1967年)も大島渚監督の傑作のひとつ。一言でいえば男子高校生たちの性的な妄想を映像化した作品なのだが、それだけではなく当時の世相風俗やら国家や差別の問題やらさまざまな要素がギュッと詰まっていて、容易に説明を許さない。劇中、雪のなかを白地の黒の日の丸を掲げて行進するデモ隊の撮影は、制定後初めて迎えた建国記念の日(1967年2月11日)にロケが行なわれた。同作の公開はそのわずか12日後であったというから、その素早さに驚かされる。このほかにも大島は、劇映画のなかにドキュメンタリーの要素も積極的にとりこんだ。

写真拡大

今月15日、映画監督の大島渚が亡くなった。エキレビではこれまでにも何人かの著名人の足跡を、作品などを通して紹介してきたが、さて、大島渚という人物はどんなふうにとりあげるのがふさわしいのだろう。映画監督なのだから、当然その監督作品を紹介するのがまっとうなのかもしれない。だが、大島の作品は解説などを読む前に、実際に観て「何じゃこりゃ!?」と驚くのがいちばんという気もする。そもそも下手に要約すると、すっぽり抜け落ちてしまいそうなことが大島作品には多すぎる。

そこでこの記事では、作品そのものの紹介というより、作品をめぐって起こった事件をいくつかとりあげることで、大島の映画監督としての軌跡をたどってみたい。

■「日本の夜と霧」突然の上映打ち切り、直後の結婚式では…
大島渚は1954年に京都大学を卒業後、松竹に入社している。当時の映画会社の撮影所では、完全な徒弟制がとられ、たとえ東大や京大出でも助監督として何年か下積みを経て、そこで才能が認められればようやく監督になれた。大島も5年間、助監督を経験したが、それでも27歳という当時の映画業界では異例の若さで監督デビューを果たしている。デビュー作の「愛と希望の街」(本来のタイトルは「鳩を売る少年」だったが、会社側に変更された)は1959年に公開された。もっとも、その衝撃的なラストなど内容が会社幹部らには不評で、その後しばらく大島は仕事を干されることになる。

それでもすぐにまたチャンスがめぐってくる。翌1960年には「青春残酷物語」、「太陽の墓場」を手がけ、それらが興業的にも成功を収めたので会社側は続けて新作を撮るよう命じた。1960年といえば、日米安保条約の改定に対する反対運動(60年安保闘争)で日本中が揺れた年だ。京大在学中に学生運動のリーダーであった大島は、まだ記憶に生々しい安保闘争、ひいては戦後の社会主義運動を総括する映画を撮ろうと思い立つ。この映画、「日本の夜と霧」をめぐっては、その政治色の濃さから、大島はクレームのつかないようわざとラストシーンをシナリオに書かないまま会社に提出し、強引にクランクインして一気に撮り上げてしまったという伝説がある。もっとも当の本人は、ラストがなかなか決まらなかったのは事実としつつ、会社からクレームがつかないよう早撮りしたことは否定している(『大島渚1960』)。

この映画でメインとなるのは学生運動の元闘士の結婚式で、そこでは友人たちが新郎のかつての行動を弾劾するさまが描かれた。セリフは長くて難解な用語も多く、その様子が長回し(ひとつのシーンをカメラを止めずワンカットで撮る手法)で撮られたため、一場面一場面が非常に緊張感の高いものとなった。なかには俳優がセリフをとちるところまでそのままフィルムに収められている。

まさに大島の意欲作といえる「日本の夜と霧」は、しかし思わぬ憂き目にあう。何と、封切られて4日後に上映を打ち切られてしまったのだ。、松竹側は興行成績の不振をその理由にあげたが、上映打ち切りの前日(10月12日)には社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼少年に刺殺されるという事件が起こっていることから、それが影響しているのではないかと憶測を呼んだ。

大島は自作をめぐるこの騒動のさなか、10月30日に「日本の夜と霧」にも出演した女優の小山明子と結婚している。その結婚式では、あいさつに立った友人たちが次々と松竹の措置を非難する演説をぶつという(式には松竹の幹部らも出席していた)、くだんの映画を地で行くような展開となった。ついには新郎である大島も引っ張り出され、意見を述べている。なお2010年に制作された「THE OSHIMA GANG」という映画(葉山陽一郎監督)では、この結婚式の模様が再現されているので、「日本の夜と霧」とあわせて観るのも面白いかもしれない。

結婚式といえば余談ながら、大島が友人で作家の野坂昭如に殴られ、マイクで応戦したという有名な事件は、1990年に大島の結婚30年を祝うパーティーで起こったものだった。

■“完全犯罪”を達成した「愛のコリーダ
「日本の夜と霧」が上映中止された翌1961年、大島は松竹を退社し、仲間のスタッフ、俳優たちとともに独立プロダクション「創造社」を発足させる。大島はこのプロダクションを拠点に、内容的にも手法的にも冒険を試みた作品を次々と世に送り出したが、1973年に解散するにいたった。この間、大島との意見の対立からプロダクションを離れる者も少なからずいた。かつての盟友で脚本家の石堂淑朗は大島とたもとを分かったのち、文芸誌「オール読物」に「わが敵 大島渚」と題する実録小説を1972年に発表している。創造社の解散はその翌年のことだが、その前後の映画雑誌などでの騒がれ方は、いま読むとどこかロックバンドの解散の過程を思わせたりする。そういえば、後年、マンガ家のみうらじゅんや喜国雅彦らによって結成されたロックバンドはその名も「大島渚」であった。

さて、創造社の解散後、大島は初めて外国資本により「愛のコリーダ」(1976年)を撮ることになる。そもそものきっかけは、創造社時代の1968年に「絞死刑」をカンヌ国際映画祭に出品したときにさかのぼる。映画祭は結局、折からのパリ5月革命の影響から中断されるのだが、このときフランス国内での上映するため、アナトール・ドーマンというプロデューサーが配給を引き受けた。大島の才能に惚れこんだドーマンはその後も「儀式」(1971年)をフランスで配給し、成功を収めている。そのドーマンから大島は1972年に渡仏した際、ポルノを撮らないかと持ちかけられた。帰国した大島はすぐに手紙を書き、いくつかアイデアを提案する。そのひとつが、1936年に起こった阿部定事件の映画化であった。

ドーマンはこのアイデアを気に入りすぐに撮影を依頼したが、阿部定が石田吉蔵との情事の果てに起こした現実の事件をどう映画として撮るか、大島はしばらく悩むことになる。彼は考えに考えた末に、本当の性行為のシーンを含む、いわゆるハードコア・ポルノとして撮ろうと決意する。もちろん、当時ヘアヌードすら解禁されていなかった当時の日本にあって、性行為をもろに撮るなどといったことは法律上完全にアウトであった。そのため制作には慎重に慎重が重ねられた。京都の撮影所で撮ったフィルムは、税関を突破するため未現像のままフランスに送られ、現地にて現像、編集された。初めて上映されたのは1976年のカンヌ映画祭で、観客が殺到し、主催者側が上映回数を増やすという異例の策をとるほどであった。ただし日本では、肝心の部分をカットしたりボカすなど処理を加えられての公開を余儀なくされた(のち、2000年に最低限の修正を加えたバージョンが公開された)。

こうして“完全犯罪”は達成されたように思われたが、日本公開と前後して出版された、スチール写真やシナリオを収めた書籍『愛のコリーダ』は、わいせつ物として摘発され、1977年には東京地検に起訴されてしまう。大島はこれに敢然と立ち向かう。それまでの表現物をめぐるわいせつ裁判ではもっぱら「わいせつか芸術か」が争点となったが、彼はこの映画はわいせつであると認めたうえで、「わいせつがなぜ悪いのか?」と国に対し逆に問いただしてみせた。裁判では結局、無罪を勝ち取っている。

大島はこの作品をきっかけに活動の場を世界に広げることになる。「愛のコリーダ」ではスタッフも出演者も全員日本から出したが、その後の「戦場のメリークリスマス」(1983年)ではスタッフ・キャストとも日本と各国からほぼ半々の割合で出した。さらに「マックス、モン・アムール」(1987年)では大島以外スタッフもキャストもすべて外国人となる。新作ごとに手法のみならず新しい環境を求める、大島の旺盛な冒険心がうかがえよう。

■キャスティングという“事件”
「戦場のメリークリスマス」は、大島の作品のなかでももっとも一般的に知られる作品だろう。坂本龍一とビートたけしが、同作への出演(坂本は音楽も担当)を機に映画界に進出したことはよく知られるところ。しかし彼らが扮したヨノイ中尉とハラ軍曹は、当初べつの俳優が演じる予定であった。大島によれば、少なくとも撮影の前年(1981年)には緒形拳と滝田栄がその有力候補であったという(『大島渚著作集』第3巻)。しかしいずれもスケジュールが合わなかったため断念している。

緒形と滝田もすばらしい俳優ではあるが、大島作品のイメージとはちょっと違うような気もする。何より演技経験のない素人を初期作品より好んで起用していた大島のこと、坂本とたけしが抜擢されたのは当然の帰結だったのではないか。当時たけしは、何本ものレギュラー番組を抱え多忙をきわめていたが、大島自ら撮影スケジュールを組んで、たけしを引っ張り出すことに成功した。

ロックスターのデビッド・ボウイの出演もあいまって、「戦メリ」は話題作となった。これがプロの俳優を主演に起用していたらここまで脚光を浴びなかったかもしれない。1983年のカンヌ映画祭では最高賞であるパルム・ドールを受賞するのではないかとの下馬評も高かったが、このとき実際にパルム・ドールを獲得したのは奇しくも緒形主演の「楢山節考」(今村昌平監督)であった。

もともと予定されていた俳優が何らかのアクシデントで出られなかったということは映画界では珍しくない。しかし「戦メリ」の場合は反対に、アクシデント的に当初の配役が流れたため、ある意味で最適のキャスティングが実現したといえる。同様のことは、遺作となってしまった「御法度」(1999年)でも起きた。96年に製作が発表された「御法度」だが、直後に大島は脳出血で倒れてしまう。医者からは完全に治ることはないと宣告されたものの、懸命のリハビリにより復帰を果たす。あらためて制作に取りかかるに際して、大島の前に現れたのが、俳優の松田優作の長男・松田龍平であった。自分と同じく6歳で父親を亡くした松田に大島はすっかり惚れこみ、演技経験はほとんどない彼を主演に据えた。ここまで来ると、大島は演者との出会いに関しても、運というか才能を持っていたのではないかと思わせる。

このほかにも大島渚をめぐる“事件”としては、日本と韓国の知識人たちが関釜フェリーの船上で討論した際の「バカヤロー発言」(1984年)など、映画を離れても事欠かない。しかし映画史から見れば、彼が作品ごとに新しいことに挑戦し、観る者を驚かせ続けたことこそ、大島の起こした最大の事件といえるのではないか。以前からそれなりにその作品は観てきたつもりだったが、今回あらためて何作かまとめて観て、「あ、映画でこういうこともやれるんだ」と思うことしきりであった。ぼくとしては、何年か前にネット配信で観た「忍者武芸帳」(1967年)をスクリーンで再見したいところ。白土三平の劇画を実写化でもアニメ化でもなく、原画から各コマを撮影して再構成されたこの映画は、やはりスクリーンで観てこそ公開時に観た人たちの衝撃を追体験できるというものだろう。(近藤正高)