発売中の公式本『北斗の拳vs蒼天の拳』。なんだかんだ言っても北斗は原作の漫画版が一番面白いって!(越中調に)

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2007年4月18日、ラオウの葬儀「昇魂式」が東京・高輪の寺院(高野山東京別院)でとり行われました。ラオウといえば『北斗の拳』の中でも屈指の人気を誇る、漢(おとこ)の中の漢。強敵(とも)の中の強敵であります。世紀末に覇を唱え、命を賭して己の信念を貫いた姿は、北斗ファンに鮮烈な印象を残しました。そのラオウの葬儀というのですから、北斗ファンなら「是が非でも参列せねば!」と思っても不思議ではありません。ところが、熱烈な北斗ファンであるはずの私は、この葬儀に関してほとんど興味が湧きませんでした。

原因はいくつかあります。そのひとつは、ゴールデンウィークに公開される映画の"プロモーション臭"の強さです。そもそも何故、今になってラオウの葬儀なのか?ということを考えた時、どうしても宣伝活動を手がける、企業サイドの思惑が見え隠れしてしまいます(悪意はないのでしょうが)。それと「ラオウの葬式をあげる」という行為そのものにも違和感を覚えます。

確かにラオウの死は、"週刊少年ジャンプ"連載当時においても相当ショックな出来事でした。ですが、ラオウの「我が生涯に一片の悔いなし!!」という最後の言葉からも分かるように、彼自身は己の人生を完全肯定しています。彼にとってケンシロウとの死闘も納得できることだったわけです。その堂々たる宣言によって、ラオウの死というエピソードは、物語の中で完璧に完結してしまっているのです。

「架空のキャラクターの葬儀」という部分にも触れておきます。これに関しては、過去にも力石徹(※1)やマーグ(※2)の例が有名ですが、彼らの葬儀の裏には「悲劇的な死」に対する、納得できない想いというものが潜んでいました。力石は矢吹丈との激闘を制しながら昏倒し、マーグは弟のマーズとの戦いを強いられ絶命しています。彼らの葬儀には、悲劇を嘆くファンの心を鎮めるという意味合いもありました。

ところが、ラオウには無念の死とか、悲壮感といったネガティヴなイメージはありません。むしろ、あの最後は男子の本懐といえるものでしょう。さらに、なんとなくスルーされていますが、ラオウは基本的に「悪役」です。民衆を恐怖で支配し、逆らう者は容赦なく殺す非情の世紀末覇者なのです。ラオウと闘って死んだレイやトキの葬儀というのなら別ですが、悪逆の限りを尽くしたラオウに丁重な葬儀は似合わないと思うのです。こういった様々な要素が、ラオウの葬儀に対する違和感の原因になっているのだと思います。

(※1)力石徹:ボクシング漫画『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈のライバル。階級の異なる矢吹と対戦するために行った過激な減量が、結果として力石の命を縮めてしまう。
(※2)マーグ:ロボットアニメ『六神合体ゴッドマーズ』の主人公・マーズの兄。マーズのために敵中でスパイ活動を行っていた。後に洗脳され、弟の敵として戦うことになる。

私は今回のラオウの葬儀のすべてを否定しているわけではありません。参列者はなかなか豪華(※3)ですし、一般参加もできるようなので、特に最近のファンにとってはいい思い出になるような気もしています。ただ、ラオウの気持ちを考えた場合、彼がこういった式典を望むようには思えませんし、ファンも真剣にラオウの冥福を祈りたいのかと聞かれたら、ちょっと困ってしまうと思うのです。満足して逝ったラオウには、心の中で合掌するくらいのささやかな葬儀がふさわしいのではないでしょうか。

(※3)ラオウの主な葬儀参列者:原哲夫(漫画家)、武論尊(原作者)、宇梶剛士(俳優)、谷村新司(葬儀委員長)、角田信朗(演武披露)。

ここで葬儀云々という前に、ハッキリさせておきたいことがあります。それは新作アニメにおけるラオウの声優が、なぜに「宇梶剛士」なのかという点です。去年公開された映画『真救世主伝説 北斗の拳 ラオウ伝 殉愛の章(全5部作中の1作目)』は私も劇場に足を運びましたが、ラオウの声には我が耳を疑ってしまいました。元暴走族の総長だけあって、怒号や叫び声はまあまあ様になってましたが、通常の演技部分は棒読み気味でたまりませんでした。これは正直、ミスキャストだったと思うのです(OVA『ユリア伝』・ユリアの石田ゆり子も結構キツい)。