香港の2階建てバス。鉄道と競合するルートでも「座れる通勤手段」として浸透している(写真:winhorse/iStock)

座れるバスで快適な通勤を――。東急電鉄は1月下旬から、東急田園都市線たまプラーザ駅と渋谷駅を結ぶ「ハイグレード通勤バス」の実証実験を開始した。Wi-Fiやトイレの付いたバスで定員は24人。電車より時間はかかるものの、確実に座って移動できるという快適性が売りだ。

こういった「電車よりも楽なバス通勤」が定着している地域がアジアに存在する。香港だ。

通勤客用の高スペックな路線バス網が全域に張り巡らされており、最長の路線は全長75km、最も所要時間が長い路線は2時間を超える規模。起点から終点までの表定速度は最速で45.8kmに達する路線もあり、楽なだけでなく「電車より速い」ことも多い。

香港の通勤事情は?

通勤電車や地下鉄といった軌道系交通があるにもかかわらず、なぜ長い距離を高速で走るバスが運行されているのだろうか? そこには、香港ならではの特殊な通勤事情が垣間見える。

世界の多くの大都市では、渋滞解消を目的に地下鉄などの鉄道網を敷設して大量高速輸送を実現している。香港もその例に漏れず都市鉄道網が発達しており、2019年1月現在、その規模は全部で11路線、全長174.4km・93駅を運営、1日の利用者数は500万人に達するアジア有数のネットワークを持つに至った(地下鉄網だけでなく、近郊電車網も含む)。

しかし、通勤のピーク時間帯には東京に負けないほどの激しい混雑が起こる。これは、オフィスが集まるエリアが九龍半島の南側先端と香港島北側の一部に集中しており、限られた地域を目がけて香港中から一気に人が集まるという事情による。もちろんこれ以外のエリアにもオフィスや学校が設けられているが、中心街の稠密度は尋常ではない。

オフィスエリアが集中しているという背景もあり、香港の中心街に近い地域の住宅価格は、世界で1、2を争う高水準まで上がってしまった(中国本土からの投機的な資金の流れによる、という見方もあるが)。その結果、街から遠く離れたベッドタウンに居を移す人々が増えた。

しかし、郊外に住む人々が電車に乗ってオフィスが集まる中心街に行くには乗り換えが必要で、その結節点が極端に混み合う状況が日常的に起こっている。乗り換え駅である九龍塘駅や金鐘駅は駅の中を歩くのも大変なほどで、通勤にはかなりの体力と時間を要するわけだ。しかも長い夏の高温と湿気(さらに冷房が強いので、室内外の温度差、湿度差が日本よりきつく感じる)は身体にかなりこたえる。

このように、通勤事情は決していいとはいえない。そこで生まれたのが、ベッドタウンと市内中心部とを結ぶ「長めの距離を走る路線バス」だ。

高速経由のバスがスムーズな理由


香港島の銅鑼湾を走るバス。香港では30km以上の長距離を走るバスも少なくない(筆者撮影)

香港には幸いなことに、1997年の「中国返還」以降に整備された高速道路網がある。これのおかげで、郊外のベッドタウンと中心部との所要時間が随分と短縮された。高速道路の通行料は基本的に無料だ。

だが、九龍半島と香港島を結ぶ3本の海底トンネルの通行料が高価なうえ、駐車料金も高い。そのため、自家用車で通勤しようと考える人が大都市にしては比較的少なく、郊外を通る高速道路の渋滞はそれほど厳しくない。

また、海底トンネルへのアプローチ部分に設置されている「公共バス向け優先レーン」のおかげで一般車両と比べ圧倒的に早く通過できる。そんな背景もあって、朝の通勤時間帯でも郊外からの「長めの距離を走る路線バス」は安定した所要時間で中心街へと入ることができる。

香港における公共交通機関の運賃支払い方法もこれらのバスを使いやすくしているともいえる。香港には区間定期券が存在せず、非接触式ICカード「オクトパス(八達通)」で随時支払うシステムのため、日々の時間や都合に合わせて交通機関を選択できるという柔軟性も、バス利用者増加の後押しになっているといえそうだ。

起点から終点までの距離が20kmを超える、このバスの最大のメリットは「自宅の近くで乗り込んだら必ず座れ、勤務先の目と鼻の先で降りられる」ことにある。

いくつか具体的なルートを出してみよう。ベッドタウンがある街は日本人が観光で行くエリアからは結構離れているので馴染みのない地名かもしれない。「長めの距離を走る路線バス」にはさまざまなルートがあるが、競合する鉄道があるルートを主に拾ってみた。

ベッドタウンの新界地区にある元朗から、中心市街地である香港島の銅鑼湾まで行く場合、鉄道では郊外電車のMTR西鉄線と地下鉄の東涌線、港島線を乗り継いで約50分かかる(乗り継ぎによって時間は変わる)。運賃はICカードの場合27.5香港ドル(約390円)だ。

この区間を、バス(KMB968系統)は約65分で直行する。運賃は23.4香港ドルと鉄道より安く、平日の朝6時過ぎから11時台までは3〜8分間隔と高頻度の運行だ。

鉄道では4路線を乗り継いで約60分かかる新界地区の上水から香港島の湾仔までも、バスは乗り換えなしで65分ほどだ。運賃は鉄道がICカード利用の場合20.8香港ドルなのに対してバスは24.3香港ドルだが、こちらも朝は8〜9分おきに運行している。

ベッドタウンと中心市街地を結ぶこの手のバスの停留所の配置は非常にユニークだ。住宅地では、団地1棟ごとに小まめに1〜2分間隔で止まるのに対し、ひとたび近くのインターチェンジから高速道路に入ると、到着地エリアのオフィス街までほぼ無停車。中心市街地に入ると再び細かく停車する。

さながら「△△地区に通勤する〇〇団地住民の巨大な乗合タクシー」といえるくらい、乗降地点がピンポイントで定められている。

遅れや積み残しはあまりない

香港のバスは基本的に2階建てだが、上層(2階)は立ち席不可。下層(1階)にも立つ場所はほとんどないので、たいていの人は座って行けるというメリットは大きい。


2階の空席案内表示(右側の数字)をテスト中の車内。Wi-Fi装備はすでに一般的だ(筆者撮影)

「長めの距離を走る路線バス」の運転間隔は、ラッシュ時は需要の多い路線で6分、少なめのところで20分だ。15分を超えると「ずいぶん待たされる」感じとなるが、需要予測に基づいてダイヤ調整されており「積み残し客」がバス停にたまって大変、といったことはあまりないようだ。

「混んでいても電車のほうが絶対に速い」という状況ではバスに勝ち目はないが、渋滞による遅れの問題が少なく、かつ必ず座れるとなれば、電車でなくバスに利用者が流れても不思議はない。

ところが、速さで明らかに電車に負ける競合ルートでもバスが走っている路線がある。わかりやすい例として挙げられるのが、香港国際空港と中心部を結ぶバス路線だ。

鉄道の「エアポートエクスプレス」は確かに快適だ。運賃は片道100香港ドル(約1400円)からとやや高いものの、市内のターミナル駅に着いてから地下鉄への乗り継ぎが無料だったり、周辺の主要ホテルへの無料バスが出ていたりと至れり尽くせりである。

しかし、充実した高速道路網のおかげで、地下鉄を乗り継ぐことを考えればバスは意外に速く、エアポートエクスプレスの半額ほどの値段で目的地へたどり着ける場所も多い。現在の空港が開港して21年目となるが、空港を発着するバス路線は減るどころか運転頻度も路線も増えているので、分厚い支持層がいると考えられよう。

高速鉄道駅でも地下鉄と対決

さらに、昨年秋に開業した中国本土とを結ぶ高速鉄道のターミナル、西九龍駅でも、目の前に駅がある地下鉄と真っ正面から対決する快速バスルートが3本設けられた。西九龍駅がオフィス街から若干離れた新市街区につくられたという事情があるにせよ、乗り換えのない快適な移動を求める人たちのニーズを取り込もうとする動きは非常に興味深い。


鉄道と競合する路線には高性能な新車が投入されている(西九龍駅バスターミナルにて筆者撮影)

しかも、バスのほうが地下鉄より運賃が2〜3割高いという強気の姿勢を打ち出している。こちらも「群衆に揉まれることなく、ドアtoドアで快適に行ける」というメリットを生かした乗り物であることは言うまでもない。

香港の2階建てバスは、ほぼ全車に無料Wi-Fiを完備しているほか、車内での携帯電話の通話も認められているので、急ぎの用事ができたときでも移動しながら十分打ち合わせができる。座って本を読んだり、メールを打ったりできるのは、満員電車にはない有意義な時間の使い方ともいえるだろう。

「鉄道」という単一のオプションにとらわれない柔軟な発想が支えている香港の「ちょっと長めの通勤バス」。日本、特に首都圏とは道路事情が異なるとはいえ、座れる通勤特急やライナーのない鉄道沿線などでは「座れるバス通勤」という手段がもっと考えられてもいいかもしれない。