「モドゥン・チョール」はアラブ音楽の「ナイ(ネイ)」と同様の構造と奏法の笛の1種だが、演奏者は低音のうなり声を発しながら、笛の音で旋律を奏でる。なお「モドゥン・チョール」と同様の楽器と奏法は、ヴォルガ川近くに住むバシキールという民族も伝えている。

 さらに言えば、モンゴル民族のうち西部部族が伝えてきた2弦の撥弦楽器「トプショール」について、筆者は伝承者から「この楽器はトプショールまたは、トンショールという。『トプ』とか『トン』は弦をはじいた時の音。『ショール』は『チョール』と同じ」と聞いた。

 ちなみに、モンゴル語では「チュ(ch)」の音と「シュ(sh)」の音が交代することがときおりある。楽器呼称の起源が「トプ(トン)」+「ショール(=チョール)」であるかどうかは確認できていないが、少なくとも伝承者自らはそのように認識していた。

■ 新疆ウイグルで最後の伝承者が他界、「ホーミー」の伝統は絶えた

 さて、ここまででお分かりになったと思うが、中国領内に住むモンゴル族のごく一部は「ホーミーの技法」を伝えていたが、「ホーミー」という「呼称」は用いられていなかった。あくまでも「チョール」であり、そして他の「チョール」と区別する場合には「ホーロイン・チョール」と呼んでいた。

 私も1990年に先生から教わった新疆ウイグルのアルタイ市郊外のハンダガードという村を訪れて、たった1人の「ホーロイン・チョール(ホーミー)」伝承者に技を披露してもらい、録音もした。ところが、その伝承者は92年までに亡くなったという。つまり中国領内で「ホーミーの伝統は途絶えた」ことになる。

■ 内モンゴルの音楽家はウランバートルに行きホーミーを「学習」

 ここで問題になるのは、中国がなぜ「ホーミー」を自国の伝承として登録を申請したということだ。

 モンゴル国で、ホーミー発祥の地は同国西部の「コブト(ホブト)」とされている。つまり、同国でも西部地域特有の伝統だった。しかしモンゴル政府は早い時期からホーミーを重要な伝統と認識し、同国西部とは別の文化圏に属する首都のウランバートルでもホーミーの演者を育成した。

 ホーミーは国外の専門家や民族音楽ファンの間で有名になった。日本では1978年に開催された「アジア伝統芸能の交流(ATPA)」でモンゴル人演者が「ホーミー」を披露し、80年に刊行された同活動の英文報告書にもホーミーについての研究成果が載った。レコードやのちにはCDなども発売されるようになった。

 そして、内モンゴルを訪れる外国の音楽研究者や民族音楽ファンが、ほとんど口をそろえるようにして「ここにはホーミーは伝わっていないのか」と尋ねるようになった。私が内モンゴルを初めて訪れたのは1984年だが、その時には「内モンゴルにはない」とあっさりと言われた。

 モンゴル国は1992年まで「モンゴル人民共和国」という名の社会主義国で、旧ソ連時代にはソ連の忠実な衛星国だった。中ソ対立のために、中国領内のモンゴル族と、モンゴル国のモンゴル人の交流は厳しく制限されていた。

 しかし中ソが和解に向かったことで、国境の両側のモンゴル人の交流は活発になった。内モンゴルの音楽家が1990年代半ばごろから相次いでウランバートルに行き「ホーミーの歌唱法」を学習した。そして内モンゴルに戻り、ステージなどで演じるようになった。

 それまでに知られていなかった歌唱法は好奇心と驚きをもって歓迎された。そして内モンゴルの演者がホーミーを「モンゴル民族の古い伝統」と紹介することが一般的になった。

 内モンゴルでホーミーの演者が登場し、盛んになったのは事実だが、あくまでも他国からの「輸入品」だ。伝承としては、もともと存在しなかった。そのことを熟知する専門家もいたが、中国はユネスコに「無形文化遺産」として申請した。そして認められた。これが「ホーミー登録」の経緯である。