堀江あき子編『怪獣博士! 大伴昌司「大図解」画報』河出書房新社
現在、弥生美術館で開催中の「奇っ怪紳士!怪獣博士! 大伴昌司の大図解展〜一枚の絵は一万字にまさる〜」(会期は2012年9月30日まで)の公式カタログ。大伴昌司の手がけた怪獣図解、「週刊少年マガジン」のグラビアページでの大図解シリーズなどの関連図版をふんだんに掲載するほか、少年時代に大伴の仕事に大きな影響を受けたというみうらじゅんのインタビュー、紀田順一郎、横尾忠則、石川喬司、赤田祐一、大野茂各氏の寄稿が収められている。

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マンガ週刊誌の表紙といえば現在ではアイドルが出てるもの、というのがほぼ常識となっている。しかしいまから42年前、1970年の「週刊少年マガジン」は違った。この年の5月31日号から断続的に表紙のデザインを横尾忠則が手がけているのだ。

いまは画家だが、当時の横尾はグラフィックデザイナー兼イラストレーターとして若者たちから圧倒的な支持を受けていた。その横尾は「マガジン」の表紙において、自ら絵を描くのではなく、既存のマンガなどからカットをそのまま引用するという今風にいえばサンプリング的な手法を採った(そのすべての表紙はこちらのブログで見られる)。最初に手がけた号では、同誌で連載中だった『巨人の星』の主人公・星飛雄馬が泣きながら走りよってくるカットに、横尾の手になる筆文字で連載タイトルや記事の見出しが書き加えられている。だが何とこれが白黒で、ほかの色が一切使われていなかった。そのためゲラ刷りが出てきた段階で版元の講談社では上層部から反対意見も出たようだ。そこをときの「マガジン」編集長の内田勝が何とか押し通して日の目を見たという。

横尾忠則による「マガジン」の表紙はおおいに話題を呼んだものの、結局のところ9回しか続かなかった。とある本での横尾の証言によれば、新年号のために谷岡ヤスジのマンガを用いたデザインがまたしても講談社内で問題となり、結果的に没にされたのが原因らしい。一方で横尾の提出したデザインがあまりに過激で使えなかったという内田勝の証言(竹内博編『証言構成 OHの肖像 大伴昌司とその時代』所収)もある。もっとも横尾と内田の証言は時期的にやや食い違いがあり、内田が語っているのが新年号用の表紙だったのかどうかはいまいち判然としないのだが。

それはともかく、「マガジン」の表紙に横尾忠則を起用するというアイデアは、同誌編集部ではなく、ひとりのフリーランスの人物によるものだった。その人物の名は大伴昌司という。大伴は60年代後半から70年代初めにかけて「マガジン」の巻頭グラビア――「大図解」「大画報」などと呼ばれた――で数々の名企画を手がけたことで知られる。くだんの星飛雄馬の表紙の号では「横尾忠則の世界」と題する特集の企画・構成を担当している。

現在、東京都文京区の弥生美術館では彼の業績を回顧する「奇っ怪紳士!怪獣博士! 大伴昌司の大図解展〜一枚の絵は一万字にまさる〜」が開催中だ(会期は9月30日まで)。またこの展覧会の公式カタログとして堀江あき子編『怪獣博士! 大伴昌司「大図解」画報』も河出書房新社から刊行されている(先の横尾忠則の証言が載っているのもこの本)。

1973年に36歳で亡くなった大伴昌司は、その短い生涯のあいだにじつに厖大な仕事を遺した。彼に対しては編集者、あるいはマルチプランナーという肩書きをつけられたりもするが、その仕事は多種多様でどうもひとつの肩書きには収まりそうにない。今回の展覧会はまず、ある世代にはもっともよく知られた仕事であろう、ウルトラ怪獣の図解に関する展示から始まっている。私が行ったときには、夏休み中の小学生たちがメモをとっていたり、子供連れのおとーさんが展示物を指しながら熱心に解説していたりとほほえましい光景が見られた。

この怪獣の図解ももとはといえば「マガジン」で開始されたものだったが、やがてこれが書籍にまとめられるなどして怪獣ブームの一端となる。現在の皇太子が最初の小遣いで買ったのも、大伴の監修した『怪獣図鑑』だったとか。展覧会では、大伴による怪獣図解の下図(ラフスケッチ)が多数展示されている。この下図をもとに挿絵画家たちはイラストを描いたというわけだ。その絵はお世辞にもうまいとは言いがたいが、これでもかというばかりに描きこみがなされ、彼のデータへの偏執ぶりがうかがえる。

大伴による怪獣図解の特徴は、実在しない怪獣たちの身体のしくみを解剖図で説明するなどしてリアリティを与えたことだった。円谷プロ(当時は円谷特技プロといった)の設定をベースにしているとはいえ、それに独自の解釈やデータを加えたりして徹底的にディテールを追求したことこそ大伴の真骨頂であった。いまやアニメなどでは、物語の本筋とは関係のないところまで設定があったり、ファンのあいだでもやたらと設定にこだわる傾向が見られるが、大伴はその元祖だったといえるかもしれない。

展覧会ではさらに、前出の「マガジン」の大図解に関する展示が行なわれている。「マガジン」の大伴の仕事のなかでも、当時より高い評価を受けたのが「情報社会」という特集(同誌1969年4月13日号)だ。そこではたとえば、「情報社会の花形 電話」と題して、電話を使った消火システムが大きくとりあげられている。このうち消火システムの一部である「自動監視装置」については《へやのてんじょうにあり、異常な温度や色をとらえると、電話を通じて中央情報公社に伝える装置だ。また、赤外線兼用で、夜などはどろぼうの侵入などもとらえる》といった解説が書かれている。これって、いまのセキュリティシステム(吉田沙保里がCMやってるやつとか)そのものではないだろうか。これ以外に紹介されているファクシミリ新聞もカード式電話も、その後実現し、現在ではさらに進化をとげたものばかりだ。

「情報社会」という特集がいまひとつ画期的だった点は、遺伝子をも情報伝達の手段としてとりあげたことである。まだDNAの二重らせん構造が解明されてから16年しか経っていなかった頃だ。これほど専門的な事柄が少年向け雑誌でイラストを用いてわかりやすく説明されたことは、当時驚きをもって迎え入れられた。《おそらく、三十歳以上の読者の中でDNAを知っている者はほとんどあるまいが、子供たちは、その働き、仕組みを知っているばかりでなく、電子顕微鏡写真でその具体的なイメージさえ持っている》と書いたのは、若き日の立花隆である(「『少年マガジン』は現代最高の総合雑誌か」、「諸君」1969年9月号掲載)。

「マガジン」編集長の内田勝は、マンガを“テレビの印刷媒体化”ととらえていた。マンガがあくまでフィクションなのに対し、ノンフィクションの情報もまた、テレビの印刷媒体化が可能ではないか……という考えから生まれたのが、大伴による大図解のシリーズであったという(前掲、『OHの肖像』)。大伴はこの仕事において、企画から取材、執筆、レイアウト指定まであらゆることをこなした。取材でかき集めた厖大な写真やデータから取捨選択して、それらを的確なビジュアルをもってわかりやすく解説した大伴昌司は、まさに情報社会の先達だったといえるだろう。大伴と仕事をともにした一人、画家の遠藤昭吾は《大伴昌司という人は莫大な知識量を持っていたんだけど、それ以上に、何をどこに行って調べればわかるかというネットワークを持っていた人だと思いますね》(同上)と彼を評している。

「マガジン」で大伴の手がけた大図解のテーマは、前出の「情報社会」のような未来予測ものから、妖怪、映画、CM、SF、ホラー、戦争、大阪万博、エスニック文化など多岐に及んだ。ちなみに展覧会の副題にある「一枚の絵は一万字にまさる」とは、「劇画入門」と題する特集(同誌1970年1月1日号)で掲げられたフレーズからとられている。同特集は劇画を一種のメディアととらえ、その方法論や技術論を解明したものであった。

ただ、今回の展覧会でちょっと残念だったのは、大図解シリーズの各回が、扉だけとか誌面の一部だけとか断片的に紹介されるにとどまっていたことだ。欲を言えば、これら特集のどれかひとつだけでも全ページが展示されていたのなら、大伴の編集術がもっと理解できたように思う。たとえば、「大空港」という特集(「週刊少年マガジン」1971年1月17日号)では、羽田空港で2週間にわたる泊まりこみ取材を敢行、このとき大伴は、滑走路の凸凹、金魚の空輸の仕方、スチュワーデスのハンドバッグの中身にいたるまで、事細かに撮影項目をリストアップしていたという(大野茂「熱きジャーナリスト魂」、『怪獣博士! 大伴昌司「大図解」画報』所収)。実際の誌面と合わせて、こうしたロケ資料も見たかったところである。

もっともこの展覧会が、大伴昌司の仕事の全貌を知るのにうってつけの機会であることはまちがいない。雑誌などメディアに興味のある人は必見ではないでしょうか。(近藤正高)