美は、受け取る側の感度・咀嚼力・創造力に任されている。とすると、「美の生涯享受量」(LGPB;Lifetime Gross Perception of Beauty)というのは、個人個人で天地ほどの差が出てくるだろう。

 “Beauty is in the eye of the beholder.”とは、英語にある表現だが、一般的には「美は見る者の目に宿る」と訳されているらしい。私は「美はそれを見つめる瞳の中にある」としたほうが好きだ。
 春に爛漫と咲く桜は美しい。白銀の冠を戴き雄大にそびえる富士の山は美しい。これらは万人にわかりやすい美だ。
 それと同じように、近所の雑木林を歩いて見上げる冬の木々の、魔女の手の甲に走る血管のような枝々も私は美しいと思う。そして、地面に落ちもはや脱色しカラカラに朽ちた葉っぱも美しいと思う。

 美は、“属性”(事物が有する性質)ではない。美は、他がそれを美しいと感受してはじめて美になるのだ。ゴッホの絵は美しいだろうか?……彼の生前は美しくなかったが、死後、美しくなった。
 美は、受け取る側の感度・咀嚼力・創造力に任されている。とすると、「美の生涯享受量」 (LGPB;Lifetime Gross Perception of Beauty)というのは、個人個人で天地ほどの差が出てくるだろう。
 私が興味を覚えるのは、同時代の個人を比べて誰がLGPBが多いか少ないかということではない。小林秀雄が、「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」 (『無常という事』より)と言ったように、現代人のLGPBは、はたして過去の人びとに比べてどうなのかという点だ。

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