巨人ドラ2→建設業で社長に 経営23年、元プロの肩書出さず…「自分が自分でないよう」それでも感じる喜び――スチールエンジ・松谷竜二郎
巨人、近鉄でプレー後に経営者となった松谷竜二郎氏
プロ野球の読売ジャイアンツ、近鉄バファローズでプレーした経験を持つ松谷竜二郎氏は、東京都中央区八丁堀に本社を置く建設会社、スチールエンジで代表取締役を務めている。1991年の創業以来、スチール(鉄)を扱う技術者集団として歩み続ける同社の、2024年12月時点での売上は約150億円、グループ会社の総売上は約250億円であり、元プロ野球選手がこれだけの規模の会社を率いる経営者になるケースは少ない。全く別の世界で経営者の道を歩むに至った経緯や、選手時代の経験などについて聞いた。(取材・文=元永 知宏/前後編の前編)
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1988年ドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受けて入団。斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄の三本柱を中心に、常にセ・リーグの優勝争いをリードしていたチームで即戦力として期待されたが、強力な投手陣に割って入ることができなかった。
「幼い頃から憧れていたプロ野球選手になれたのだから、死ぬまでやりたかった。でも、プロ野球の景色を見ることはできましたが、入り口に立っただけでした」
巨人に在籍した6年間で3勝しか挙げることができず、1995年に近鉄バファローズに移籍し、3年後にはユニフォームを脱いだ。プロ野球での通算成績は4勝4敗1セーブに終わった。
「私も一緒にプレーした原辰徳さんであれば、野球を知らない人でも顔がわかります。レギュラーで活躍した看板選手なら、街を歩いているだけで声をかけられるじゃないですか。でも、私はそうじゃない。
巨人と近鉄バファローズでプレーしましたけど、自分ではプロ野球選手だったとは思っていません。事実としてはあるけれど、会社員としてスタートする時に自分の中で心の奥のほうにしまいこみました」
引退後、プロ野球時代の監督、コーチの紹介で建設会社に就職する。
「建設会社に入った時、ほとんどの職人さんは年下でした。もちろん、私のことは知りません。『おい!』と呼ばれるところから始まって、そのうちに名前で呼んでもらえるようになり、しばらくして『松谷さん、野球をしとったんですか?』と言われることも増えました」
未知の建設業界で苦労がなかったはずはない。
「そのあたりは不感症というか(笑)、あまり感じませんでした。30代半ばで新しい世界に飛び込んだ大変さはありましたが、現場に行って自分も体を動かしながら、いろいろなことを教わりました。
職人さんからすれば30歳を超えている私は若手ではないので、『会社に帰って相談しますね』では相手にしてもらえません。言われたことが理解できて、その場で自分なりに判断できるようになるまでに半年くらいはかかりました」
建設業界の知識も経験もない34歳ははじめ、うまく仕事を進められなかった。
「私も失敗しましたよ。失敗したことで『こうしないとダメなんだ』ということがわかるようになる。いろいろな失敗をしながら、多くのことを覚えました。時には落ち込むこともありましたけど、できなかったことは事実なので、自分で仕事を覚えるしかない。人のせいにはできませんから。
そのうちに、職人さんたちに現場で信頼してもらえるようになりました。松谷は失敗もするけど、誠実にやるということを理解してもらえたんだと思います。それが一番大事ですね」
プロ野球選手の時とは違うしんどさがあったと松谷は言う。
「メンタルよりも、体力的なところ。1年間のうち、休日は1日か2日くらいで、ずっと働いていました。それも、朝は早くて、夜は遅くて。若いからできたという部分はあったでしょうね」
元プロ野球選手としてのロールモデルになりたい
最初に入社した会社が業績不振となり他社に入社。その後、床版の専門工事部門(後のスチールエンジ)を立ち上げ、3年間営業担当を務めた。
「仕事を覚えて、営業成績が伸びてくると、目標を達成する面白さを感じるようになりました。お客さまに提案してそれを受け入れてもらえる喜びもありました。成績が上がってくると、お給料も良くなります。『これだけ稼いでいるんだから』とアピールできますから。成績がいい時は、勝ち続けるピッチャーみたいなもので、毎日が楽しかったですね」
2003年には代表取締役に就任している。39歳の若い社長だった。
「私は経営者になりたいと思っていたわけではありません。会社の人や取引先から『松谷さんがやらんと』と推される形で、引き受けることになりました。その時点で、現場で勝ち続けた時の楽しさはなくなりましたね」
だが、社長を任された時がターニングポイントだったと松谷は振り返る。
「それまでスポーツ新聞しか読んでなかったのに、日経新聞や経営者の本を読むようになりました。やっぱり、経営者として勉強しないとダメですよね。上場企業の社長の話を聞く機会を増やしていきました。そういう席でも自分から野球の話を持ち出すことはありません」
プロ野球を引退してから29年、社長になって23年が経つ。
「社長になれば、全体の数字を見て、言いたくないことも言わないとダメなんですよ。ポジションが変わったことで、自分が自分でなくなったように感じました。プロ野球時代の仲間には『おまえの性格でよく社長をやってるな』と言われますよ(笑)。
社長になってから、自分が営業して売上を伸ばしていた時のようなエキサイティングさは味わえません。でも、社員が頑張ってくれた時には別の喜びを感じています。悲しくなることもあるけど、うれしいこともたくさんありますよ(笑)」
9年間戦ったプロ野球時代の経験がどのように生きているのか。
「私が入団した頃の巨人は、とにかく細かくて、すべてにおいてきっちりしていたんです。投手も入った全体守備練習の時にはもうピリピリしていて……。1000回に1回、いや1万回に1回起こるかどうかのミスに備えてみんなが練習していました。基本を大事にすること、しっかりと準備をすることが本当に大事だと巨人で教えてもらいました。
どんな仕事でも、まず基本があって、そのうえにテクニックがある、ミスをした場合に備えて準備をする。失敗があった時の対応はひとつのサービスみたいなもの。そこで他社と差がつくのかもしれません」
世の中の変化は目まぐるしく、「これまでと同じ」が通用しなくなっている。建設業界も例外ではない。
「私がこの業界に入った時には携帯電話が普及していなくて、まだポケットベルの時代でした。パソコンが出てきて、スマホを持つのが当たり前になって、コミュニケーションも交渉のスタイルもどんどん変わっていきました。
世の中のスピードに合わせて自分たちも変わらないといけない。事業もそのやり方も。今の形がずっと続くことはあり得ないですからね。私たちがいる建設業界も変わっていっています。事業を切ったり離したりしながら、いろいろなことに取り組んでいます」
還暦を過ぎた今、考えることがある。
「僕はプロ野球の世界ではたいした成績を残せなかった。プロと言えるほどの活躍はできませんでしたけど、この世界で『あいつ、やるやないか』というものを残したいですね。元プロ野球選手としてのロールモデルになりたいという気持ちがあります。そのための努力をしているところです」(文中敬称略)
(元永 知宏 / Tomohiro Motonaga)
