漫画家の楳図かずおさん(左)と大の楳図ファンだというエッセイストの酒井順子さん(右)

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漫画家の楳図かずおさんが、胃がんのため10月28日に逝去されました。享年88。「恐怖マンガ」のジャンルを確立する一方で、”グワシ!”のセリフとポーズが有名なギャグ漫画『まことちゃん』など、幅広いジャンルでヒット作品を出し、多彩な才能を発揮された楳図さん。2022年には27年ぶりの新作『ZOKU-SHINGO』を発表し、手塚治虫文化賞の特別賞を受賞。当時87歳だった楳図さんと、楳図さんの大ファンという酒井順子さんとの対談記事(『婦人公論』2023年8月号掲載)を再配信します。******「恐怖マンガ」というジャンルを確立し、多くの作品を世に送り出してきた、漫画家の楳図かずおさん。27年ぶりの新作は、絵画でストーリーを示していく新しい試み。「未来を予言している」ともいわれる楳図作品が生まれた背景について、大の楳図ファンである酒井順子さんが迫ります(構成=篠藤ゆり 撮影=藤原絵里奈)

楳図さんの27年ぶりとなる新作。『わたしは真悟』の続篇ともいわれる、連作絵画

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〈マンガにおけるカンヌ〉で「遺産賞」を受賞

酒井 兄が『週刊少年サンデー』を読んでいた影響もあり、子どもの頃から楳図マンガの大ファンです。今日は満を持して、『楳図かずお 美少女コレクション』刊行時に限定販売されたTシャツを着てきました!

楳図 わあ、ありがとうございます!

酒井 楳図さんはおいくつになられたのでしょう。

楳図 9月で87歳になりますね。梅雨時は、髪の毛がピンパラピンパラヘナヘナしちゃって。

酒井 あらら(笑)。2022年に東京と大阪で開催された「楳図かずお大美術展」では、27年ぶりとなる新作『ZOKU-SHINGO』を発表し、6月にはこの作品を描かれたことで手塚治虫文化賞の特別賞を受賞されました。101点に及ぶ連作絵画をわずか4年で描き上げたそうですが、80代になってからのお仕事ですし、すごく体力を使われたのではないでしょうか。

楳図 僕はなるだけ体力を使いたくないので、作業は1日4時間と決めて、パパパッと上手に描き上げました(笑)。これは、まだ駆け出しで、大阪の貸本出版社で作品を発表していた23歳頃に身につけたワザです。

お金を得るには、たくさんマンガを描く必要があった。でも、そのせいで肩こりと不眠症に悩まされていたので、よい方法はないかと模索したんです。どんな場合も手抜きはいけませんから、ササッと描き、かつ丁寧にという技術を会得しました。集中です。

酒井 新作は、色彩も鮮やかで目を奪われます。

楳図 今回、アクリルガッシュという絵具を使ったのですが、すぐに乾いちゃうんですよ。大急ぎで塗らないといけないから、「ここは、この色にしよう!」と直感力を存分に発揮しました。

酒井 漫画家生活40周年を迎えた1995年から休筆。今回、『わたしは真悟』の続篇ともいわれる新たな作品を27年ぶりに描かれたのには、何か理由があったのでしょうか。

楳図 ずっと働き続けてきたことで、腱鞘炎もひどくなっていたし、絵を描くことに飽きてしまっていた部分もあったように思います。それでマンガから離れて過ごしていたのですが、2018年に《マンガにおけるカンヌ》といわれるフランスの「アングレーム国際漫画フェスティバル」で『わたしは真悟』が遺産賞を受賞しまして。80年代に描いた作品ですが、フランスではわりと最近出版されたのだとか。

酒井 産業用ロボットが意識を持つというストーリーは、まるで今のAI時代を予言しているかのようです。文明社会に対する批判的な視線が、フランスで評価されたのでしょうか?


『わたしは真悟』(1982年)少年さとると少女まりんの出会いが、ある日突然、産業用ロボットに意識を芽生えさせることに。AI時代を予見させる長篇SFマンガ

楳図 知りませ〜ん(笑)。実は賞を獲る少し前に、別件で「展覧会をやりませんか」と声をかけられていたんです。その時はあまり乗り気じゃなかったけど、受賞したことがやはり嬉しくて、「やるわー!」となりました。それと、展覧会の関係者に「もっと未来を見たい」と言われた瞬間に、未来といえばロボット、それなら『わたしは真悟』だなと頭に浮かんで、新作のストーリーができてしまったんです。

酒井 えぇっ! それは「降りてきた」という感じですか?

楳図 うーん。「降りてくる」というのはよくわからないです。というより、自分の中から滲み出てくるのだと思います。

酒井 経験の蓄積から出てくるもの、ということですね。

楳図 そうです。それで、出てきたものに対して、「どうかなぁ」という自分の声が聞こえたら作品にはしない。「それいいね」と聞こえたら、大手を振って前に進む。これだって、たくさん経験しているほうが、直感的に「これはいける」とわかりやすいということだよね。そうじゃなかったら、占い師になっちゃうもん。

酒井 新作が、マンガではなく連作絵画なのはなぜでしょう。

楳図 ストーリーを絵画で展示するやり方が新しいんじゃないかなと思って、今回はそうしてみました。僕は、いつも新しいことをやりたいんです。マンガはいっぱい描いてきたからね。


『漂流教室』 (1972年)ある日、小学校の校舎ごと生徒と教師がタイムスリップ。環境破壊によって不気味に姿を変えた地球をサバイブする子どもたちを描くSFロマン

村の伝説が恐怖マンガのヒントに

酒井 11歳で漫画家になろうと決意したということですが、絵柄は昔から変わらないのでしょうか。

楳図 いや〜、「これぞ自分」というものになかなか辿りつかず、小学生の時から悩みっぱなし。めちゃめちゃ苦労しました〜。

酒井 楳図さんの絵は唯一無二。試行錯誤した歴史があったなんて……。

楳図 僕は、小学5年生の時に『新宝島』を読んで大の手塚治虫ファンになりました。それで漫画家を目指し、中学生でデビューしたいと思うようになったのに、手塚治虫まみれの僕は手塚タッチから離れられなくて。これではいけないと思っていた時、同級生に手塚さんの本を貸したら、「借りた覚えはない」と言って返してくれなかったんですよ。よし、それなら手塚離れしよう! と。

酒井 自分の描き方を模索するきっかけになったんですね。

楳図 はい。いかに自分の絵柄を見つけるか、悩みの第一歩です。それで「こんな感じかな」と、中学2年生の時にグリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』をマンガ化した『森の兄妹』を描き上げました。

この作品と、高校2年生の時に描いた『別世界』が刊行されたけれど、まだまだマンガ界は手塚治虫一色でしたから、出版社から「あなたの絵柄は商業ベースじゃありません」と言われてしまい、後が続かず。じゃあ、怖いマンガをやろうと思ったけれど、世の中ではまだ理解されていなくて。「まつ毛は3本にしてください」という時代でしたから。

酒井 マンガ界には制約が多かったのですね。

楳図 一番下から這い上がっていこうと思って、しばらくは大阪で貸本屋向けにマンガを描いていました。

酒井 将来への不安はありませんでしたか?

楳図 僕、この時に「人生、あたふた焦ってもしょうがない。運にまかせてやるしかない」って、お坊さんみたいな心境になっちゃった。さすが、高野山生まれでしょ(笑)。他人が先にデビューしても羨ましがらない、慌てない。チャンスが来た時にすぐに出ていけるよう準備だけはしておこう、って。

酒井 何歳になっても、人は自分と他人を比較しがちですが、若くして悟りに到達された。

楳図 人と比べてばかりだと迷路に入り込む。1つでも、自分なりの「あっ、これは掴んだ」と思うことに目を向けないと。

酒井 その「これを掴んだ」が、《恐怖マンガ》だったわけですね。なぜ、《恐怖》だったのでしょう。

楳図 家にマンガを読みに来ていた近所の子どもたちを観察しているうちに、怖いシーンばかり繰り返し読んでいることに気がつきました。それならば怖いマンガを描けば人気が出るのではないかと思ったのです。

酒井 観察が恐怖マンガを生んだのですね!

楳図 でも、いざ描こうとしたら、「《怖い》ってなんだろう?」って。僕は幽霊も見たことがなかったから、わからないんですよ。でも、ふと思い出したのが、小学校に入る前に住んでいた奈良県村の伝説「お亀池のへび女」の話です。

小さい頃、寝る前に父が話して聞かせてくれていたのですが、あの時に湧き上がってきた感覚が《怖い》ということじゃないかって。僕のマンガに出てくる「へび女」の原型ですね。

<後編につづく>