閉鎖が相次ぐ孔子学院。日本でも2005年に京都の立命館大学内に設置されたのを皮切りに、早稲田大学など12校の学内に存在する(2024年4月時点)(写真:アフロ)

近年の中国は、孔子学院や孔子平和賞など、孔子の名を冠する国際広報活動を盛んに展開している。この方針について、現代中国に精通する紀実作家の安田峰俊氏は、孔子は中国の知的・文化的優位性をアピールするうえで最も適した人物だと指摘。孔子の利用に躍起になる習近平政権の思惑に迫る。

※本稿は、安田峰俊氏著『中国ぎらいのための中国史』より一部を抜粋・編集したものです。

閉鎖が相次ぐ孔子学院

中国政府肝煎りの教育機関「孔子学院」の名前は、中国にあまり興味がない人でもご存じだろう。これは2004年以降、中国教育部(文部科学省に相当)傘下の国家漢辦のもとで世界各国につくられた中国語や中国文化の教育機関で、多くは現地の大学と提携する形式が取られた。

だが、単なるパブリック・ディプロマシー(公報文化外交)にとどまらない安全保障上の懸念がある施設だとして、近年は日本を含む西側各国で盛んにやり玉に挙げられている。

もっとも、当初の孔子学院は格安で質の高い中国語を学べる施設として、各国で好評だった。新華社によれば、2018年12月の時点では世界の154の国や地域に孔子学院が548校、簡易版の施設である孔子課堂が1193校も展開し、学生数は187万人に達したという。

日本でも2005年に京都の立命館大学内に設置されたのを皮切りに、早稲田大学など12校の学内に存在する(2024年4月時点)。実のところ、私が過去に日本国内の3校で中国語のオンライン講義を受けてみた限りでは政治的な雰囲気は感じなかったのだが、近年の講師陣の身元を調べると、中国政府と非常に近しい人たちが多いことは事実である。

そのため、2020年夏ごろからは西側各国で孔子学院への警戒論が強まり、校舎の閉鎖が相次いだほか、日本国内でも厳しい目が向けられるようになった。

対して、中国政府は孔子学院の運営母体を便宜上の民間公益団体に切り替えたり、施設の名前を変えたりして運営を続けようとしているという。

孔子平和賞、失敗する

孔子の名を冠した、政治色のある中国発の国際プロジェクトはほかにもある。たとえば、2010年12月に中国国内で創設された「孔子平和賞」だ(翌年から主催が香港の団体に引き継がれた)。

孔子平和賞が生まれた契機は、中国民主化運動の精神的リーダーだった劉暁波が、その2カ月前にノーベル平和賞を受賞したことである。当時、中国国内では保守派を中心に平和賞の選出基準が恣意的(反中国的)だとして反発が起き、これに対抗する形で「中国とアジアの平和観と人権観を示す」人物を表彰する新たな国際賞が創設された。

歴代の受賞者は、台湾の中国国民党名誉主席の連戦、ロシアのプーチン大統領、キューバのカストロ議長……と、中国の体制と親和的な海外の要人たちが多くを占めていた。しかし、ほとんどの選出者が受賞を固辞したため、中国側が当該国の留学生などを代理に立てて強引に授賞式を開くという不面目な事態も常態化していた(2013年に受賞した中国人僧侶の釈一誠のみ、本人が授賞式に出席)。

ちなみに2015年には、日中友好人士として知られる村山富市元首相が最終選考まで残ったが、村山側が健康状態を理由として辞退したため、賞はジンバブエの独裁者であったムガベ大統領に贈られている。

この孔子平和賞はあまりにも「茶番」感が強いためか、2017年を最後に廃止された。ただ、世界で最も権威があるノーベル平和賞に対抗するために、中国が「孔子」を持ち出したことは興味深い。孔子学院も孔子平和賞も、最終的には成功していないとはいえ、近年の中国はパブリック・ディプロマシーに孔子を盛んに活用しているのである。

孔子は世界史上でもソクラテスと並び称される有名な思想家だ。その言行録である『論語』も、人類全体の古典として各国語に訳され、広く読まれている。

現代の中国が他国からの尊敬を勝ちとりつつ、自国の知的・文化的優位性をアピールするうえで、アイコンとして最も適した人物なのは確かである。

2023年10月には、中国の人気テレビ局である湖南衛視で、「マルクスが孔子に会ったとき」という大型教養番組が放送されている。その内容は、マルクス(なぜか流暢な中国語を話す)が時空を超えて孔子の学堂を訪ね、ともに理想の世界について語り合うという珍妙なものだ。

マルクスが孔子と対談する?

番組中ではマルクス役の俳優が孔子役の俳優に「あなたと私の見解は多くの部分で似たところがある」と語りかけるシーンもあり、在外中国人の反体制派の間ではそのナンセンスぶりが物笑いの種になった。


中国の動画サイトで公開されている、「マルクスが孔子に会ったとき」の画面。シュールである

だが、番組は党機関紙『人民日報』のウェブサイトで大々的に宣伝され、同年夏にマルクス主義と中国の伝統文化との接続を唱える「第2の結合」の講話をおこなった習近平の姿が映像の冒頭に挿入されるなど、党の意向が強く反映されている。


全体を通じて、孔子の立場をマルクスよりもやや優越させているような印象も受ける。中国共産党は、いまなお「共産党」を名乗って鎌とハンマーの党旗を掲げているため、マルクスの権威は決して無視できない。だが、実質的に資本主義を導入している中国社会には、かつてマルクスが批判したブルジョワジーによる生産手段の独占とプロレタリアートの搾取が、他国以上に深刻な形で存在している。

党としては、マルクスをひとまず神棚に乗せ、実際の政治運営においては儒教に代表される中国の伝統文化に基づく統治をおこなう考えなのだろう。漢代から約2000年にわたって存在した儒教的な専制体制は、広大な中国を統治するうえで最も有効性が保証された政治形態なのである。

念のために付言しておけば、実際に『論語』を読むと、孔子は自分が政治家としてスカウトされることを望んだり弟子と冗談交じりの掛け合いをしたりと、人間臭く面白い個性を持つ人物だったことが伝わってくる。

日本の江戸時代の国学者だった本居宣長は、かつて「聖人と人はいへとも聖人のたくひならめや孔子はよき人」(世間で聖人と呼ばれてはいるが、孔子は聖人らしからぬ好ましい人だ)という和歌を詠んだ。春秋時代の教育者だった孔丘という生身の人間と、後世の国家統治イデオロギーの象徴になった聖人・孔子は、似て非なる存在なのだ。

ただし、近年の中国共産党が復活させたがっている孔子は、後者のほうである。西側とは異なる体制のもとで党が人民を支配する道具として、「聖人・孔子」はいまなお必要とされている。

(安田 峰俊 : ルポライター)