2024年4月に立教大学体育会陸上競技部の男子駅伝監督に就任した郄林祐介監督 Photo by Tsuji Shintaro

 第101回箱根駅伝予選会が19日に開催される。

 昨年は100回の記念大会で出場が13枠に増えたが、今年は例年どおり10枠だ。予選会には駅伝強豪校も名を連ね、厳しい戦いが予想される。
 
 立教大は、今シーズンから郄林祐介監督を迎え、3大会連続の本戦出場を目指す。

 駒澤大でのコーチ経験を活かし、6月の全日本大学駅伝予選会では5位で立教大を初出場に導いた。予選会通過を実現した取り組み、そして、高橋監督が立教大を率いて目指す先とは――。

 郄林は上野工業高校(現伊賀白鳳高校)から駒澤大学に進学した。

「高校は陸上競技に真剣に取り組む覚悟を持って進路選択をしたので、大学も自分が陸上競技をする上で一番プラスになるところはどこなのか、という理由で選択しました。大学は高校に比べて自分の裁量が大きく、その自由さに流されてしまう危うさを感じていました。そうしたなかで、大八木(弘明)さんがいる駒澤大学なら自分を高められる場になると考え、自分を鍛えられる駒澤大学に自ら手を挙げました」

 郄林は、中学時代から長距離志望だったがこの頃は貧血に悩まされ、顧問の勧めで400m、800mを主戦場にしていた。そこからめきめきと力をつけ、中学3年時のジュニア・オリンピック800mで優勝し、高校に入ると1500mや5000mに取り組んだ。インターハイ3年連続入賞、高校3年時の千葉インターハイでは1500mで優勝。そして、宇賀地強(コニカミノルタ監督)、深津卓也(旭化成コーチ)らとともに13分台トリオ(5000m)として駒澤の門を叩いた。

「高校時代に当時はまだ珍しい13分台のタイムを持っていたこともあり、宇賀地や深津とともに、1年生のうちから駅伝に出走して当たり前という考えがありました。しかし、記録こそ先輩方に勝っていたものの、練習を通して実力の差を痛感し、焦りも大きかったですね。同期のふたりが当然のように駅伝メンバーに名を連ねている姿を見て、自分も必死でその背中を追いかけていました」

 1年生で迎えた第83回箱根駅伝に郄林はエントリーメンバーに入り、7区を任された。

「特に希望する区間はありませんでした。夏にケガをしてしまい、同期3人の中で自分だけ出雲駅伝に出られなかったことが、ものすごく悔しかった。全日本大学駅伝でも部内競争は非常に厳しく、何とか走って自分をアピールし、箱根のメンバーに食い込もうという気持ちで挑んでいました。だから、どの区間を走りたいという余裕はまったくなくて、とにかくメンバーに選ばれることに必死だった」

 1年目の箱根でチームは総合7位、区間7位。「個人的にもチームとしても満足のいく走りはできなかった」という初の箱根だった。ここから郄林は4年生まで毎年箱根を駆け、2度区間賞を獲得。だが、「自分の納得する走りができた」感覚は一度もなかった。

「私が担当したのはエースが集う区間ではなく、確実に次の走者へ繋ぐ役割が多かったのですが、駒澤ではそのような区間では上位で走ることが必須でした。さらに、監督から設定された目標タイムを達成することが評価に直結します。たとえ目標タイムをクリアできたとしても、同期のふたりの走りと比べると、まだ及ばないという難しさを常に感じていました。『あと一歩足りない』というもどかしさが、いつも心に残っていたんです」

 郄林にとって箱根駅伝は、高校時代から「通過点であり、箱根で活躍できないと上には上がれない登竜門」。そのため常に上のレベルを目指し、結果を出したいと思っていた。同期の宇賀地と深津という高いレベルの選手に刺激を受けたことも大きいが、そこには郄林自身の競技に対する意識の高さがうかがえる。

 郄林が一番印象に残っている箱根は、3年時の第85回大会だという。

「優勝候補として迎えたのですが、総合13位とシード権を失ってしまい、衝撃が走りました。当時、私は復路で調整練習を終えて往路の様子をテレビで見ていました。これまでテレビに映るのが当たり前だった駒澤大学がまったく映らないという状況が信じられませんでした。往路が15位に終わった夜、監督から『お前を次のキャプテンにする。来年のためにも走りでなんとかしろ』と言われた時は、本当に驚きました。『このタイミングでそんなことを言うのか』と思いつつ、もうやるしかないという気持ちでした。いざ走り出すと、前も後ろも見えず、沿道からは『駒澤、何やってんだ!』というヤジが飛んでくる。走りで前に追いつきたいけど、追いつけない。チームの順位もよくわからない。チームの苦境と自分の無力さが交錯し、心の中には深い虚無感が渦巻いていました。」

 郄林は、チームが低迷するなか、意地を見せて8区区間賞を獲った。駒澤大学は総合13位に終わり、13年ぶりにシード権を失った。そんな状況でキャプテンになった郄林は、新しいシーズンがスタートした時、「大変な1年になるな」と思った。

「大八木さんにとって、駒澤に来てから初めてのシード落ち、予選会となりました。監督自身も私たちも、このような状況を経験したことがなかったため、不安が募るばかりでした。どうやってチームを作り上げていくのか、手探りの状態で進めたので、本当に大変でしたね。」

 チーム全体が停滞している状態で、個々の発奮が必要だと感じ、そのために選手に厳しく接した。「けっこうキレていました」と苦笑するほどだったが、チームづくりの上で郄林自らが「変わらないと」と感じるようになった。

「駅伝はチームで戦う競技ですが、陸上競技は基本的に個人競技であり、各個人のパフォーマンスが結果に直結します。そのため、当時は自分がしっかり走りさえすればいいという自己中心的な考え方を持っていました。しかし、キャプテンとして自分のこと以上に同期や後輩たちの士気をどのように高め、彼らを成長させるかが重要だと気づきました。そこで、一人ひとりに声を掛け、対話を通じて、チームのために自分が何をすべきかを真剣に考えるようになったのです」

 最後の箱根駅伝は9区を駆け、中央大と山梨学院大を抜いてチームを総合2位(復路優勝)に順位を押し上げた。チーム再建に尽力した主将の激走は、「駒澤大、復活」を強く印象付けた。

「『終わりよければすべてよし』という言葉どおり、最後には何とかいい結果を出せましたが、正直ホッとしました。出雲駅伝(10位)も全日本大学駅伝(7位)もうまくいかず、箱根の総合優勝はできなかったけど、復路優勝できて、許容できる結果だと感じました。ただ、最後の最後まで、本当にしんどかったです(苦笑)」

 この箱根の経験は、その後の郄林の競技人生に何か影響を与えたのだろうか。

「競技に直接的なプラスはなかったかもしれませんが、4年生での経験は、その後の自分の人生に大いに活きていると思います。これは、自分のことだけではなく、他の選手やチーム全体に注力して取り組んだからこその結果だと思っています」

 駒澤大学を卒業後、郄林はトヨタ自動車に入社した。

 いずれマラソンをやりたいと思い、まずは5000m、10000mをベースにマラソンにシフトしていく方向性で考えていた。

「私は現実主義で、『五輪を目指す』と口にできるタイプではありませんでした。しかし、実業団で結果を出す中で、世界の舞台が目標として見えてきたものの、あと一歩で届きそうで、届かないもどかしさを感じました。その過程で足の痛みを抱えながら我慢して続けていたのですが、体が言うことをきかなくなってしまいました。無理がたたって、ケガをしても元の状態に戻せず、最終的には『社業に専念したら?』と引退を勧告されることになりました」

 2016年、びわ湖毎日マラソンを最後に郄林は現役を引退した。

 学生時代は中高の教員になり、陸上部の顧問を務めたいと考えていた。しかし、実業団というトップの世界で戦うなかで、シニア(大学生・実業団)の指導者を志すようになった。ただし、陸上競技だけを知る指導者にはなりたくないという思いが元々あり、社業に専念することを選び、陸上競技の世界から離れた。

「トヨタの価値観や仕事の進め方など、会社の考え方はすばらしく、競技だけをしているのはもったいないと感じました。社会人としてトヨタで働き、さまざまなものを学び吸収することで、自分の糧にしたいと思いました。そして、将来指導者になった際には、それらの経験を指導に生かし、選手に還元できると考えたのです」

 当初は3年間程度の予定でいたが、気が付けば7年間になっていた。その間、他のクラブチームの運営を勉強させてもらったり、市民ランナーと接したり、陸上のイベント(ランフェス)を開催するなど、競技志向のチームにいると見えないものを見てきた。

「応援してもらうためには、ただ走っているだけではダメだと、さまざまなことを吸収させていただきました。しかし、6年間、指導者としてのオファーはまったくなく、年齢も30代半ばに差し掛かり、自分の将来を真剣に考えるようになりました。当時の職場の上司に、陸上競技の道を諦めきれないことを相談したところ、『応援するよ』と背中を押してくれました。では、どこで指導をしたいのかを考えたとき、思い浮かんだのは駒澤大学でした。大八木さんに相談し、研修という形で駒澤大学に受け入れていただくことが決まりました。当時、背中を押してもらった職場の上司と、受け入れていただいた大八木さん、藤田(敦史・現駒澤大学監督)さんがいなければ、今の私はありません。本当に感謝しています」

 2022年4月、郄林は16年ぶりにコーチとして母校の土を踏んだ。

(つづく)

■Profile
郄林祐介/たかばやしゆうすけ
1987年7月19日生まれ。三重県立上野工業(現伊賀白鳳)高等学校では3年連続インターハイで入賞し、2006年には駒澤大学文学部入部。学生三大駅伝では7度の区間賞を獲得した。卒業後はトヨタ自動車に入社。2011年全日本実業団対抗駅伝にて3区区間新記録を樹立。2016年に現役を退き、2022年駒澤大学陸上競技部コーチに就任。2024年4月立教大学体育会陸上競技部の男子駅伝監督に就任した。