【光る君へ】平安時代、藤原道長に仕えた”殺人の達人”源頼親、その驚愕の実態を解説:その3

写真拡大 (全4枚)

前回の記事はこちら↓

源頼親の生涯は、大和国における寺社勢力との抗争によって大きく左右されました。彼が大和国の国司として力を振るったものの、興福寺との衝突が彼の地位を揺るがし、最終的には彼の晩年を悲劇的なものにしてしまいます。

この章では、頼親が直面した興福寺との抗争、そして彼の最後の日々を見ていきましょう。

興福寺との対立が激化

頼親は藤原摂関家との関係を維持し、自分の政治基盤を固めながら行動していきます。

その甲斐あってか、頼親は大和守に三度就任。同国での勢力拡大に努め、寺社勢力と争いを繰り返していました。

しかし万寿4(1028)年12月4日、藤原道長がこの世を去りました。最大の庇護者を失ったことで、頼親の人生は暗転していくこととなるのです。

永承4(1049)年12月、85歳となった頼親に事件が起きます。

長らく争っていた興福寺の僧兵が頼親の邸を襲撃。頼親の次男・源頼房が応戦して興福寺の僧兵らを多数殺傷する事態となりました。

興福寺は朝廷に頼親と頼房を2人の処罰を求めて上訴。翌永承5(1050)年、86歳の頼親は土佐国(高知県)へ、頼房は隠岐国への流罪が決まりました。

以降、頼親の消息は知られていません。おそらく土佐国で生涯を終えたものと推測されます。

土佐国が源頼親の終焉の地となったと思われる。

頼親の後世への影響

源頼親の生涯は、武士としての成功と没落を象徴するものでした。彼はその武勇によって藤原道長の信頼を得た一方で、その暴力的な手法が彼の名声を傷つけ、最終的には流罪に至るという悲劇的な結末を迎えました。

しかし頼親を祖とする大和源氏は、その後の日本の歴史に深く関わることとなります。

やがて大和源氏は、大和国へ土着を強化。一部は構想していた興福寺と近づき、同化するに至ります。

平安末期のの保元元(1156)年、保元の乱において大和源氏の源親治(みなもとのちかはる)は崇徳上皇方で激闘。後白河天皇方に負けたものの、許されています。これは背後にいる興福寺を考慮してのことだったようです。既に大和国を代表する勢力の一つとなっていたことがわかりますね。

治承4(1180)年、親治は以仁王の令旨を受けて協力。摂津源氏・源頼政の元に息子を派遣しています。

南北朝時代には、南朝方として大森盛長を輩出。戦国時代には尾張国の土方雄久や肥後国の隈部親永なども出ています。

頼親の後世への影響は、武士の存在がどのように朝廷や寺社勢力に影響を与えたかを考える上で重要です。彼の行動は、武士階級の台頭とそれに伴う権力闘争を象徴しており、平安時代の武士の役割を理解する上で欠かせない存在となっています。

保元の乱。大和源氏も大いに活躍した。