ボール遊びを禁止する公園はなぜ増えたのか。文筆家の御田寺圭さんは「背景には地域社会そのものの高齢化がある。おそらく昭和の昔も子どもたちの遊びや集まりをやかましいと感じる高齢者はいたが、子どもたちの数が多かったため、文句を言っても跳ね返されていたのだろう。現在では子どもが少ないため、高齢者優位のコミュニティ運営になっている」という――。
写真=iStock.com/TATSUSHI TAKADA
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TATSUSHI TAKADA

■ボール遊びができなくなった公園

2019年に投稿されて大きな論争を呼んでいた画像が、なんの巡りあわせか2024年に再び脚光を浴びて大きな議論を呼んでいた。「お年寄りや体の弱っている方々は、金あみに野球やサッカーボールのあたる音が大変苦痛に感じます。これらの球技は絶対にやめてください。人の痛みの分かる人になりましょう」と書かれたものである。今回はさまざまなインフルエンサーが「子どもの遊びを禁止する公園」について意見を表明したこともあり、2019年当時よりも論争の熱量は大きなものになってすらいた。

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2019年当時もそうであったように「球技をやめてください、人の痛みのわかる人になりましょう」という掲示はもっぱら批判されていた。しかしながら、このような申し立てによって実際にボールを使った遊び(それどころか子どもたちが集まって遊ぶこと自体すらも)が、まったくできなくなってしまった公園は世の中にはそれなりにある。

この記事を読まれている皆さんがお住まいの街ももしかしたらそうかもしれないが、ネット上の批判とは裏腹に、いま全国各地で「ボール遊び禁止の公園」「集まってゲーム禁止の公園」が次々と誕生している。その背景には地域社会そのものの高齢化がある。

■「子どもに不寛容なお年寄り」が増えた理由

その街で暮らしている人が全体的にお年寄りになっていくと、日中も仕事に出たり外出したりせず、家で過ごしている時間が長い住民が多くなる。そうなると、これまでは気にすることもなかった子どもたちの声がかれらの生活にも届くようになる。煩わしくなったかれらは学校や行政に対してクレームを入れるようになるのだ。

またお年寄りが暮らしている住宅はたいてい築年数が経過しており、最近の高性能な住宅とは比較にならないほど遮音性能や制震性能が乏しいものだ。ひと昔前の家や建物は、子どもたちの声やボールの当たる音がよく響いてきて、なおのこと苦痛になってしまうという側面もある。冒頭の画像がそうであるように、築年数が経過した建物が多い町にある公園やグラウンドでまっさきに「ボール遊び禁止」「子どもが集まって騒ぐの禁止」になったのも偶然ではない。

いずれにしても、その町で暮らす住民が高齢化して一日中在宅している傾向が高まっていること、もともと遮音性・防音性の低い住宅であること、そのダブルパンチによって「子どもに不寛容なお年寄り」が爆誕しているのだ。

■「禁止」を無視してやりたい放題の子どもたち

しかしながら、仕事で都内をあちこち見ていると、上掲の画像とは少し対照的な光景も見かける。

私が時々仕事でその近辺を訪れる23区のとある地域。そこはいわゆる下町で、言ってしまえばややガラの悪い雰囲気を残しているエリアで、そこにはいまも子どもたちが多く集まり遊んでいる広めの公園がある。その公園の周囲には古めの公営住宅が囲むように建っている。案の定、そこには大きな掲示板にずらっと「禁止事項」が書いてある。

・ボール遊び禁止
・花火禁止
・ベンチで携帯用ゲーム禁止
・集まって飲食するの禁止
スケートボード禁止
・ローラースケート禁止
・ミニカー禁止
・モデルガン禁止

――など、覚えているかぎりのものを列挙していくとキリがないのでこの辺にしておきたいが、とにかく子どもが好きそうな遊びは徹底的に禁止禁止のオンパレードだ。もはやそこで許可されているのは呼吸くらいなのではないかといわんばかりに徹底して「遊び」を禁じている(ところがゲートボールなどで用いる高齢者向けの広場スペースはちゃっかり用意されているのがまた味わい深い)。

しかし、子どもたちはだれもそれを守っていない。

禁止事項だらけのその公園に集まっている子どもたちは、ボールで遊んでいるしねずみ花火を噴射させているしニンテンドースイッチで対戦ゲームをやりながらスナック菓子を貪り食っているしスケボー少年はスロープの手すりで思い切りトリックを決めて手すりやベンチはボロボロになっているし、とにかくやりたい放題やっている。

写真=iStock.com/SanyaSM
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■子どもの数が多かった時代は跳ね返されていた

とりわけスケボー少年たちは見た目的にもかなり「ワル」な雰囲気があるため、団地に住まう高齢者は眉間にしわを寄せたり睨みつけたりしながらその場を通りすぎていくのだが、彼らに直接抗議したり文句を言ったりする人はいない。何年か前に一度だけ、その公園で休憩しているときにスケボー少年団に果敢に抗議する高齢男性を見かけたのだが「うるせえ!」と逆に一喝されてあえなく終わっていた。

結局のところ、ある種の“ヤンチャ”な子どもがその局所的なエリアにおいて圧倒的に数で上回っていれば、「〜禁止!」などと言われようが「うるせえ! んなもの関係ねえよ!」とぶっちぎってしまえるのだ。

その公園はいつ訪れても子どもたちが本当に大勢いて、日本でいま少子化が深刻化していることを忘れさせてしまうくらい子どもでごった返している。このような勢力になってしまえば、その公園をどのように利用するのかを決める目には見えない「主導権」は子どもたちの側にわたっていく。

家でゴロゴロしているお年寄りが多少文句を言ったところで、なにも変わりようがない。自治体や公園管理者に「ご注進」してデカデカとした禁止事項を掲げようが、現実的なフェーズでその場所を「どう使うか」を決められるのは数で圧倒的にまさる子どもたちなので関係がないのだ。

おそらく昭和の昔も、子どもたちの遊びや集まりに対して「やかましい!」と目くじらを立てる暇な老人は一定数いたはずだ。しかしこれが大きなうねりとなって全国の公園や公共スペースが「老人優位」にならなかったのは、昔の人が寛大だったから――ではない。かつては全国どこを見ても子どもの数が多かったからだ。「そんなことをいちいち言ってもしょうがない」状況だったのだ。いくら文句を言おうが、子どもたちが数の圧力によって「うるせえ!」で跳ね返されていたのだ。

■少子化だけど「子どもの絶対数」は多い東京

東京はたしかに統計的に見れば出生率が低く「少子化」していることは間違いない。

しかしながら、「少子化」している一方で「子どもの絶対数」自体はきわめて多いことは特筆するべきだろう。統計的にはこれからの時代、日本で誕生する子どもの3人にひとりは東京圏の生まれになる。東京は間違いなく少子化の最先端ではあるが、しかし同時に子どもの単純な数では日本最多になり、それが東京における「高齢者中心主義」的な地域社会の意思決定をせき止めるフェンスとして機能している。

東京には日本が少子化に悩まされていることなど嘘だと思うほど子どもが大勢暮らしているエリアが局所的に散在している。そうしたエリアでは擬似的に「町の高齢化」が抑えられており、子どもたちが多数派になって公共空間の主導権を握り、高齢者有利の抑制的なマナーやルールや不文律によって子どもたちが縛られない「聖域」をつくりだしている。

逆に地方とくに人口過疎地域では高齢者の数が圧倒的に多く、公園はもちろん児童向け施設など子どものための公共空間も次々と潰されてしまい、その流れに抗うことができなくなってきてもいる。そうした地域では見かけ上の出生率は東京よりも高くても、高齢者本位の意思決定を「うるせえ!」と跳ね返すだけの絶対的な「頭数」がもう得られなくなっている。ゆえに「将来、子どもをどこで育てるべきか?」というイシューについては、見かけ上の出生率だけで判断するのではなく、暮らす街の純粋な「子どもの数」も考慮しておくのがよいだろう。

写真=iStock.com/Jay_Zynism
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■高齢者優位に塗り替えられていく地域社会

世の中のどこを見わたしても子どもの絶対数が少なすぎて、公共空間のイニシアティブを高齢者側に握られ、子どもたちや子育て世代はどんどん息苦しくなってしまう状況はこれから各地で増えていくことになる。

高齢者優位に塗り替えられてく地域社会のうねりに待ったをかけるには、先ほど例示した都内某所の公園のように「数の暴力」を示して巻き返していくほかない。ほかないのだが、しかし現実的に子どもの数を集めて「数の暴力」でもって巻き返せる地域は、いま全国に果たしてどれくらい残っているだろうか?

子どもが少ないため高齢者優位となった地域社会は、子どもではなく高齢者に都合の良いコミュニティ運営となり、子育て世帯を減らし、子作り意欲を低下させてしまい、さらに人口バランスが高齢者寄りになる。そうしてますます高齢者優位の意思決定がなされていく――という悪循環を止められなくなる。

■現代日本の政治システムにそのまま当てはまる

地域社会をじわじわと閉塞させるこの悪循環の構造は、そっくりそのまま現代日本の政治システムそのものにも当てはまる。

いわゆる「シルバー民主主義」をひっくり返すには、若者を一カ所に集中させて「数の論理」で押し返す(≒若者代表の政治家を国会に送り込む)必要がある。しかしながら、もはや若者は一カ所に集まったところでそこまで数がおらず、当落線上を争えるような候補者を十分に送り出すことができなくなっている。とくに小選挙区制になってしまったことでその傾向がさらに顕著になった。

若者は現行の政治制度・選挙制度では高齢者有利の意思決定に対してオフィシャルに風穴を開けることができなくなってしまっているので、私が例示した公園がそうであるように、とにかく数を集めて局所的に「ルール無視」ができるような戦略的互助関係の築かれたグループをつくっていく形で生き延びていくのだろう。実際のところ、起業家など若くて優秀なグループの若者たちと話をすると、「もうこの国が高齢者のために政治や税制をつくっているのはわかっているしそれをひっくり返すのは正攻法では無理なので、いかに国や行政から絞られず、その搾取の網目を潜り抜けられるかを、毎日仲間と知恵を出し合っている」というニュアンスの話ばかりを聞かされるようになった。

写真=iStock.com/PhotoNetwork
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■「日本の未来図」としか思えない

今日の話のしめくくりに、冒頭で紹介した画像をもう一度提示しておきたい。

これは見れば見るほど「日本の未来図」である。これほどまでに、私たちの社会が直面する景色を示しているものは少ない。

襲い来る「未来」の波から逃れられる場所はどこにあるのか?
自分や大切な人を「未来」から守るためにはどう行動すればよいのか?

なにも考えずに生きていくと早晩呑まれてしまう、そういうシビアな現実を私たちは生きているのだ。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)